引間城・城主と浜松まつり

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「引間城・城主と浜松まつり」


浜松まつりとの関係 郷土史家らは懐疑的な見方

浜松まつりの起源は、飯尾連龍の子「義廣」の誕生を祝って凧揚げをしたことが理由などととして紹介される。
しかし、このことに関して確固たる根拠、資料などない。
伝承が史実かどうかについて、「郷土史家らは懐疑的な見方」である。



飯尾氏四代の名前

 長連(おさつら)
 賢連(ただつら)
 乗連(のりつら)
 連龍(つらたつ)


戦国武将の名にみられる通字(とおりじ)。
徳川氏は、家康公の「家」が通字。 
飯尾氏の場合、通字は「連」になる。

「連」が四代も続いたのに、なぜ「義廣」なんでしょう?







東漸寺 2016年撮影






 

引間城 と 飯尾氏四代

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「引間城 と 飯尾氏四代」

乱世に生きた引間城飯尾氏四代

 長連(おさつら)-賢連(ただつら)-乗連(のりつら)-連龍(つらたつ)と続く飯尾氏歴代は室町後期における浜松地方の有力な武将であった。
引間城(浜松市元城町)を本拠とした飯尾氏は四代にわたって西遠の一角を支配、それは波乱にとんだ戦国武将としての生き様をした。
長連(おさつら)は今川氏のために討死にし、連龍(つらたつ)は今川に謀殺されている。まさに戦国乱世の縮図を飯尾氏の消長に見ることができる。

 浜松城が徳川家康によって構築される以前この地方の中心に位置して構えられていたのは引間城であった。浜松城の東北四〇〇メートルほどの位置に元城町の氏神である元城町東照宮が鎮座している。その元城町東照宮の境内を中心とする一帯が引間城址である。現在引間城祉には銀杏の巨木をはじめ、楠、椎、松、ユーカリなどの大樹が枝を広げ、市街地の中心に潤いある森を生み出しており、昭和五十三年十月、浜松市の保存樹林の指定を受けている。引間城祉の西側は国道152号線をはさんで浜松城公園駐車場やホテルコンコルド等の高層ビルが見られるが、太平洋戦争前は、引間城祉周辺は深い谷になっており、古城としての面影をとどめていた。


引間城の築城は謎

 引間城が何時頃、誰によって築かれたのかこれを明らかにする史料がないが、室町の初めにはすでに三河の豪族吉良氏の流れをくむ一族が城砦をこの辺に構えていたもののようで、
やがて浜松庄の領家吉良氏の代官として大河内備中守貞綱が引間城に在城するようになったようである。引間城について諏訪神社の神官であった国学者として知られる杉浦国頭(すぎうらくにあきら)は著書「曳馬拾遺(ひくましゅうい)」の中に次のように書いている。
「古城、この城は引間の城という、その築かれし初め定かならず、或記に久野佐渡守末子越中守家進、永正の頃、三善為連(みよしためつら)と言う人城にとりたてけるよし見えたり。又或記に永正の頃、三河の国臥蝶城主大河内備中守貞綱、引間の城を築き、斯波武衛等加勢して駿河の今川をは拒む・・・」築城者は明らかではないが、引間の城は室町時代の中頃に築かれた城のようである。



引間城 2012年撮影





飯尾氏の系譜

 さて遠江における武将の一人として飯尾氏の名がはじめて登場するのは今川氏親(いまがわうじちか)の時代である。氏親が遠江に入国した当時、飯尾善左衛門尉長連が引間の奉行として浜松の地にあった。飯尾氏はもともと室町幕府の奉行人であったようで遠江浜松入りは今川氏の招きによるものであった。当時の遠江は土豪たちが強い勢力圏をもっていただけに、今川氏としてはそれを押えてゆくのに精一杯であった。わけても中遠から東遠にかけては横地、勝間田の両氏が反今川色を打ち出し、氏親の子義忠の代わりになり横地、勝間田は狩野介の居館(磐田市見付)にたてこもって抵抗した。義忠は見附にこれを攻め、激しい闘いの末、横地、勝間田の両氏を滅亡においやった。

だが駿河への帰陣の途中で、義忠は横地氏の残党に襲われ、塩買坂(小笠郡小笠町)において討ち死にしてしまった。この戦いの時義忠と行いを共にしていた飯尾長連も討死にしていることが「今川記」や「宗長日記」に見えている。
この連歌師宗長が書き綴った「宗長日記」は戦国期の駿遠の動きを知るえで、きわめて良質な史料とされており、飯尾氏の事も登場する。

すなわち「宗長日記」大永二年(1522)の「朝比奈戦忠の次第」の項の中には次のようにみえてくる。
「浜松庄吉良殿御知行奉行大河内備中守、堀江上野守にくみしてうせぬ。其刻、飯尾善四郎賢連、吉良より申し下され、しばらく奉行とす。すべて此父善左衛門尉長連、義忠入部の時に、当庄の奉行として、度々の戦忠、異他なり。あまつさえ、義忠帰国の途中にして凶事。名誉の防矢数射尽し、則討死。其子善四郎乗連、伯父善六郎為清其旧号わすれたまはず。」
この一文によって飯尾氏の系譜も判る。遠江における飯尾氏の初代飯尾善左衛門長連が、塩買坂において討死してのち、引間奉行として引間に往来したのが大河内備中守貞綱が引間城の築城者と考えられるとしるされている。大河内備中守貞綱はやがて今川氏親に反抗したため、氏親はこの城を攻め、備中守は逃亡したことが諸書にみえており、そのあとの引間の奉行として今川氏が任命したのが、塩買坂で討死して長連の子善四郎賢連である。かくして賢連は浜松庄の代官として引間城に入り、以後引間城は賢連からその子善四郎乗連へ、そしてさらに連龍へと時代の流れをみる。


