映画 『峠・最後のサムライ』

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承三河日置流雪荷派牛久保矢場

「おとなの弓日-SPECIAL」

映画 『峠・最後のサムライ』

家訓 『常在戦場』と『常在館』



映画 『峠・最後のサムライ』
https://touge-movie.com/
2022年6月17日全国公開

幕末の動乱の中で戦いのない世を願った最後のサムライ 越後長岡藩家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)

《物語》
 1867年(慶応3年)年、260年余り続いた徳川幕府は、大政奉還により終焉。諸藩は旧幕府軍と新政府軍の東西に二分、戊辰戦争が起きる。越後長岡藩の家老、河井継之助は両軍に属さない武装中立を目指すが、時勢が許さず残念。徳川譜代として新政府軍を迎え撃つ決断を下し、最後の戦いに臨む。


☆河井継之助の長岡藩と三河日置流雪荷派との意外な関係

☆常在戦場
河井継之助→長岡藩→藩主牧野家→東三河牛久保→常在館(三河日置流雪荷派)


『常在戦場』
常在戦場とは、、。
意味は「常に戦場にいるような心持ちでいること」

 「常在戦場」の読み方は「じょうざいせんじょう」。
「常に戦場にいるような心持ちでいること」を説いた四字熟語だ。戦場は生きるか死ぬかの過酷な場所で、一瞬たりとも気を緩めることはできないことから、常に戦場にいるかのような緊張感を持って物事に取り組むことの大切さを表現している。


由来は江戸時代のある一族の家風

 「常在戦場」は、牧野家という戦国時代から江戸時代に活躍した一族が家風としていた言葉。牧野家は、三河国牛久保城(みかわこくうしくぼじょう)という、現在の愛知県豊川市牛久保町に存在した城の城主だった。この場所は、交通の要所となっており、西から東、北方と各方面から敵の勢力の脅威にさらされる場所にある。そうした環境から、平常時であっても気を緩めずに戦場にいるかのような心持ちで物事に取り組むことを「常在戦場」と表したと言われている。

 牧野家は江戸時代に長岡藩(現新潟県長岡市)の藩主となり、「常在戦場」を藩風・藩訓として掲げた。その後、幕末の北越戊辰戦争時に、長岡藩を指揮していた河井継之助や、連合艦隊総司令長官であった山本五十六が積極的に使用したことから全国へと広まっていく。


『常在館とは』
 牛久保八幡社矢場元・故山本良輔日置流雪荷派師範(2021年没)が命名した。三河日置流雪荷派の矢場(道場)のことである。



『長岡藩主・牧野家』
 牧野の祖は、第八代孝元天皇のひ孫武内宿禰(たけうちのくすね)の第四子平群木菟宿禰(へぐりのづくのすくね)である。
初めは田口姓を称し、その祖は阿波民部少輔田口重能(あわのみんぷしょうゆうしげよし)とされる。
重能(しげよし)は阿波国の豪族として大きな勢力を持ち、源平合戦時には平家方に着いたが、やがて源氏に味方し後に讃岐国に移り住んだとされる。
その後、応永年間(1934〜1428年)に四代将軍足利義持の命により讃岐国から三河宝飯郡牧野村(現在の豊川市牧野町)に移住して牧野姓を名乗り牧野城を築いた。
戦国動乱期の東三河において勢力を持った牧野一族は、今川氏・松平氏(後の徳川氏)のはざまにあって牧野城・瀬木城・今橋城(後の吉田城)・牛久保城などを築きながら勢力を広げて戦国の世をしぶとく生き残った一族である。この時代に養われた『常在戦場』の精神は後の長岡藩の藩訓となっている。
 初代長岡藩主忠成(ただなり)の祖父・成定(なりさだ)の代に徳川家康家臣・酒井忠次(ただつぐ)配下の東三河国衆として徳川軍に所属し、そのまま家康の関東移封に随従して天正18年(1590年)群馬県前橋市東部となる上野国大胡藩2万石の藩主、元和2年(1616年)越後長峰藩5万石藩主を経て元和4年(1618年)越後国長岡に入封した。
牧野忠成を初代と数え、十二代忠訓(ただくに)まで移封される事無く譜代大名長岡藩牧野家は続いた。
その間幕府の最高職である老中を、九代忠精(ただきよ)、十代忠雅(ただまさ)、十一代忠恭(ただゆき)と三代続けて輩出している。












































