2020年05月18日12:49
師集 麒麟がくる
カテゴリー │師集
『麒麟がくる』
昨日の大河ドラマ。
いいこと言ってましたね。
人には浮き沈みがある
勝負には勝ち負けがある
沈んだ時にどう生きるか
負けた時にどう耐えるか
その時その者の値打ちが決まる
昨日の大河ドラマ。
いいこと言ってましたね。
人には浮き沈みがある
勝負には勝ち負けがある
沈んだ時にどう生きるか
負けた時にどう耐えるか
その時その者の値打ちが決まる
2020年05月18日12:42
師集 西郷隆盛
カテゴリー │師集
『西郷隆盛』
人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。
だがそこには人間としての「道」がなければならない。
電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。
こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。
しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。
まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。
だがそこには人間としての「道」がなければならない。
電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。
こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。
しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。
まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
2020年05月17日01:46
遠江・日置⑩ 浜松八幡宮
カテゴリー │遠江国日置流はどこへ
遠江国日置流はどこへ⑩
浜松八幡宮 (浜松市中区八幡町)
友人のインスタグラムを見た。
私に伝えるかのように拝殿横の奉納額が写っている。
あれっ! ここ八幡様だ。(驚)
本当に驚いた。
なぜならここは私の小・中学校の学区であり友達も多く8月の夏祭りにはよく遊んだところ。
そして画像を見た後日、5月8日訪ねてみた。
近年では遠州鎧仁會で初詣をしている為、
宮司の桑島さんや権禰宜の鈴木さんも快くお話をしてくださり、とても興味深いお話だったり、今後の思いまでもお伝えることができた。
拝殿横の奉納額は昭和30年から49年までのものがあり、奉納額の日付はその夏祭りの日付であった。
私の生まれた昭和40年もあれば、よく遊んだ年月の毎年8月にはここで弓が引かれ金的が落とされていたのだ。
また、宮司の桑島さんの知る限りでは今現在駐車場となっている本殿裏手に垜(あづち)があったとのこと。
私は思うことがある。ここ浜松は徳川家康公が17年間居城とした地である。
浜松時代の家康といえば、信玄との三方ヶ原の戦い。織田・徳川連合の長篠の戦い。難攻不落の高天神城を奪還。秀吉との小牧・長久手の戦いを経験し生還した地でもある。そして、浜松八幡宮は家康の居城浜松城の鬼門を守る神社である。
「鬼門」であるからには、弓矢を以って鬼の眼を射る金的神事は、現代においてもこの遠州地域を代表して執り行うべき大切な神事ではないかと思う。
徳川家康という人はこの時代を切り抜け、何かに守られ、海道一の弓取り、征夷大将軍となるのだ。
また、何の因果かはわからぬが、今年は家康公浜松城入城450年の年でもある。
「土地・樹木・伝統・人とのつながり」を守っていく/
浜松八幡宮 宮司 桑島佳令さん
https://itot.jp/interview/5256
『弓・矢は、それぞれ単独でも霊力があるとされる』
「破魔弓・破魔矢」
破魔矢(はまや)は、お正月に初詣などの際に授与される「縁起を祝うための矢」のことをいいます。「破魔」という漢字が示すように、不幸や災いといった「魔」を破って、幸福に一年を過ごせますようにという願いや、破魔矢が「矢」の形状をしていることから、一年間の好機を射止められますように、といった願いの意味が込められています。
「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」