飯尾ゆかりの東漸寺

 浜松市向宿町に寿量院という臨済宗方広寺派の寺がある。この寺に残されている中世文書六点が浜松市の文化財(古文書)に指定されているが、そのなかに飯尾乗連と飯尾連龍が授龍庵(寿量院)あてに発した寺領安堵の判物があり、天文から永禄にかけて飯尾氏が今川を背景として大きな力をもっていたことがうかがわれる。
ところが、永禄五年(1562)今川氏真が突如として引間城の飯尾連龍を攻撃している。連龍が今川氏に反抗の動きをしたからである。今川氏は義元が尾張国(愛知県)桶狭間で討死して以降家運がにわかに斜陽化、義元が討死した永禄三年(1560)の翌年になると飯尾豊前守連龍は、浜名湖の井伊氏等と共に、織田、徳川方に従属する動きをみせた。これを知った今川氏真が永禄五年(1562)二月に引間城に連龍を攻めたのである。このときの寄せ手の大将であった新野左馬助は討死した。一方城側も多くの死傷者を出し、飯尾氏の家臣渥美、森川、内田といった面々が討死している。
当時の引間城がどれほどの規模であったものか明確ではないが、江戸期に描かれた浜松城絵図のなかに「古城」として記入されている一部が引間城のあととされている。今でこそ周辺の谷が埋めたてられ、小高い丘陵といった感じだが、昔は自然の地形を巧みに利用した要害の城であったと思われる。

東漸寺 2016年撮影






連龍、悲運な最後

 永禄五年(1562)の攻防戦は守りが固く、今川氏真はこの城を落とすことができず、結果和睦の形で幕がおろされた。しかし氏真は飯尾連連に対し深い疑念を抱いていたため、永禄八年(1565)十二月、連龍を駿府に呼び寄せ、城内の一角において謀殺してしまったのである。わずかな共の者を連れただけの駿府入りであったため、氏真の奇略の前に逃れることができず、悲運の最期をとげたのだった。その後の引間城は、飯尾連龍が殺害されたことにより大きくゆらいだ。家老の江間安芸守と江間加賀守の対立はこの城の瓦解に拍車をかけ、やがて永禄十一年(1568)德川家康の浜松入りによって引間城は家康の掌握下に入った。四代にわたった飯尾氏の遺風は引間城の廃城によって完全に消え去った。
引間城に入った徳川家康はこの城を遠江経略の拠点とするには規模が小さすぎるとし、西側にある独立丘陵まで拡張し引間城の旧城地は浜松城内に抱擁した。
江戸時代、引間城には米蔵がおかれていたことが城絵図によって判る。
   (参考 遠江武将物語/神谷昌志)

飯尾氏は、初代飯尾善左衛門長連(1522年)から、賢連、乗連、連龍(1565年)へと飯尾氏四代、43年にわたり城主として引間城に在城していた。

また、引間城と飯尾姓にまつわるおもしろいデータがある。
電話帳データ静岡県内約150件のうち、約130件が浜松市内に集中し、特に引間城のある浜松市中区では、1位高林地区、2位曳馬地区で64件もあるのだ。
飯尾氏か、またその一統か、何らかの関わりがあることは間違いないだろう。


浜松まつりとの関係 
「郷土史家らは懐疑的な見方」

浜松まつりの起源は、飯尾連龍の子「義廣」の誕生を祝って凧揚げをしたことが理由などととして紹介される。しかし、このことに関して確固たる根拠、資料などない。伝承が史実かどうかについて、「郷土史家らは懐疑的な見方」である。


飯尾氏四代の名前

 長連(おさつら)
 賢連(ただつら)
 乗連(のりつら)
 連龍(つらたつ)

戦国武将の名にみられる通字(とおりじ)。
徳川氏は、家康公の「家」が通字。 
飯尾氏の場合、通字は「連」になる。

「連」が四代も続いたのに、なぜ「義廣」なんでしょう?










 

遠州・三河の八幡八社めぐり

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「遠州・三河の八幡八社めぐり」
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恒例となった、新年「遠州・三河の八幡八社」をめぐる一日。
今年も元旦3日に決行。
男三人で楽しい一日となりました。
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②若宮八幡宮(磐田市)
③事任八幡宮(掛川市)
④府八幡宮(磐田市) 
※大樹寺(岡崎市)
⑤上地八幡宮(岡崎市)
⑥伊賀八幡宮(岡崎市)
⑦豊川八幡宮(豊川市)
⑧牛久保八幡社(豊川市)
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①浜松八幡宮(浜松市)→元旦
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「八幡神・弓矢神」
 八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
日本においては弓矢の神ではなく「弓矢神」という一つの単語になっていて、応神天皇(八幡神)のことでもある。応神天皇を祀っている八幡神社の数は、稲荷神社に次いで全国第2位で広く信仰されてきた。また弓矢や運命や確率に関わり幸運を願う時には「八幡」という語が使われてきた歴史があり、八幡は祈願と弓矢の意味が一体となす語として、射幸心という語の語源ともなった事由である。これらのことからも古くから弓矢が信仰の対象となってきたことが窺える。また八幡神は八幡大菩薩としても夙(つと)に知られ、「南無八幡」と言う慣用句からもうかがい知ることができる。
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『神は人の敬いによりて威を増し、
  人は神の徳によりて運を添ふ』
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「射幸心」
射幸心(しゃこうしん、射倖心とも)とは、人間の心理として「幸運を得たい」と願う感情のことで、その心理的な欲求を抱く状態を意味する。しばしば「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい」という心理状態をも含む。古くから人は幸福を願うことにおいて、様々な儀式や占いや競技の結果の善し悪しで未来を予想したり、その結果に備えたりしてきた。そのような意味で風習や習慣やあるいは宗教儀式などの形で祭りや神事に姿を変え継承された文化も人間の射幸心によって体現されたものと解釈できる。
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「夙(つと)に」
ずっと以前から。早くから。
「彼は夙にその名を世に知られていた」






 

令和3年元旦 浜松城お持て成し

カテゴリー │お城神社・寺・史跡

一年の計は元旦にあり

令和3年元旦
「浜松城お持て成しと家康公縁の三社参拝」


令和3年元旦。
毎年恒例の浜松城お持て成しと家康公縁の三社参拝の日であった。
今年は、家康公浜松城入城450年の年でもあり、館内リニューアル初日でもありましたが、新型コロナウイルスの関係で恒例の初日の出開城はなかったものの、それでも地元のお客さんが来城してくださり良き一日となりました。

また今回は地元のお客さんで、しかも歴史好きのお子さんの来城が多かった。秋葉神社さんでもそんなご家族にお会いしました。
しかも子供たちみんな礼儀正しい。感心しました。近い将来がホント楽しみ。

