2010年01月31日22:02
国民文化祭「二俣・一夜城」
カテゴリー │遠州鎧仁會
国民文化祭「二俣・一夜城」 2009.11.01(sun)
**こちらも同様、昨年の画像です。upいたします。
参加者は、関西「甲援隊」&「遠州・鎧仁會」など。
**こちらも同様、昨年の画像です。upいたします。
参加者は、関西「甲援隊」&「遠州・鎧仁會」など。
2010年01月28日23:53
龍尾神社
カテゴリー │神社・寺・史跡
龍尾神社 静岡県掛川市下西郷84番地 ℡0537-23-0228
龍尾神社は掛川城の北東に位置する古社で、古くは「龍尾山牛頭天王」と称しておりました。掛川城の築かれた峰から連なる山脈を、この地を守護する龍になぞらえ、龍頭山・龍胴山・龍尾山と名づけ、鬼門にあたる龍の尾の山に当神社は鎮座しております。龍尾山は城の攻守の要であり、かの天王山の戦では、徳川家康公が本陣をおいた場所としても知られています。
山内一豊との縁
山内一豊公が遠州掛川に封ぜられてから土佐国に入るまでの十年間、この地は大いに発展いたしました。寺社を大切にした一豊公の掛川城守護神、龍尾神社への崇敬は特に篤く、掛川でお生まれになり、後に二代目となる嫡子忠義公の氏神となさいました。
土佐国に国替えされた後の寛永年間、一豊公の志を継ぐ忠義公は使者占部兼里を掛川に遣わし、当社の御分神を高知城下に勧請、「掛川神社」と号して大切に祀りました。その折、山内忠義公より奉納された「蘇鉄」と「土佐の石」は社殿脇に現存し、山内家との縁を今日に伝えます。
龍尾神社は掛川城の北東に位置する古社で、古くは「龍尾山牛頭天王」と称しておりました。掛川城の築かれた峰から連なる山脈を、この地を守護する龍になぞらえ、龍頭山・龍胴山・龍尾山と名づけ、鬼門にあたる龍の尾の山に当神社は鎮座しております。龍尾山は城の攻守の要であり、かの天王山の戦では、徳川家康公が本陣をおいた場所としても知られています。
山内一豊との縁
山内一豊公が遠州掛川に封ぜられてから土佐国に入るまでの十年間、この地は大いに発展いたしました。寺社を大切にした一豊公の掛川城守護神、龍尾神社への崇敬は特に篤く、掛川でお生まれになり、後に二代目となる嫡子忠義公の氏神となさいました。
土佐国に国替えされた後の寛永年間、一豊公の志を継ぐ忠義公は使者占部兼里を掛川に遣わし、当社の御分神を高知城下に勧請、「掛川神社」と号して大切に祀りました。その折、山内忠義公より奉納された「蘇鉄」と「土佐の石」は社殿脇に現存し、山内家との縁を今日に伝えます。
2010年01月28日23:37
第2回”遠州掛川”戦国伝説ツーデーマーチにて!
カテゴリー │遠州鎧仁會
第2回”遠州掛川”戦国伝説ツーデーマーチ
☆主催 戦国伝説・頑張る地方応援プログラム推進実行委員会
JR東海掛川駅 掛川歩こう会 掛川遊歩会
☆後援 (社)日本ウォーキング協会 静岡県ウォーキング協会
掛川観光協会 掛川商工会議所
☆とき 平成22年1月23日(土)~24日(日)
☆名称 23日⇒七草粥ウォーキング 24日⇒戦国ウォーキング
三方原合戦の先輩(鈴木久三郎こと佐野さんと久しぶりの再会も)
東京や名古屋、豊橋の仲間も応援に駆けつけてくれました
☆主催 戦国伝説・頑張る地方応援プログラム推進実行委員会
JR東海掛川駅 掛川歩こう会 掛川遊歩会
☆後援 (社)日本ウォーキング協会 静岡県ウォーキング協会
掛川観光協会 掛川商工会議所
☆とき 平成22年1月23日(土)~24日(日)
☆名称 23日⇒七草粥ウォーキング 24日⇒戦国ウォーキング
三方原合戦の先輩(鈴木久三郎こと佐野さんと久しぶりの再会も)
東京や名古屋、豊橋の仲間も応援に駆けつけてくれました
2010年01月19日00:00
ホテルコンコルド浜松・浜松城・掛川城 1月10日
カテゴリー │遠州鎧仁會
遠州鎧仁會
ホテル・コンコルドさん、浜松城にて、成人式のお祝いに参上
掛川城にて来城者のおもてなし
名古屋からの助太刀も…。ありがたいですね。
ホテル・コンコルドさん、浜松城にて、成人式のお祝いに参上
掛川城にて来城者のおもてなし
名古屋からの助太刀も…。ありがたいですね。
2010年01月12日18:35
「こころばえ」
カテゴリー │師集
武士道と云うは死ぬ事と見付けたり(葉隠)
武士は敬神と勇気を信条とし、死を覚悟して生きた。
戦場で死と直面するのは当然だが、平時においても常に死を覚悟する「こころばえ」を大切にした。
戦場に赴くことは晴れの舞台への登壇であって、武具甲冑には防具としての機能だけでなく、晴れの衣裳、死に装束としての美が追求された。
武運つたなく戦死する時も、「敵ながらあっぱれな奴」と讃えられる死が希求された。
卑怯な戦法は恥じられ、堂々と戦う精神が尊ばれた。
武士は敬神と勇気を信条とし、死を覚悟して生きた。
戦場で死と直面するのは当然だが、平時においても常に死を覚悟する「こころばえ」を大切にした。
戦場に赴くことは晴れの舞台への登壇であって、武具甲冑には防具としての機能だけでなく、晴れの衣裳、死に装束としての美が追求された。
武運つたなく戦死する時も、「敵ながらあっぱれな奴」と讃えられる死が希求された。
卑怯な戦法は恥じられ、堂々と戦う精神が尊ばれた。
2010年01月11日14:42
掛川城 新年開城
カテゴリー │遠州鎧仁會
掛川城 新年開城 1月2日
掛川城にも多くのお客様が訪れました。
私も甘酒と家康公みかんのプレゼントに参加!
その後は、鎧仁會勇士とともにお客様のお出迎え。
・家康公お手植えみかん:先着50名様
・甘酒:先着100名様
掛川城にも多くのお客様が訪れました。
私も甘酒と家康公みかんのプレゼントに参加!
その後は、鎧仁會勇士とともにお客様のお出迎え。
・家康公お手植えみかん:先着50名様
・甘酒:先着100名様