鳴弦の儀は弓を使用した日本の儀礼のひとつ。弦打の儀(つるうちのぎ)とも呼ばれる。弓に矢をつがえずに弦(つる)を引き音を鳴らす事により気を祓う魔除けの儀礼。
魔気・邪気を祓う事を目的とする。 後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。 鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。
鳴弦の儀が始まったのは平安時代と言われる。元々は誕生儀礼として始まり、次第に夜間の警鐘及び滝口武者の名対面の時、天皇の日常の入浴時(蔵人が担当する)、主の病気祓い、不吉な出来事が起こった際など幅広く行われるようになった。
「八幡神・弓矢神」
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
日本においては弓矢の神ではなく「弓矢神」という一つの単語になっていて、応神天皇(八幡神)のことでもある。応神天皇を祀っている八幡神社の数は、稲荷神社に次いで全国第2位で広く信仰されてきた。また弓矢や運命や確率に関わり幸運を願う時には「八幡」という語が使われてきた歴史があり、八幡は祈願と弓矢の意味が一体となす語として、射幸心という語の語源ともなった事由である。これらのことからも古くから弓矢が信仰の対象となってきたことが窺える。また八幡神は八幡大菩薩としても夙(つと)に知られ、「南無八幡」と言う慣用句からもうかがい知ることができる。
『神は人の敬いによりて威を増し、
人は神の徳によりて運を添ふ』
地元の神社にもいきましょう。
地元の神社を綺麗にしましょう。
浜松八幡宮 (浜松市中区八幡町)
友人のインスタグラムを見た。
私に伝えるかのように拝殿横の奉納額が写っている。
あれっ! ここ八幡様だ。(驚)
本当に驚いた。
なぜならここは私の小・中学校の学区であり友達も多く8月の夏祭りにはよく遊んだところ。
そして画像を見た後日、5月8日訪ねてみた。
近年では遠州鎧仁會で初詣をしている為、
宮司の桑島さんや権禰宜の鈴木さんも快くお話をしてくださり、とても興味深いお話だったり、今後の思いまでもお伝えることができた。
拝殿横の奉納額は昭和30年から49年までのものがあり、奉納額の日付はその夏祭りの日付であった。
私の生まれた昭和40年もあれば、よく遊んだ年月の毎年8月にはここで弓が引かれ金的が落とされていたのだ。
また、宮司の桑島さんの知る限りでは今現在駐車場となっている本殿裏手に垜(あづち)があったとのこと。
私は思うことがある。ここ浜松は徳川家康公が17年間居城とした地である。
浜松時代の家康といえば、信玄との三方ヶ原の戦い。織田・徳川連合の長篠の戦い。難攻不落の高天神城を奪還。秀吉との小牧・長久手の戦いを経験し生還した地でもある。そして、浜松八幡宮は家康の居城浜松城の鬼門を守る神社である。
「鬼門」であるからには、弓矢を以って鬼の眼を射る金的神事は、現代においてもこの遠州地域を代表して執り行うべき大切な神事ではないかと思う。
徳川家康という人はこの時代を切り抜け、何かに守られ、海道一の弓取り、征夷大将軍となるのだ。
また、何の因果かはわからぬが、今年は家康公浜松城入城450年の年でもある。
「土地・樹木・伝統・人とのつながり」を守っていく/
浜松八幡宮 宮司 桑島佳令さん
https://itot.jp/interview/5256
『弓・矢は、それぞれ単独でも霊力があるとされる』
「破魔弓・破魔矢」
破魔矢(はまや)は、お正月に初詣などの際に授与される「縁起を祝うための矢」のことをいいます。「破魔」という漢字が示すように、不幸や災いといった「魔」を破って、幸福に一年を過ごせますようにという願いや、破魔矢が「矢」の形状をしていることから、一年間の好機を射止められますように、といった願いの意味が込められています。
「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」
鳴弦の儀は弓を使用した日本の儀礼のひとつ。弦打の儀(つるうちのぎ)とも呼ばれる。弓に矢をつがえずに弦(つる)を引き音を鳴らす事により気を祓う魔除けの儀礼。
魔気・邪気を祓う事を目的とする。 後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。 鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。
