引間城 と 飯尾氏四代

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「引間城 と 飯尾氏四代」

乱世に生きた引間城飯尾氏四代

 長連(おさつら)-賢連(ただつら)-乗連(のりつら)-連龍(つらたつ)と続く飯尾氏歴代は室町後期における浜松地方の有力な武将であった。
引間城(浜松市元城町)を本拠とした飯尾氏は四代にわたって西遠の一角を支配、それは波乱にとんだ戦国武将としての生き様をした。
長連(おさつら)は今川氏のために討死にし、連龍(つらたつ)は今川に謀殺されている。まさに戦国乱世の縮図を飯尾氏の消長に見ることができる。

 浜松城が徳川家康によって構築される以前この地方の中心に位置して構えられていたのは引間城であった。浜松城の東北四〇〇メートルほどの位置に元城町の氏神である元城町東照宮が鎮座している。その元城町東照宮の境内を中心とする一帯が引間城址である。現在引間城祉には銀杏の巨木をはじめ、楠、椎、松、ユーカリなどの大樹が枝を広げ、市街地の中心に潤いある森を生み出しており、昭和五十三年十月、浜松市の保存樹林の指定を受けている。引間城祉の西側は国道152号線をはさんで浜松城公園駐車場やホテルコンコルド等の高層ビルが見られるが、太平洋戦争前は、引間城祉周辺は深い谷になっており、古城としての面影をとどめていた。


引間城の築城は謎

 引間城が何時頃、誰によって築かれたのかこれを明らかにする史料がないが、室町の初めにはすでに三河の豪族吉良氏の流れをくむ一族が城砦をこの辺に構えていたもののようで、
やがて浜松庄の領家吉良氏の代官として大河内備中守貞綱が引間城に在城するようになったようである。引間城について諏訪神社の神官であった国学者として知られる杉浦国頭(すぎうらくにあきら)は著書「曳馬拾遺(ひくましゅうい)」の中に次のように書いている。
「古城、この城は引間の城という、その築かれし初め定かならず、或記に久野佐渡守末子越中守家進、永正の頃、三善為連(みよしためつら)と言う人城にとりたてけるよし見えたり。又或記に永正の頃、三河の国臥蝶城主大河内備中守貞綱、引間の城を築き、斯波武衛等加勢して駿河の今川をは拒む・・・」築城者は明らかではないが、引間の城は室町時代の中頃に築かれた城のようである。

引間城 と 飯尾氏四代

引間城 2012年撮影
引間城 と 飯尾氏四代

引間城 と 飯尾氏四代


飯尾氏の系譜

 さて遠江における武将の一人として飯尾氏の名がはじめて登場するのは今川氏親(いまがわうじちか)の時代である。氏親が遠江に入国した当時、飯尾善左衛門尉長連が引間の奉行として浜松の地にあった。飯尾氏はもともと室町幕府の奉行人であったようで遠江浜松入りは今川氏の招きによるものであった。当時の遠江は土豪たちが強い勢力圏をもっていただけに、今川氏としてはそれを押えてゆくのに精一杯であった。わけても中遠から東遠にかけては横地、勝間田の両氏が反今川色を打ち出し、氏親の子義忠の代わりになり横地、勝間田は狩野介の居館(磐田市見付)にたてこもって抵抗した。義忠は見附にこれを攻め、激しい闘いの末、横地、勝間田の両氏を滅亡においやった。

だが駿河への帰陣の途中で、義忠は横地氏の残党に襲われ、塩買坂(小笠郡小笠町)において討ち死にしてしまった。この戦いの時義忠と行いを共にしていた飯尾長連も討死にしていることが「今川記」や「宗長日記」に見えている。
この連歌師宗長が書き綴った「宗長日記」は戦国期の駿遠の動きを知るえで、きわめて良質な史料とされており、飯尾氏の事も登場する。

すなわち「宗長日記」大永二年(1522)の「朝比奈戦忠の次第」の項の中には次のようにみえてくる。
「浜松庄吉良殿御知行奉行大河内備中守、堀江上野守にくみしてうせぬ。其刻、飯尾善四郎賢連、吉良より申し下され、しばらく奉行とす。すべて此父善左衛門尉長連、義忠入部の時に、当庄の奉行として、度々の戦忠、異他なり。あまつさえ、義忠帰国の途中にして凶事。名誉の防矢数射尽し、則討死。其子善四郎乗連、伯父善六郎為清其旧号わすれたまはず。」
この一文によって飯尾氏の系譜も判る。遠江における飯尾氏の初代飯尾善左衛門長連が、塩買坂において討死してのち、引間奉行として引間に往来したのが大河内備中守貞綱が引間城の築城者と考えられるとしるされている。大河内備中守貞綱はやがて今川氏親に反抗したため、氏親はこの城を攻め、備中守は逃亡したことが諸書にみえており、そのあとの引間の奉行として今川氏が任命したのが、塩買坂で討死して長連の子善四郎賢連である。かくして賢連は浜松庄の代官として引間城に入り、以後引間城は賢連からその子善四郎乗連へ、そしてさらに連龍へと時代の流れをみる。


