久能山東照宮参拝…其弐

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 「久能山東照宮」…其弐

 久能山東照宮右 http://www.toshogu.or.jp/menu/menu.htm

 久能山(標高216m)は、元々日本平と共に太古海底の隆起によって出来たもので、長い年月の間に浸食作用等のため堅い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。
 推古天皇(592年~628年)のころ、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。

永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。
 しかし、武田氏の滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。

死後、その遺言により当山に葬られ、元和3年(1617年)には二代将軍秀忠によって社殿が造営された。
 その後三代将軍家光によって造営された日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したとされている。
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領し久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった。


   


 

久能山東照宮参拝…其壱

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「久能山東照宮参拝」…其壱

  6月27日(日・友引)
 
  遠州鎧仁會は平成27年に行われる「御鎮座四百年記念事業」の協賛金を納めるため、
 
 そして遠州鎧仁會の心願成就の御祈祷をしていただくため久能山東照宮に行ってまいりました。

  久能山東照宮を訪れたのは2度目。 昨年9月にも今回参加中3名はここを訪れている。

 その時は雲一つない晴天に恵まれた。

  今回は曇り、時々小雨である。 しかし、その東照宮が極めて美しい。

 雨が全ての物を濡らし色を変える。 本殿真上を霧が覆い経ちこめた霧は雲のオーラを

 纏ったかのように見える。

  神々の国、出雲も雨や雲が多いというが今日は此処に神がいる。
 
 それもそのはず本殿には東照大権現(徳川家康公)、相殿は織田信長公と豊臣秀吉公である。
  
 そこに神もいるとなれば幻想的にならないわけがない。

  友引を選んでここに来たが神がいたのだ。

       いや、違う。

  私たちがここに友、引かれたのだ。

 どちらにしてもここは凄い。 信玄公が築いた城に家康公が眠るのだから…。


 
  神主の後藤さん。 終始お世話になり本当にありがとうございました。
 









 

師集

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「可能性は、自ら生み出すもの」


 

三島・佐野美術館

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  6月13日 三島・佐野美術館へ

       ・佐野美術館
       ・佐野美術館お隣、「せせらぎ亭」お庭拝見
       ・三島大社
 



「日本刀入門」 佐野美術館コレクションより
 同時展示:美濃焼に見る茶陶の美
 右  http://www.sanobi.or.jp/
 平成22年5月29日(土)-7月4日(日)



 千余年の歴史を有する日本刀。
日本刀は、鞘(さや)や鐔(つば)の装飾ばかりでなく、刀身自体が美術的価値を持つ、
世界でも稀有な工芸品です。最高の鉄に、火と土で刃文(はもん)や地文(じもん)
と呼ばれる絵を描き、用を超え美しく磨き上げられた刀。
それは戦場の道具と言うばかりでなく、一族や自らの命、時には一国の運命を託した
武士(もののふ)の歴史そのものとも言えます。
 佐野美術館の創立者である実業家・佐野隆一は、リーダーとしての高い志と、
技術者の眼から良質な日本刀コレクションを形成しました。
本展では、一般に難しいとされる刀剣鑑賞の基礎を分かりやすくご紹介するとともに、
当館のコレクションを通じ、日本刀に見る日本人の美意識をお伝えいたします。





 

遠州三山 「可睡斎」

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 「可睡斎」

 可睡斎(かすいさい)は、静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院。山号は萬松山。
本尊は聖観音(しょうかんのん)。
江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、関三刹と同等の権威を持った。遠州三山の1つ。

室町時代初期、応永年間(1394年 - 1428年)に恕仲天誾(にょちゅうてんぎん)禅師によって開山された。

 徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ父と共に匿われた礼に訪れた際、席上で居眠りをする仙麟等膳和尚(第11代)を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。
故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡和尚」と呼ばれたことから、いつしか本来東陽軒であった寺の名も可睡斎となった。
(家康が父と共に隠れたとされる洞窟は六の字穴として今も残っている。)


 「可睡斎」 でも、本当の意味は…。

   「ここで安らかに睡るべし」 築山御前、信康らの霊を慰めるためのものかも。


 あっ、ちなみに 「お団子」と「アイス」 うまかったっす。

   美味しそうな 「顔」(*^^)v  してるでしょ!太陽


        


 

遠州三山 「油山寺」

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 「油山寺」

 以前、友達の多門ちゃんから「伊藤さん油山寺行ったことある?」「ないんなら油山寺に行った方がいいよ!」って言われたことを思い出し行ってみることにした。

   「なるほど…。」 

     「人の道は心にあり、心は行いにあり」 目と足ですね。

                            さすが多門天!