春にはコロナが終息し、お祭りができるようになるといいのですが、、、。


今回ご来城下さったお客様。そして浜松城の関係者の皆さん。
皆さんありがとうございました。そして、朝早くから。また寒い中本当にご苦労様でした。




「時代まつりの件」
 ※HPなどで開催日の確認をお願いします。

・3月後半の日曜日
高天神社例大祭(駿府鉄炮衆火縄銃演武と遠州鎧仁會お持て成し)

・4月前半の土曜日
静岡まつり(駿府鉄炮衆火縄銃演武と遠州鎧仁會お持て成し)

・5月5日
長篠合戦のぼりまつり(日置流雪荷派具足弓演武、火縄銃演武)





















































































 

N-Trip 熊野三山

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N-Trip

◆熊野


「熊野本宮大社」
「熊野那智大社」
「熊野速玉大社」


「紀伊山地の霊場と参詣道」

古くから神々が鎮座する特別な地域として崇められた紀伊山地。
和歌山・奈良・三重にまたがって険しい地形が連なり、独自の発展を遂げた「高野山」「吉野・大峯」そして「熊野三山」の三つの霊場が誕生し、それらを結ぶ参詣道が形づくられました。
今も自然と人間の営みが紡ぎだす「文化的景観」が人類共有の財産として認められ、平成16年7月、世界遺産に登録されました。


※ 熊野三山
「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3社と「那智山青岸渡寺」の1寺を「熊野三山」と呼びます。「熊野三山」は、「熊野古道(熊野参詣道)中辺路」によって結ばれています。


ミシュラン三つ星!「わざわざ旅行する価値」が熊野にはあります。
日本全国の観光地などの魅力を三つ星・二つ星・一つ星で評価した、外国人観光客向けガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」(ミシュラン発行)。こちらで、"熊野古道""那智の滝""熊野三山"は「わざわざ旅行する価値がある」三つ星として掲載されています。


"熊野牛王符(くまのごおうふ)"とは?
"熊野牛王符"とは、熊野三山の神札で、「熊野権現のお使いの烏」(からす文字)と「宝珠」を組み合わせたデザインは、社名などを表します。本来は災難よけの「護符」でしたが、その裏に起請(誓約)を書く「誓紙」に用いられるようになりました。










































 

平成31年元旦浜松城初日の出開城お持て成し

カテゴリー │神社・寺・史跡

『平成31年元旦浜松城初日の出開城お持て成し』


・浜松城初日の出開城お持て成し
・家康公縁三社祈願参拝

浜松市中区家康公縁三社
・浜松八幡宮 ・三組町秋葉神社 ・浜松五社神社諏訪神社






















































 

日本の伝統的な新年の装飾

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『日本の伝統的な新年の装飾』

Traditional New Year decoration around Japan.


『注連縄』『注連飾り』


 理由は、神社が注連縄を張りめぐらせるのと同じです。
そもそも正月行事というのは、年神様という新年の神様をお迎えするための行事です。年神様は家々にやってきて、生きる力や幸せを授けてくださると考えられています。そこで、お正月が近づくと注連縄や注連飾りを施し年神様を迎える準備をします。

 注連縄(しめ縄)には、神様をまつるのにふさわしい神聖な場所であることを示す意味があります。注連縄が神の領域と現世を隔てる結界となり、その中に不浄なものが入らないようにする役目も果たします。その由来は、天照大神が天の岩戸から出た際に、再び天の岩戸に入らないよう注連縄で戸を塞いだという日本神話にあるとされ、「注連(しめ)」には神様の占める場所という意味があるといわれています。

 注連飾り(しめ飾り)というのは、しめ縄に縁起物などの飾りをつけたものをいいます。代表的なのが神様の降臨を表す「紙垂」(かみしで/しで)、清廉潔白を表す「裏白」、家系を譲って絶やさず子孫繁栄を願う「譲り葉」、代々栄えるよう願う「橙」などです。

 日本の正月に、家々の門や玄関。出入り口や車などにする注連飾りも注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、注連縄や注連飾りを施すことでその内側が清らかな場所となり、年神様が安心して降りてきてくださるわけです。
また、大相撲最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが締めることができる横綱も注連縄の一つであります。



●日本神話
 天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされる。

●稲作信仰
 稲作信仰は神道の根幹をなす一つであり、古くから古神道にも存在し、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられる。

●古神道
 神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰した。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた。

●注連縄の形は極めて多いが、三つ四つの基本的形式がある。
 一般にところどころに藁の切下げが垂れており、その効果を強めるために、真白い紙を細く剪って垂らす。
さらにその上に裏白などの山草・ゆずり葉・橙・ホンダワラなどの海藻や海老を添える。これはいくらか幸木の性質を帯びたものと思われる。

●「正月の飾り物と食べ物の由来」に、注連縄とその形について、以下のように書かれている。
 暮れのうちに煤掃、注連縄、鏡餅や小餅をつかせ、門口には門松、床には鏡餅を飾り、蓬莱を作る家もある。この注連縄は「しりくめ縄」ともいう。
天照大神が天岩戸に籠って天地が暗闇になった時、再びそういうことがないよう藁縄を作って戸口に掛けた。これが「前垂注連」で、これの簡単なのが「輪注連」である。”

●「五社」
 特殊の事由により五社の神社を総合したもの、または一社にして祭神の御所なるをもいう。

●「三社」
 天照皇大神宮、八幡宮、春日神社を指して特に三社という。

●「注連飾」
注連縄を装飾的に見て呼び習わした名称。
多く民間に於いて新年に神棚、床の間、竈、井戸、門戸、街路の両側等に張り渡し或いは懸けたもの。
現在は装飾の如く取り扱われて居る場合が多いが本義は清浄を俟ち、汚穢を隔てる意義を有する。

●「注連縄・七五三縄」
 神前、神聖な区域等に渡して不浄を界隔する。
もとは尻久米縄、端出之縄といい藁の尻を断去せず込めおく縄の義。起源は「天岩屋」である。
注連縄には、その形によって前垂注連、鼓の胴、大根注連、牛蒡注連、輪飾り等の種類がある。
いずれも新しい藁をもって左綯にして紙垂を挿んで垂れる。


『良い年になりますように』

I wish you a happy new year.