 

牛久保八幡社常在館月例会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

「おとなの弓日(きゅうじつ)」
〜流派弓術の継承〜


『牛久保八幡社常在館月例会』

令和4年6月12日(日)
 毎月開催の月例会(水曜会)を日曜日に、豊川市牛久保八幡社常在館(矢場)にて開催。
今回も今一度のコロナ対策とし、牛久保八幡社常在館門人と月例会(水曜会)メンバーのみの参加とし開催。お天気も良く汗ばむほどの陽気となり楽しい一日となりました。

尚、月並的(6月)を見事射抜かれましたのは日置流雪荷派牧野住の二村保雄さんが。競射の優勝者は日置流雪荷派豊川住の山本利行さんでした。
お二人ともおめでとうございました。


月並的/二寸八分(褒美有)
二番的/三寸(褒美有)
三番的/五寸八分(褒美有)
位上/尺五(褒美有)

五色的/五寸(褒美有)

競射/尺二、八寸、五寸八分※
絵的/二尺※
※賞品有(優勝者〜全参加者)


「月並的」
一月 霞
二月 雁
三月 桜
四月 青葉
五月 早苗
六月 御禊(みそぎ)
七月 蓮
八月 紅葉
九月 菊
十月 時雨
十一月 雪
十二月 氷























































 

令和4年度袋井市スポーツ協会弓道大会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

おとなの弓日(きゅうじつ)
〜流派弓術の継承〜


『令和4年度袋井市スポーツ協会弓道大会』
令和4年6月5日(日)

本日は、袋井市スポーツ協会弓道大会に参加致しました。

・袋井市愛野公園弓道場
・四ツ矢×2回=8射
・参加者 男女全63名
・結果 1位/8射6中(同中3名射詰&遠近)


袋井支部の皆様。
ご準備及び当日運営等、お疲れ様でした。
お陰様で良き一日を過ごすことができました。
袋井メロン、美味しく頂きます。
ありがとうございました。
























 

「鷹狩」❷

カテゴリー │遠州鎧仁會

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆

「鷹狩」❷

遠州鎧仁會と鷹狩(諏訪放鷹術保存会)

遠州鎧仁會は過去5回の鷹狩演武に同行している。

22年11月28日 浜松城
24年12月1日 富士宮市
27年2月7日 藤枝市
28年4月15日 静岡市日本平/日本・スペイン シンポジウム
28年12月4日 岡崎城



◆鷹狩

https://intojapanwaraku.com/culture/72766/

「鷹狩り」という名前から、つい「鷹を狩る」と思ってしまいそうだが、鷹は獲物ではない。正確には「鷹を使って獲物を狩る」。戦国武将のアウトドアの娯楽の一つである。






















 