油山寺(ゆさんじ)は、静岡県袋井市村松にある真言宗智山派の寺院。
遠州三山の1つ。山号は医王山。詳しくは医王山薬王院油山寺と称する。
本尊は薬師如来。紅葉の名所として知られる。


寺伝によれば大宝元年(701年)に行基が創建し、油が湧出した所から「油山寺」の名が付いたという。
その後天平勝宝元年(749年) 孝謙天皇が眼病平癒を願い、当寺の「るりの滝」の水で眼を洗浄した所、全快したので勅願寺に定めたとされる。
以来、特に目の守護、眼病平癒のお寺として信仰を集める。
また、一山の守護神軍善坊大権現は足腰の神として古来より東海道を往来する旅人の信仰を集める。


「遠州三山(えんしゅうさんざん)」
静岡県袋井市にある3つの寺院のこと。 旧遠江国(遠州)の三古刹を意味する。

○医王山油山寺 (真言宗) ○萬松山可睡斎 (曹洞宗) ○法多山尊永寺 (真言宗)



 


 

二俣・信康の会

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「信康の会」

 徳川信康の生涯後世に。 浜松市天竜区住民有志が会発足。


昨年の「静岡新聞」より 

 浜松市天竜区の住民有志がこのほど、10月開幕の「国民文化祭・しずおか2009」に合わせ、天竜ゆかりの武将徳川信康の生涯を後世に伝えていこうと「信康の会」を発足した。
19日早朝には最初の活動として、地元の二俣小付近で児童への声掛けを行った。

 徳川信康の生涯後世に 天竜区住民有志が会発足同会は、信康に関する研究や顕彰活動、信康をまつる地元清瀧寺の遺跡保存、顕彰イベントの開催などを行う。
会長は、天竜商工会副会長の大村邦男さんが務める。

 二俣小での声掛け活動では、清瀧寺所有のよろいかぶとに身を固めたメンバーが正門前に立ち、「信康公がいつもみんなを見守っているからね」などと呼び掛け、通学児童の人気者になった。

 信康は徳川家康の長男として生まれながら、1579年、織田信長に謀反の疑いを掛けられ、21歳の若さで二俣城で自害した悲劇の武将として知られる。

 大村会長は「活動が軌道に乗れば、地域おこしにもつなげていきたい」と語り、会員を募集している。

年会費は、個人会員と賛助会員は1000円、法人会員は3000円。

問い合わせは今村さん〈電053(926)2843〉へ。





信康の生涯
 
 永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で生まれる。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長、鵜殿氏次との人質交換により岡崎城に移る。

永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長による清洲同盟が成立。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城を譲られた。7月元服して信長より「信」の一字を与えられ信康を名乗る。

信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575年)17歳で初陣を長篠の戦いで飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の闘いで退却時の殿を努め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。
特に1歳下だった大久保忠教の『三河物語』によると、会話はいくさのこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれている。

信康の切腹についても『三河物語』の記述が詳しく、それによると、信長の娘である徳姫は、今川の血を引く母築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼(武田信玄の四男)と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康をまったく庇わず、すべてを事実と認めた。
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。

徳川家中では信康への処断に対しては反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかしながら家康は徳川家の老臣が既に認めてしまった以上もはやそのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で徳川家家臣、岡本時仲、野中重政[2]により殺害される。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命なれど主筋に刃を向けることが出来ず、別の者が介錯にあたった。

享年21(満20歳没)。





 

「信康の会」記念式典

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「信康の会」記念式典
  「信康の会」さんが、二俣・清龍寺下に信康立像とお堂を建立。
 私達も式典に参加いたしました。

アップ信康の会の皆さん
アップ会長の大村さん、縣さん、私の3ショット
アップ願意龍にお願い事(お賽銭を口の中に入れるととてもきれいな鈴の音がするんですよ!)右
アップ「信康堂」の横には「本田宗一郎ものづくり伝承館」があります