蘇民将来子孫家門/三重県伊勢市


宝結び・黒米/愛媛県宇和島市


三社飾り/香川県
香川の「三社飾り」は「アマテラス、氏神、家の神」の象徴だということ。


ほしの玉/宮城県気仙沼市


鶴亀しめ飾り/島根県出雲




鶴・亀/愛媛県宇和島市


火防飾り/静岡県富士宮市



牛蒡注連




輪〆


門松




 

神棚の里

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 『神棚の里』


 モダン神棚。 私は有だと思う。

 神棚の里は、伝統的な神棚からモダン神棚、神饌・神具や外宮まで扱う神棚の専門店。
日本が古来から継いできた「自然を敬い、神さまをまつり、感謝する心」を大切に、良質な純国産材と熟練の作り手による真摯なものづくりに励んでる。



 「神棚の里/静岡木工」

 わたしたちがお届けするのは、単なる木材の加工品ではありません。
神様、自然、それから過去未来。つながりを確かめられる場所を感謝の思いを深くするひと時を提供して参ります。
弊社は船大工であった初代がその腕を活かし、木製品の製造を始めたことが始まり。昭和36年(1961年)には、前身となるなる会社を立ち上げ、以来、50余年に渡り、神棚を中心とする木製品をお届けすることで、日々の安らぎをご提供できるよう努力をして参りました。
わたしたち日本人には、先人より受け継いだものがあります。自然を崇め、神様を祀り、感謝を捧げる。今回、神棚の里にご来店いただいたあなた様はその心を大切にされている方。そんなみなさまのお役に少しでもお役に立てるよう、そして「神棚の里に任せてよかったよ」といっていただけるよう日々精進を続けて参ります。


期間限定 MODI 静岡モディ1F
https://www.rakuten.ne.jp/gold/kamidananosato/

神棚の里 浅草店
https://shopping.geocities.jp/kamidana/index.html

静岡木工 
http://shizuokamokko.com/






























 

秋葉神社の件②  (浜松市中区三組町)

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秋葉神社の件②

『子供達に残そう!家康の秋葉の杜を』 



 売却の話がある場所の画像が入手できました。
秋葉神社のある場所の真横。 

こんなところ買って何すんだって場所です。
何か建てるとなったらこの山を削るんですか?

 買う側も売る側も、何考えてんだって思う。

地元の住民が嫌がるようなことを、行政や法人がやるなよ!




下記は、秋葉神社の件①より・・・・・・・・・・・・・

・秋葉神社に隣接する市有地を浜松市が売却?
・この市有地は中区三組町28-29、1757平米、元測候所の南側のきり通しの上にある土地(普通財産)。

・元は家康が浜松に入城した際、山家三方衆が西の守りとして屋敷をもうけ、その後秋葉神社を勧請。

・三組自治会と、歴史の舞台を守る会の連名で提出された3000筆近い要望書を提出した人たちへの説明会に約60名参加。市の担当者であるアセットマネージメント課は十分に質問に答えられず、1時半の予定時間を過ぎても、質問の手が上がり続けた。参加者から説明会の続きをやって欲しいとの声が上がったが、「できません」の一点張り。


関連情報⇒ http://megu.hamazo.tv/e7699530.html










※売却予定とされる土地。秋葉神社社務所の真北に位置する。



※北側から見た売却予定地。























 

今川復権② 「今川貞世と袋井市海蔵寺」

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今川復権② 「今川貞世と袋井市海蔵寺」


 今川了俊 / 今川貞世

 今川了俊とは足利一門吉良氏の庶流である今川範国の次男貞世のことである。侍所頭人や引付頭人などの要職を歴任し、足利尊氏、足利義詮に重用された。
嘉暦元年(1326)生まれで没年は応永二十七年(1420)であるといわれ、享年九十六歳ということになる。当時としては驚異的な長寿であったといえる。

 了俊は永和四年(1378)に遠江守護に補任されているが、その事跡は足利幕府の九州探題としての功績の方が著名である。また歌人としても後世に名を残しており、まさに文武に秀でた武将であった。
了俊が九州探題を命ぜられたのは応安三年(1370)で、足利義満が三代将軍となった翌年のことであった。当時の九州は南朝方の勢威が盛んで、幕府派遣の探題が九州の地にも入れぬ有様であった。新将軍の威光を示さなければならない次期探題に課せられた使命は重大であった。
 
 了俊はその重責を担って、弟の仲秋、子の義範、そして郎党及び遠江の地侍たちを引き連れて九州へと向ったのである。
応安四年七月、まず義範が豊後高崎城に入った。南朝方との合戦は百余度に及んだといわれている。また仲秋の軍は十一月、肥前に上陸して松浦氏をはじめ肥前の諸氏を糾合し、南朝方を各所に打ち破り筑前へと進んだ。
十二月、了俊は門司に上陸、翌年春には仲秋軍と合流して大宰府北方の佐野山に陣した。包囲すること数ヶ月、八月十二日ついに大宰府から南朝方を駆逐して占領した。まさに十二年ぶりの大宰府奪還であった。

 以後二十五年の長期にわたり菊池氏ら南朝方との戦いと九州諸氏の糾合に力を尽くし、幕府の権威を確立したのであったが、応永二年(1395)に突然の解任をもって了俊の九州平定事業は終結した。
 解任は幕府中央の権力構図の変化によるものであった。それにしても了俊の功績に対する幕府の態度は冷たかった。わずかに駿河半国を了俊に与えたに過ぎなかったのである。了俊は一時、将軍義満に対する反発から大内義弘に加担(応永の乱)、関東管領足利満兼との連携を策している。
 しかし乱は鎮定され、関係者は将軍に恭順の意を表した。義満の政治を悪行、無道と非難した了俊も失意のうちに異心のないことを誓い、所領であるここ堀越に隠棲を決めたのであった。
晩年は歌道と仏道三昧の日々を当地で送り、再び世に出ることはなかった。



 袋井市海蔵寺

 静岡県袋井市の海蔵寺は、今川了俊が創建したと言われています。
海蔵寺には了俊の供養塔があり、330回忌にあたる、江戸時代の1749年に建立されました。



















 