「鷹狩」❶

カテゴリー │遠州鎧仁會

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆

「鷹狩」❶

いつか浜松城で鷹狩を披露してくださること、楽しみにしております。


『継ぐ 鷹匠の心意気』

徳川家康はじめ徳川将軍家に仕えた鷹匠(たかじょう)の技を受け継ぐ諏訪流放鷹(ほうよう)術保存会(東京都青梅市)で、浜松市中区出身の専門学校生、沢下由梨江さん(20)=埼玉県富士見市=が、鷹匠を目指して練習に励んでいる。地元ゆかりの家康が好んだこともあり「歴史を引き継いでいきたい」と夢に向けてまい進している。 
 「勇敢な見た目とつぶらな瞳のギャップがたまらない」。先輩の鷹匠が飼育するハリスホークを手に乗せ、目を輝かせた。四月上旬、青梅市の御岳山(みたけさん)であった保存会の講習会。沢下さんら受講生は、鹿の革を使ってタカ狩り用の手袋作りをした。「革が厚いので大変」と漏らしつつ、楽しげに縫っていた。
 タカ狩りに興味を持ったきっかけは中学三年の頃、スマートフォンで読んだ漫画だった。モンゴルを舞台に、軍に一人で戦いを挑む女戦士と少年の旅を描いた歴史漫画「シュトヘル」。オオワシの活躍に心を奪われた。「人と動物が対等な関係でいる姿がかっこいい」。ワシやタカなど猛きん類の魅力にはまった。
 高校三年の夏、「タカ狩りをもっと知りたい」と両親に伝えた。鷹匠として活躍する女性で、保存会長の大塚紀子さんについても語った。大塚さんの著書を何度も読み返し、鷹匠への憧れは募るばかり。あふれる思いを手紙にしたため、大塚さんに送った。
 しばらくして、手紙に書いたメールアドレスに返信が届いた。講習会に招かれ、保存会に入った。クラーク記念国際高校浜松キャンパスを卒業後、自動車整備を学ぶため埼玉県内の専門学校に進学。青梅市まで往復三時間ほどバイクを走らせ、講習会に通っている。
 沢下さんら入会した門下生は「手明(てあき)」と呼ばれる。二年ほど講習を受けたり、実演を手伝ったりして試験に受かると見習いの「鷹匠補」になる。オオタカの調教など経験を積み、認定試験に合格すれば鷹匠として認められる。
 保存会では現在、鷹匠が二人いる。二十三人の手明や鷹匠補のうち、県内出身は沢下さんだけだ。
 「早く自分のオオタカがほしい」と、自動車用品店などでアルバイトをして、少しずつ貯金している。オオタカの重さに慣れるため、水の入った湯飲みを左手に乗せ、バランスを取って歩く練習などをしている。
 来年三月に専門学校を卒業後は都内で就職し、鷹匠を目指して保存会の活動を続けるつもりだ。「鷹匠になったら、相棒のオオタカと一緒に家康ゆかりの地元、浜松城公園でタカ狩りを披露したい」

◆「古い文化」だがユネスコ対象外
 タカ狩りは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録され、アラブ首長国連邦や韓国など二十カ国以上が対象になっている。法的な保護制度の対象になっていないことなどから、日本は含まれていない。
 宮内庁などによると、タカ狩りは四世紀ごろに日本で行われたとの記述が日本書紀にある。明治時代になると、当時の宮内省が徳川将軍家に仕えた諏訪流の鷹匠らを抱え、伝統を継承。外国からの来賓接待で披露するなどした。
 戦後、動物愛護の世論が高まり、宮内庁でタカ狩りをしなくなった。今も同庁職員として鷹師長と鷹師、鷹匠が十人いて、叉手(さで)網を使った鴨猟を続けるほか、保護されたオオタカなどを鴨場二カ所で各一、二羽ほど飼育しているという。
 宮内庁にいた鷹匠から教えを受けた鷹匠が、諏訪流放鷹術保存会や諏訪流古技保存司会(千葉県成田市)で活躍している。その一人、保存会の大塚紀子会長は「核となる行政がない。公的支援をする自治体が増えてほしい」と嘆く。
 タカ狩りに詳しい長野県立大の二本松泰子教授は「ユネスコの無形文化遺産に登録されている歌舞伎や能楽よりかなり古い文化。世界に誇れる水準」と指摘し、日本も対象国を目指し公的な保護に乗り出すべきだと訴える。民間団体に対しても「後継者を育てつつ、一丸となって意義をアピールしてほしい」と求めた。







 

第59回浜北支部弓道大会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

おとなの弓日(きゅうじつ)
〜流派弓術の継承〜


『第59回浜北支部弓道大会』
令和4年5月15日(日)

本日は、浜北支部弓道大会に参加致しました。

・浜北武道館弓道場
・四ツ矢×2回=8射
・参加者 男性41人 女性16人
・結果 2位/8射7中(同中3名射詰)


浜北支部の皆様。
ご準備及び当日運営等、お疲れ様でした。
お陰様で良き一日を過ごすことができました。
ありがとうございました。