飯尾ゆかりの東漸寺

 浜松市向宿町に寿量院という臨済宗方広寺派の寺がある。この寺に残されている中世文書六点が浜松市の文化財(古文書)に指定されているが、そのなかに飯尾乗連と飯尾連龍が授龍庵(寿量院)あてに発した寺領安堵の判物があり、天文から永禄にかけて飯尾氏が今川を背景として大きな力をもっていたことがうかがわれる。
ところが、永禄五年(1562)今川氏真が突如として引間城の飯尾連龍を攻撃している。連龍が今川氏に反抗の動きをしたからである。今川氏は義元が尾張国(愛知県)桶狭間で討死して以降家運がにわかに斜陽化、義元が討死した永禄三年(1560)の翌年になると飯尾豊前守連龍は、浜名湖の井伊氏等と共に、織田、徳川方に従属する動きをみせた。これを知った今川氏真が永禄五年(1562)二月に引間城に連龍を攻めたのである。このときの寄せ手の大将であった新野左馬助は討死した。一方城側も多くの死傷者を出し、飯尾氏の家臣渥美、森川、内田といった面々が討死している。
当時の引間城がどれほどの規模であったものか明確ではないが、江戸期に描かれた浜松城絵図のなかに「古城」として記入されている一部が引間城のあととされている。今でこそ周辺の谷が埋めたてられ、小高い丘陵といった感じだが、昔は自然の地形を巧みに利用した要害の城であったと思われる。

東漸寺 2016年撮影
引間城 と 飯尾氏四代

引間城 と 飯尾氏四代



連龍、悲運な最後

 永禄五年(1562)の攻防戦は守りが固く、今川氏真はこの城を落とすことができず、結果和睦の形で幕がおろされた。しかし氏真は飯尾連連に対し深い疑念を抱いていたため、永禄八年(1565)十二月、連龍を駿府に呼び寄せ、城内の一角において謀殺してしまったのである。わずかな共の者を連れただけの駿府入りであったため、氏真の奇略の前に逃れることができず、悲運の最期をとげたのだった。その後の引間城は、飯尾連龍が殺害されたことにより大きくゆらいだ。家老の江間安芸守と江間加賀守の対立はこの城の瓦解に拍車をかけ、やがて永禄十一年(1568)德川家康の浜松入りによって引間城は家康の掌握下に入った。四代にわたった飯尾氏の遺風は引間城の廃城によって完全に消え去った。
引間城に入った徳川家康はこの城を遠江経略の拠点とするには規模が小さすぎるとし、西側にある独立丘陵まで拡張し引間城の旧城地は浜松城内に抱擁した。
江戸時代、引間城には米蔵がおかれていたことが城絵図によって判る。
   (参考 遠江武将物語/神谷昌志)

飯尾氏は、初代飯尾善左衛門長連(1522年)から、賢連、乗連、連龍(1565年)へと飯尾氏四代、43年にわたり城主として引間城に在城していた。

また、引間城と飯尾姓にまつわるおもしろいデータがある。
電話帳データ静岡県内約150件のうち、約130件が浜松市内に集中し、特に引間城のある浜松市中区では、1位高林地区、2位曳馬地区で64件もあるのだ。
飯尾氏か、またその一統か、何らかの関わりがあることは間違いないだろう。


浜松まつりとの関係 
「郷土史家らは懐疑的な見方」

浜松まつりの起源は、飯尾連龍の子「義廣」の誕生を祝って凧揚げをしたことが理由などととして紹介される。しかし、このことに関して確固たる根拠、資料などない。伝承が史実かどうかについて、「郷土史家らは懐疑的な見方」である。


飯尾氏四代の名前

 長連(おさつら)
 賢連(ただつら)
 乗連(のりつら)
 連龍(つらたつ)

戦国武将の名にみられる通字(とおりじ)。
徳川氏は、家康公の「家」が通字。 
飯尾氏の場合、通字は「連」になる。

「連」が四代も続いたのに、なぜ「義廣」なんでしょう?


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