今川復権① 「今川範国と磐田市福王寺」

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 今川復権① 「今川範国と磐田市福王寺」

今川範国
 西条吉良氏の庶流である今川氏という小領主もいいところの、さらに今川基氏の五男という立場から一気に国持ち大名まで出世を遂げた駿河今川氏の祖である。
足利高氏の鎌倉幕府からの離反から付き従っているが、彼ら今川氏の最初の出番は中先代の乱である。足利直義は敗走の末に足利氏第二の本拠地である三河で立て直しを図り、京都から進軍してきた足利尊氏と合流するが、その中に今川氏も混じっていた。
 
 小夜中山の戦いで敵軍の大将名越邦時を、長兄・今川頼国が討ち取るほどの活躍を見せた今川氏は、まず長兄・今川頼国、三兄・今川頼周が相模川の戦いで戦死、次兄・今川範満も小手指原の戦いで戦死、そして四兄は早くに出家していたため、いきなり今川範国一人になってしまったのである。
とはいえ、今川範国は兄たちの勲功も併せて駿河、遠江の守護になったのだ。その後も範国は足利尊氏に従い新田義貞、北畠顕家らと戦い、室町幕府成立に関わる戦いには必ず参加している。そもそも駿河、遠江自体宗良親王が拠点を構えていた南朝勢力の活発な地域であり、そんな重要地域を任されるほど尊氏からの信頼は厚かったのである。

 そして観応の擾乱では甥の丹後・因幡守護今川頼貞が足利直冬につき没落したのに対し、当然足利尊氏につき薩埵峠の戦いでは軍功をあげ、幕内での地位を確かなものにした。1353年に家督と守護職を嫡男今川範氏に譲ると隠居しようとするが、尊氏の強い要請で政界に復帰し引付頭人を務めるなど幕政を支えた。1384年没。


 磐田市福王寺の石塔
 今川範国は1384年に亡くなり、磐田市見付の定光寺にほ葬られた。定光寺は現在の東定光寺山にあった寺で廃寺跡に「今川様・五輪様」と呼ばれる石塔が残っており、現在は範国の墓として福王寺に移築されている。

 福王寺は今から1000有余年前に真言宗高野山の末寺として建立。その後、500有余年前の文安元年(1444)に天翁義一禅師を迎え曹洞宗に改宗。爾来法灯連綿として現在に至っている古刹である。
 寺の寺号「風祭山」と称する云われは、古文書によると開創当時の永観2年(984)に遠州一帯に暴風が来襲した時、たまたま京都から諸国行脚の途次に来遠していた陰陽師安倍清明のご祈祷によって、暴風を鎮められ多くの人々の災難を救われたとある。

 このことによって福王寺の山号を「風祭山」と称し、それ以来、毎年3月8日に風祭りの行事が行われている.なお、ご祈祷の旧跡が境内の西の小高い所に今も苔むして残っている。
ご本尊聖観世音菩薩(重要文化財)は行基菩薩作と伝えられる秘仏である。

 福王寺http://enshu33.com/all-guide/%E7%A6%8F%E7%8E%8B%E5%AF%BA/

















































 

駿府へ 今川氏・清見寺・静岡浅間神社

カテゴリー │神社・寺・史跡

 「駿府へ」 今川氏・清見寺・静岡浅間神社


●「第一回 今川トークセッション」

主催:今川義元公生誕500年祭推進委員会(小和田哲男委員長)
場所:日本料理うおかね(静岡市葵区)
コーディネーター:伊藤圭介氏(フリーアナウンサー)
ゲスト:小和田泰経氏
特別ゲスト:田辺信宏静岡市長


●「清見寺」 公式サイト⇒ http://seikenji.com/

 清見寺は臨済宗妙心寺派に属し本尊は釋迦如来、開山は関聖上人であります。
寺名は詳しくは、巨鼇山清見興国禅寺と称し境内の面積は六千余坪、建物の坪数は五百五十余坪あります。
寺の位置は静岡市清水区興津地区にあります

 寺伝では奈良時代の創建と伝える。鎌倉時代に禅寺として復興し足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。またその頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。
交通の要衝であり武田氏による駿河侵攻の際には今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。
 また、駿河湾を望む風光明媚な高台にあり室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。


●「駿河国総社静岡浅間神社」
この一年のお礼参り。
公式サイト⇒ tohttp://www.shizuokasengen.net/yuisho.html

 神部神社・浅間神社(二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と申し上げる。神部神社は第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社である。


●「レストランシェーブル」 静岡市駿河区谷田41-30-103

 静岡県立美術館からすぐそば。(まずはそこがお勧め)
歩いても行けるフレンチのお店。
店名はフランス語で「ヤギ」笑。
こぢんまりとしたお店ですがかえってそこが落ち着きます。
 今回のオーダーは、エビオムライスセット(スープ・サラダ・ドリンク付)¥1,400と季節の野菜と海の幸グラタン(自家製豆乳パン・スープ・ドリンク付)¥1,400。
スープもメインのオムライスも文句なく美味しかったです。



















































































 

龍雲寺坐禅会と世界一大きい般若心経

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「龍雲寺坐禅会と世界一大きい般若心経」

 本日は朝6時から、浜松市中区にあります臨済宗妙心寺派の龍雲寺さんでの坐禅会に参加。

 龍雲寺さんでの坐禅会は初の参加ではありましたが、まず驚いたのが新しくなられた涅槃堂(ねはんどう)。
約100畳の広間、そして書家・金澤翔子さんの世界一大きい般若心経がそこにはある。

 ホントに驚く。凄いです。

 壁一面のその大きさと約300字からなる般若心経には本当に圧倒されます。

 坐禅会に入る。
坐禅会が始まり住職さんの話を聞き入る頃には少しずつ落ち着きが戻ってくる。

 無になろうとする。

 約40名が居る広間とは思えないぐらいの静寂。静かだ。
警策(けいさく)の音が響いてくる。
何だかドキドキする。自分もと、手を合わせる。

 一瞬熱くなるものがある。
けれども打たれてみるとスーッと引いてゆく。
何やら更に落ち着くような気がする。

 いいものだ。

 今日のこの日は偶然の出来事で始まった。
しかし、必然なのであろう。

 金沢さんは「感謝」。 私は「感謝、感謝、感謝」です。

龍雲寺さんhttp://www.ryouun.com/index.html

金沢翔子さん書展http://www.ryouun.com/syoko.html
























































 

