矢代矢・祝的・奉納額

カテゴリー │三河日置流雪荷派牛久保矢場

 『矢代矢・祝的・奉納額』


「矢代矢と矢代受(やだいうけ)」


矢代受とは、弓士がお祭り弓に参加するために矢代矢(やだいや)(御矢代/おやだい))を公文に受付のために提出する儀式である。
※ 矢代矢とは、敬称の意味から御矢代とも呼ばれ、其々の弓士が弓の技量、作法において一人前であると師匠から認められた際に授けられる飾り羽根の付いた矢尻のない矢である。また、矢代矢を授けられた者は師匠の代わりが務まるといった意味合いも併せ持つ。箆(の)の先にその流派、師匠の名前、弟子本人の名前の書かれた紙片が小さく巻かれているために、この矢代矢が身分証明となり、どこのお祭り弓に参加することも可能となる。いわば通行手形兼身分証明書の替わりである。また、師匠(免許継承者)においては名前の紙片が箆(の)の中央に巻かれていることで弟子(門人)と区別されている。
※ 箆(の)とは、矢の竹で作られた筒の部分で矢幹(やがら)ともいう。近年ジュラルミン等でできたものもあるが、矢代矢は美しさといった工芸的な意味から竹で作られる。













「祝的(しゅうてき)」

射止められた矢の刺さったままの的は神社の本殿で、神官によるお祓いの後、祝的(しゅうてき)といわれる矢を抜く儀式が行なわれる。
その際、金的を射止めた者には主催者である神社から、額代と呼ばれる報奨金と褒美が出る。
この額代で翌年の祭礼に、何流の、誰の門人であるのか書かれた本人の名前の入った的中額を奉納し、神社の境内に長く掛けられることになる。
これは弓引きにとって大変名誉なことである。
通常、的中額を奉納し神社にかける事のできるのは、正規に伝わる師匠と、その門人に限られる。
又、競技会や観光協会などが主催する射会などの金的は、余興的といわれ、神事的とは区別されている。
このような神社における祭礼に大勢の人々が集まり、江戸中期頃から見物料を取って大会が行われた。これを勧進的(置的)といい、江戸時代の勧進相撲のように庶民の娯楽のひとつであった。
神社仏閣は寺社奉行管轄であるため、町奉行(町方)は介入できず、そのため賭け弓も行われていたようである。
特に三河七矢場と呼ばれる、賀茂神社、三明寺、砥鹿神社、豊川市八幡宮、富永神社、根古屋神社、小松原観音などは大変賑わい、現在も多くの奉納額が残されている。











「奉納額」

豊川市八幡宮の奉納的中額  
八幡宮は、飛鳥時代第四十代天武天皇の白鳳年中(六七二~六八五)に大伴氏が勅命を奉じて、豊前国・宇佐八幡宮より八幡神を勧請したのが始まりとされる。
八幡宮の神事は、古来よりから射弓が重要な役割を持っており、この仕切りと伝統を守り射弓舎を管轄するために『矢場元』という制度があります。
矢場元は、古来より当八幡宮の神主家により世襲されてきましたが、明治に神主の世襲が廃止された後は、その当地の門人から門人へと受け継がれております。現在の『射弓舎』は、天保五年(一八三四年)に建替えられたもので、屋内には『奉納的中額』が多く揚げられており、約三百三十年前の貞享二年(一六八五年)の奉納的中額が残されております。奉納的中額に書かれる項目は弓術流派・師範名・氏名・的中年月日・住所であり射抜いた翌年に神社に奉納する。弓神事は、神社を中心とする村の五穀豊穣・村中安全・無病息災を祈願し、金的を射止めることでその厄難を取り除くことが目的とされている。そのため、金的は悪霊・災いを象徴しており、金的に矢が当たらないと厄が落ちないといった理由から「神幸祭」の御旅が出来ない。































 

蔭涼寺初午祭り弓道大会 2019

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

おとなの弓日(きゅうじつ)

蔭涼寺初午祭り弓道大会/愛知県田原市

  昨日は、愛知県田原市にあります蔭涼寺初午祭り弓道大会に参加。
愛知県内や静岡県西部地区からの弓士61名が参加。
大変賑やかな楽しい射会となりました。

また、蔭涼寺の射会では賞品に特産の鉢植えや野菜、日用品などがあったり、同日開催の初午祭りからなる持ち投げもあり、弓士だけでなく、地元の方や檀家さんなどで大変な盛り上がりをみせておりました。

 また今一つ。
私事ではありますが、平成も残すところわずかなところで、念願でありました「金的」を射抜く事ができました。
来年のこの時期には、社殿に奉納額が飾られます。
弓引きにとっては大変名誉なこと。
これを機に、さらに精進して参りたいと思います。


最後に。
蔭涼寺初午祭り弓道大会開催関係者の皆様。
この度は大変お世話になりありがとうございました。
また来年も宜しくお願い致します。