天宮神社 と 小國神社

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 「天宮神社 と 小國神社」


  28年最初の〆は、北東へ。 天宮神社と小國神社。


 天宮神社(あめのみや) 静岡県周智郡森町天宮

 当神社は第29代欽明天皇の頃(約1500年前)に小碓命(日本武尊)の後裔太田の君、守の君の氏族が先祖の遺跡を訪ねてこの地を開き、筑紫の国宗像の御神霊を迎え大氏神として鎮斎せられたのに始まります。
 文武天皇慶雲2年勅願により社殿等の造営がなされ、その折京都から藤原綾足が神官として赴任し京都の楽人により舞楽が奉納されました。以来十二段舞楽は今日まで連綿と伝承されてきています。
 神社・社殿は、室町時代に焼失し、一時衰退をしましたが、徳川家康公によって社殿が造営され、その後修営にあたって、遠州横須賀城主の隠岐守西尾忠成公を奉行に幕府の直参棟梁の甲良豊前宗賀によって完成したのが現在の社殿であるといわれています。

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 神木 梛の木(ナギの木)

 梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良春日神社には平安期900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1,400余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が
   「神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は  
      千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず」
                          と歌われた誌が有ります。
 鎌倉の尼将軍と名をはせた北条政子が若き日に伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされます。後に、1192年源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも梛の木の文献が数多くありますが、当熊野神社の本宮 紀州熊野神社那智の大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1,000年の梛の巨木有り。
 千古の昔より信仰熱く当神社にも「縁結び」の神々が坐します梛の木との関わり深く神木として大切に生育したいと思います。

天宮神社 と 小國神社

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その名が「凪(なぎ)」に通じることから船乗りの信仰を集めたが、船乗りだけでなく、一般の人たちもその葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏に入れる風習もあった。長さ4~6cm、幅 1.7~2cmの光沢のある葉は筋が強く、いくら引っ張っても切れないというので、夫婦の絆が切れることのないよう願いを込めて鏡の裏に入れたという話や、鏡の裏に入れておくと会いたいと思う人が鏡面に現れるという話など、この木にまつわる伝説は多い。

天宮神社 と 小國神社
 ※梛の葉を頂きました。 河合さんありがとうございました。


 梛(なぎ)/和ぎ・凪・薙ぎと表記したときの意味合いの別

1.「和ぎ」は和やか、穏やかな状態であり、主に心情や情勢に用いられる。
2.「凪」は和ぎと同意でもあるが、現在では風が無く穏やかな波のない海の状態をさす場合が多い。また、数少ない国字(和製漢字)であり風が止まっている状態をあらわしている
3.「薙ぎ」は山が崩れ平らになりつつある状態や草木を刈った平坦な野原を指すが、横に打ち払う(薙ぎ払う)という意味もある。そのことから神事としての祓い清めを意味する。また薙の神事が日本各地にあり、内陸地方での嵐や大風を鎮める行為とされる。珍しい文字では「(なぎ)」があり、崩れという意味から薙ぎの当て字である。

 「なぎ」には様々な漢字表記があり、同音異句の樹木や山・地名としても多く使われている。そのほとんどが日本の神道や神話や古神道における信仰の場所に関わるもので、神社の名や日本の神の名の一部として使われている。

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 ※頂いた梛の葉を一輪差へ(青宵作)  額装(ページワン)





  小國神社(おくに) 静岡県周智郡森町一宮

 大己貴命は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と呼ばれ、神話の中でも「因幡の白うさぎ」はよく知られており、赤裸にされたうさぎを助けられた心のやさしい神さまです。(一般には「大国様(だいこくさま)」と呼ばれ親しまれています。)
豊葦原の国(日本の国)を稲穂がたくさん稔る豊かな国に造りあげ、天孫に国をお譲りした神さまとして「国作之大神(くにつつくりのおおかみ)」・「大穴牟遅神(おおなむじのかみ)」といわれています。

また、農業・山林・鉱業・縁結び・医薬の開発・禁厭の法(鳥や害虫から作物を守る方法)を授けた神さまとして「大物主神(おおものぬしのかみ)」・「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」・「大国玉神(おおくにたまのかみ)」とも呼ばれ、国中の悪い神さまを追い出して平和な国に治められた神さまとして「葦原醜男命(あしはらのしこおのみこと)」・「八千矛命(やちほこのみこと)」と称えられています。

 創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。
それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。

元亀3年(1572)の戦では、徳川家は御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天平3年(1575)に勝利を得た家康公は、御本殿の造営、拝殿・楼門を再建され、更に社領五百九十石の朱印を奉り、以降代々の徳川将軍家より、社殿の改造・修復料を寄進されました。

明治6年6月13日に国幣小社に列せられ、明治15年3月に再度の火災により御本殿以下建造物などことごとく失いましたが、明治19年に復興され現在に至っております。
平成17年には御鎮座一四五〇年祭が斎行され、「遠江國一宮さま」として崇敬され親しまれております。

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