元城町東照宮について

カテゴリー │お城神社・寺・史跡

元城町東照宮について



●元は、今川系飯尾氏四代の居城引間城があった場所である。


●戦国時代には、幾度となる戦いにおいて数多くの者が戦死、
  あるいは自刃、滅亡と追い込まれている。


●正式名称は元城町東照宮。
  浜松東照宮、浜松元城東照宮ではない。


●明治17年旧幕臣井上八郎が私的神社とし今現在の場所に創建。


●東照宮とは言うものの。全国東照宮連合会への加盟はない。


●若き日の豊臣秀吉が引間城に来た。とされているが、その信憑性は極めて低い。
  (太閤素性記、明良洪範)
  
●引間城に徳川家康が⇒住んではいない。

●出世神社。 近年、命名。







 

天宮神社 と 小國神社

カテゴリー │神社・寺・史跡My Favorite/私の好きなもの

 「天宮神社 と 小國神社」


  28年最初の〆は、北東へ。 天宮神社と小國神社。


 天宮神社(あめのみや) 静岡県周智郡森町天宮

 当神社は第29代欽明天皇の頃(約1500年前)に小碓命(日本武尊)の後裔太田の君、守の君の氏族が先祖の遺跡を訪ねてこの地を開き、筑紫の国宗像の御神霊を迎え大氏神として鎮斎せられたのに始まります。
 文武天皇慶雲2年勅願により社殿等の造営がなされ、その折京都から藤原綾足が神官として赴任し京都の楽人により舞楽が奉納されました。以来十二段舞楽は今日まで連綿と伝承されてきています。
 神社・社殿は、室町時代に焼失し、一時衰退をしましたが、徳川家康公によって社殿が造営され、その後修営にあたって、遠州横須賀城主の隠岐守西尾忠成公を奉行に幕府の直参棟梁の甲良豊前宗賀によって完成したのが現在の社殿であるといわれています。












 神木 梛の木(ナギの木)

 梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良春日神社には平安期900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1,400余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が
   「神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は  
      千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず」
                          と歌われた誌が有ります。
 鎌倉の尼将軍と名をはせた北条政子が若き日に伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされます。後に、1192年源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも梛の木の文献が数多くありますが、当熊野神社の本宮 紀州熊野神社那智の大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1,000年の梛の巨木有り。
 千古の昔より信仰熱く当神社にも「縁結び」の神々が坐します梛の木との関わり深く神木として大切に生育したいと思います。





 
その名が「凪(なぎ)」に通じることから船乗りの信仰を集めたが、船乗りだけでなく、一般の人たちもその葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏に入れる風習もあった。長さ4~6cm、幅 1.7~2cmの光沢のある葉は筋が強く、いくら引っ張っても切れないというので、夫婦の絆が切れることのないよう願いを込めて鏡の裏に入れたという話や、鏡の裏に入れておくと会いたいと思う人が鏡面に現れるという話など、この木にまつわる伝説は多い。


 ※梛の葉を頂きました。 河合さんありがとうございました。


 梛(なぎ)/和ぎ・凪・薙ぎと表記したときの意味合いの別

1.「和ぎ」は和やか、穏やかな状態であり、主に心情や情勢に用いられる。
2.「凪」は和ぎと同意でもあるが、現在では風が無く穏やかな波のない海の状態をさす場合が多い。また、数少ない国字(和製漢字)であり風が止まっている状態をあらわしている
3.「薙ぎ」は山が崩れ平らになりつつある状態や草木を刈った平坦な野原を指すが、横に打ち払う(薙ぎ払う)という意味もある。そのことから神事としての祓い清めを意味する。また薙の神事が日本各地にあり、内陸地方での嵐や大風を鎮める行為とされる。珍しい文字では「(なぎ)」があり、崩れという意味から薙ぎの当て字である。

 「なぎ」には様々な漢字表記があり、同音異句の樹木や山・地名としても多く使われている。そのほとんどが日本の神道や神話や古神道における信仰の場所に関わるもので、神社の名や日本の神の名の一部として使われている。


 ※頂いた梛の葉を一輪差へ(青宵作)  額装(ページワン)





  小國神社(おくに) 静岡県周智郡森町一宮

 大己貴命は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と呼ばれ、神話の中でも「因幡の白うさぎ」はよく知られており、赤裸にされたうさぎを助けられた心のやさしい神さまです。(一般には「大国様(だいこくさま)」と呼ばれ親しまれています。)
豊葦原の国(日本の国)を稲穂がたくさん稔る豊かな国に造りあげ、天孫に国をお譲りした神さまとして「国作之大神(くにつつくりのおおかみ)」・「大穴牟遅神(おおなむじのかみ)」といわれています。

また、農業・山林・鉱業・縁結び・医薬の開発・禁厭の法(鳥や害虫から作物を守る方法)を授けた神さまとして「大物主神(おおものぬしのかみ)」・「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」・「大国玉神(おおくにたまのかみ)」とも呼ばれ、国中の悪い神さまを追い出して平和な国に治められた神さまとして「葦原醜男命(あしはらのしこおのみこと)」・「八千矛命(やちほこのみこと)」と称えられています。

 創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。
それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。

元亀3年(1572)の戦では、徳川家は御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天平3年(1575)に勝利を得た家康公は、御本殿の造営、拝殿・楼門を再建され、更に社領五百九十石の朱印を奉り、以降代々の徳川将軍家より、社殿の改造・修復料を寄進されました。

明治6年6月13日に国幣小社に列せられ、明治15年3月に再度の火災により御本殿以下建造物などことごとく失いましたが、明治19年に復興され現在に至っております。
平成17年には御鎮座一四五〇年祭が斎行され、「遠江國一宮さま」として崇敬され親しまれております。














 

東西南北中の神社巡り

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 「東西南北中の神社巡り」

 本日は、以前言われた事があった、浜松城を中心に「東西南北中」の神社を巡れ!を実行する事にした。
全部は無理。だから、浜松市を区分けし、プラス浜名湖西に一ヶ所、そして天竜川東に一ヶ所の計6ヶ所を巡ってみた。
候補地は大体で自分で決めた。 何がどういいか? 今後、どうなるのかはわからない。 けど、いい出会いはあった。
やってみるもんだとも思った。

・高塚熊野神社(浜松市南区高塚)
・女河八幡宮/めがわ(湖西市新所)
・愛宕神社(浜松市西区舘山寺町)
・井伊谷宮(浜松市北区引佐町井伊谷)
・有玉神社(浜松市東区有玉南町)
・府八幡宮(磐田市中泉)



高塚熊野神社(浜松市南区高塚) 

当社は、後三条天皇の延久年間(約940年前)に創建されたと口伝され、紀州和歌山の熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられました。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげました。その後、「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出ましたが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えられます。又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)、高い墓を築いたと・・・。
大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚、高塚(たかつか)と呼ぶようになり、地名になったと伝えられています。












※八咫烏(八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている)
※三つ巴(武神である八幡神の神紋として巴紋(特に三つ巴)が用いられる)




 ※御神木というものは何とも言えぬ雰囲気があるものです



女河八幡宮(湖西市新所)

 当社の例大祭には、秋の収穫感謝をあらわす特徴ある神事が行われる。「巫女卜」「十列児」「流鏑馬」などは、奈良の春日大社・春日若宮おん祭りの風流行列に同様の行事があり、神事をになう宮座当番やその活動拠点である庁屋とともに、近畿地方の影響が認められると言う。





 ※光栄なことに、幕の家紋が私と同じである


※ここでも神事的が行われていたのだ 「金的中」「金階中」そして日置流とある


※跳ね馬


※安土である 土に藁が混ぜ込まれている



愛宕神社(浜松市西区舘山寺町)

 聖武天皇の神亀4年(727)7月14日鎮座。のち元禄16年(1703)社殿焼失したが同年再建され今日に至っている。貞享年間(1684~88)堀江藩主大沢右京大夫殿の祈願所として、年々祭祀料1石2斗を賜る。本社は堀江村はもとより庄内・内山他7ヶ村の総社であったが、明治7年5月村内の10社を合祀、各村に神社が置かれたので、それ以来堀江村の村社(旧社格)となった。







※堀江氏か~! 感慨深い処である

※浜名湖がきれいである

       

井伊谷宮(浜松市北区引佐町井伊谷)

 明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つである。彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年(1869年)にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で死んだと伝えられていた。
翌明治3年(1870年)の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年(1872年)1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた。
初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していたが、明治6年(1873年)6月9日に白峯宮(白峯神宮)、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた。








※やはりね! 沢山の人出でありました







有玉神社(浜松市東区有玉南町)

 天照意保比留売貴命(あまてらすいほひるめきのみこと)外二十二柱の神を祀る。主神のご神徳は万徳を備えられている神で、全国の氏神様の総親神である。 家康公が大坂の役より帰陣後、秘蔵の愛馬を奉納。
以来、流鏑馬神事(やぶさめしんじ)を例祭日の特殊神事として400年の伝統を今に伝える。





※西の女河八幡宮 東の有玉神社 共通は流鏑馬


※有玉神社の氏子衆と 「馬」 「弓」 「鎧」で話が盛り上がりました
   何かできると良いですね!




府八幡宮(磐田市中泉)

 奈良時代の聖武天皇(在位724年~749年)のころ、「桜井王」という皇子(聖武天皇の曾孫といわれている)が、遠江国の国司となって国府(国の役所)に着任しました。王は、地域全体の平安を願って「府八幡宮」を建立しました。国府のあるところの八幡宮であるから、「国府八幡宮」ともいわれてきましたが、今は「府八幡宮」が正式名称です。地元の人たちは、親しさをこめて“八幡さま”あるいは“中泉の八幡さま”とも呼んでいます。
 府八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、始まりです。遠江国府は、最初に現在の二之宮・御殿地区に勧請(かんじょう)され、その後、見附地区に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられています。
寛永12年(1635年)に建立された楼門(ろうもん)は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿および 幣殿は市の文化財に指定されています。境内の建物の多くは、江戸時代に建造されたものです。

※この楼門は昨年12月に、300年ぶりの改修工事が終わったそうであります






 「凛として・・・。」  好きな言葉です!
  「未来へつなぐ日本」 と言う事なのか!





本日巡った場所   後は、「鬼門」だ












 

 「熊谷光夫版画展~遠江八景」

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 初山宝林寺 秋の特別展
  「熊谷光夫版画展~遠江八景」

 本日は、初山宝林寺秋の特別展「熊谷光夫版画展~遠江八景」開催中の熊谷さんに会うため浜松市北区細江町まで急ぎ出かけた。
熊谷さんもお元気そうで何よりであったし、訪れたお客さんとも、熊谷さんの版画の事や、熊谷さんの小説「井の国物語」と次郎法師談議で盛り上がれたりと、良き一日でありました。



◆熊谷光夫氏 略歴◆
 浜松市出身。与進中学校、浜松北高校、早大一理卒。
学生時代から絵を書き始め、中一弥師に師事し歴史時代小説の挿絵を担当する。
 かたわら、小説も書き、帰郷後も版画、小説に専心する。浜松祭りの版画を始め、歴史人物画、遠江八景などを手掛ける。
遠州井伊家の歴史小説として『井の国物語』、書舟伝記『旅ひととせ』などを書く。
井伊直弼公をテーマとした講談台本が国立劇場より表彰され、宝井馬琴師により口演された。
ギャラリー浜松双鶴などで版画展を隔年毎に開催、現在に至る。 
 『谷 光洋』は小説における熊谷光夫氏のペンネームである。



「熊谷光夫版画展~遠江八景」


「初山宝林寺」

















 ※赤とんぼ・・・秋ですね






















 ※熊谷先生と

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※小説「井の国物語」 井の国や次郎法師を研究し30年。その物語はすべてこの小説に有ると言ってもいい!

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◆以前開催された熊谷先生の個展画像より◆

「大衆芸能脚本賞 講談の部 国立劇場より」





「徳川康久様 小和田哲男様 画家・中一弥様 講談家・宝井馬琴様 より」


「版画 三方ヶ原の戦い 徳川軍」


「版画 三方ヶ原の戦い 武田軍」


「版画 徳川四天王 井伊直政 榊原康政」







熊谷先生の師、「中一弥(なかかずや)さん死去」 平成27年10月27日
104歳 現役最高齢の挿絵画家
 ご冥福をお祈りいたします


※作家逢坂剛さんの父。
昭和40年に中日新聞の前身、名古屋新聞に連載された直木三十五の「本朝野士(ほんちょうやし)縁起」でデビュー。
夕刊連載小説(池波正太郎作)でも挿絵を描いた。
代表作に池波正太郎の「鬼平犯科帳」がある。
緻密な時代考証に定評があり、山本周五郎や藤沢周平、吉川英治などの時代小説で活躍。
昨年4月には長年の功績が認められ、吉川英治文化賞を受賞した







 

特別展「賀茂真淵と二葉葵・三つ葉葵」

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  特別展 「賀茂真淵と二葉葵・三つ葉葵」


 江戸時代の国学者賀茂真淵と徳川家との関係に焦点を当てた特別展「賀茂真淵と二葉葵・三つ葉葵」が一日、浜松市立加茂真淵記念館で始まった。
 現在の浜松市出身で国学を樹立した真淵は、徳川家と縁が深い。
徳川吉宗の次男、田安宗武は真淵の研究を支援し、徳川家の家紋三つ葉葵は、真淵の遠祖である賀茂神社の御祭神の神紋二葉葵をモデルにしたと言われている。
 会場には、家康の大敗した三方ヶ原の戦いで、真淵の五代前の先祖岡部政定が敵の武田信玄軍に一矢報いたとして家康から拝領した鎧兜など46点が展示されている。

●賀茂真淵
 1697年~1769年。江戸中期の国学者で号は『縣居』。中国の儒学が徳川幕府の官学となり、世の中が中国思想で覆われていた時代、 荷田春満について古学を学び、田安宗武に仕えて国学を樹立しました。門下生に本居宣長らがいます。

賀茂真淵記念館 http://mabuchi-kinenkan.jp/
  静岡県浜松市中区東伊場一丁目22番2号

「三方ヶ原の戦い」 と 「犀ヶ崖(さいががけ)の夜襲」
 http://yoroikokoro.hamazo.tv/e6237559.html








「縣居神社」 賀茂真淵記念館東側に位置する






「縣居神社」
【御祭神】 賀茂真淵大人命 (かものまぶちうしのみこと)
【例祭日】 10月30日(賀茂真淵の命日)

 縣居神社は、国学者・賀茂真淵大人を崇拝していた当時の浜松藩主・水野忠邦公をはじめ、郷土の国学者・高林方朗氏らの尽力により、1839年(天保10年)現在の東伊場町賀茂神社の境内に 「縣居翁霊社」として祭祀されたのがはじまりです。
 その後、1924年(大正13年)10月28日現在地に遷座されました。(賀茂神社の境内には「縣居神社遺趾」の碑が残されています)
しかしながら、第二次世界大戦の折、戦災に遭い社殿は焼失。現在の社殿は1984年(昭和59年)4月15日に再建されたものです。


 



 

聖地 高野山 其の五

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世界遺産 聖地 高野山
~空海が開いた天空の都市~




 高野山の散策と美味しいもの


胡麻豆腐 濱田屋
高野山のごま豆腐といえばこの店が紹介される超有名店。創業百数十年の老舗です。
胡麻豆腐は鮮度が命と生にこだわり保冷容器を持たないお客には持ち帰りを許さない徹底ぶり。
なめらかな口溶けすっきりした味の中に胡麻の風味がはっきり味わえます。








↓ わさび醤油、又は和三盆糖を選べます。


散策








↓ 高野山のマスコット こうやくん


↓ 通りには石のベンチがあって、その脇には小僧さんが木魚の上でうたた寝してます。


↓ みろく石本舗 かさ国


↓ やきもちの香ばしい皮につぶ餡がウマっ!
 黄粉をまぶしたくるみ餅も美味しかった~。





高野山で嬉しかった事。高野槇を買えた事。


↓ つくも食堂の釜飯
山菜、地鶏に椎茸、ちりめん。
ほんものって書いてあるだけのことはある。美味かった。
画像で見ると、玉子とじうどんの方が量大そうでメインみたいに見えるけど釜飯も多かったです。
でもって、量多いからお客さんが残してもいいようにとラップとビニール袋が用意してある。
外国の方もおにぎりにして持っていかれるんですね。








 

聖地 高野山 其の四

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世界遺産 聖地 高野山
~空海が開いた天空の都市~



 私は、過去に伊勢や出雲、厳島等々参拝させて頂いた。
もちろんその場や、その神々とを比較するわけではない。
それらの聖地は何だか高く、そして遠く、神秘に満ちたものを感じた。

が、ここは・・・。 
遠いようで近く、高いようですぐそこで見ている。 神秘というよりは生々しい。 

それに、ここで手を合わせると、自分の事だとか家族の事だとか身の回りの事だとか、どーでもいいわけではなく浮かんでこない。 

奥の院2キロの間、手を合わせ続け歩いているうちに正直忘れてしまう。
驚きます。 最後に手を合わせている間は、「無・無・無」、無だった。

何も浮かんでこなかったのである。

「何もするな!」、「お前など、無なのだ」 

今思うと、そう言われたような気がする。
 

 
「奥の院」(おくのいん)
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地。
弘法大師入定の地であり、弘法大師御廟は大師信仰の中心聖地です。





奥之院参道
参道には、樹齢約700年の杉木立がそびえ、皇族、諸大名をはじめ、文人や庶民にいたるまで、あらゆる階層の人々の墓石や祈念碑、慰霊碑が約20万基を超え、建ち並んでいます。





戦国武将の供養塔
現世では敵味方であった織田信長や豊臣秀吉、武田信玄や上杉謙信など、戦国武将の墓石群があり、宗派を問わない高野山の寛容さを感じます。

吉宗公


榊原康政


武田信玄 勝頼




本多忠勝


石田三成


明智光秀


結城秀康


上杉謙信


豊臣家



織田信長


伊達正宗








水向地蔵
玉川のほとりに立ち並ぶ地蔵尊。御供所で求めた経木をここで奉納し、水を手向けて先祖の供養をします。







御廟橋[ごびょうばし]
弘法大師御廟に一番近い橋。36枚の橋板と橋全体を1と数え、金剛界37尊を表しています。
御廟橋より先は聖域であり、写真撮影は禁止。服装を正し、一礼して渡ります。
注)下記画像→他インターネット画像より














徳川家霊台
寛永20(1643)年、三代将軍家光が建立した江戸時代の代表的な建築物。建物の内部は漆、金箔、壁画等で装飾されています。