鳴弦の儀が始まったのは平安時代と言われる。元々は誕生儀礼として始まり、次第に夜間の警鐘及び滝口武者の名対面の時、天皇の日常の入浴時(蔵人が担当する)、主の病気祓い、不吉な出来事が起こった際など幅広く行われるようになった。
「八幡神・弓矢神」
八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
日本においては弓矢の神ではなく「弓矢神」という一つの単語になっていて、応神天皇(八幡神)のことでもある。応神天皇を祀っている八幡神社の数は、稲荷神社に次いで全国第2位で広く信仰されてきた。また弓矢や運命や確率に関わり幸運を願う時には「八幡」という語が使われてきた歴史があり、八幡は祈願と弓矢の意味が一体となす語として、射幸心という語の語源ともなった事由である。これらのことからも古くから弓矢が信仰の対象となってきたことが窺える。また八幡神は八幡大菩薩としても夙(つと)に知られ、「南無八幡」と言う慣用句からもうかがい知ることができる。
『神は人の敬いによりて威を増し、
人は神の徳によりて運を添ふ』
地元の神社にもいきましょう。
地元の神社を綺麗にしましょう。
2020年05月03日22:43
遠江・日置⑨ 賀久留神社
カテゴリー │遠江国日置流はどこへ
遠江国日置流はどこへ⑨
賀久留(かくる)神社 (静岡県浜松市西区神ケ谷町)
遠江国の日置流に関して図書館で調べていたらふと目にとまった神社があった。
この辺りにしては、古い奉納額があるらしい。
4月11日。行ってみた。
拝殿に奉納額は無かったが、御用の際は駆け付けます。とあったので何となく今日は電話だなと思い、かけてみた。。
ほどなく、宮司の須山さんが来た。(この方がまたとても親切な方でした)
まずは、お祭り弓の事。奉納額の事をお話した。
では、「拝殿へどうぞ」とのことで拝殿へ。
拝殿には古い絵図が額に入れられており解説が始まった。
「これはですね~」と、聞いてる矢先気づいた。
「あーっ」「あるーっ!」(鳥肌)
拝殿には、文政11年(1828年)、今から192年前の神社の絵図があり、しかも絵図にはあの博覧図のような矢場、射小屋がちゃんと描かれている。
「文政とは」
文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。
※天皇=仁孝天皇 ※将軍=11代徳川家斉
※大塩平八郎の乱
※文政年間に誕生した人物
文政6年(1823年): 勝海舟
文政7年(1824年): 徳川家定(江戸幕府第13代将軍)
文政8年(1825年): 岩倉具視
文政10年(1827年): 西郷隆盛
文政13年(1830年): 大久保利通
そして、奉納額。この神社の歴史は本当に古く、雅楽なども行われており当時使われていた面などはとても貴重の物で須山さんの代にはすでになく。現在は博物館で管理しているという。
奉納額のいくつかも恐らく博物館にあるのでは。とのことであった。
それからもう一つ。
掲載画像に戦争時代の写真がある。これは第二次世界大戦時の物。
境内には沢山の人と、人の名前が書かれた大きな幟が何本もある。
なんでも、第一次世界大戦の時。ここで祈願して戦争に行った若者は一人として命を落とすことなく無事に生還したそうで、第二次の時にはその噂を聞いた出征兵とご両親などが全国からこの賀久留神社に集まったという。いわゆる弾除け信仰の地でもあったそうです。
更にもう一つ。
須山さんが、ちょっと待っててといい社務所から持ってきてくれた写真。
拝殿の中から神殿の方を映した写真である。
しかもね。「ついこの間」の出来事。
ついこの間、ここに来た人が11年前に撮ったという写真。
須山さん 「なんか見える?」
私・・・ 「えっつ。! これ・ですか?」(鳥肌)
※皆さん、見えます? (ここは、龍神を祀っている)
これは、11年前の写真。
何気に・・・。今日何日だっけ。・・・11日。
ふと、時計を見たら。・・・・11時。(鳥肌)
二引紋を縦にすると、11。(笑)
次は博物館。行ってみます。
「賀久留神社」
浜松駅北西5kmの神ヶ谷に鎮座。
(この辺りは、神ケ谷、神久呂、神原等、神の字につく地名が多い)
北上する道路脇に鳥居が立ち、その上に神門。さらに階段を登ると境内がある。
境内左手脇には樹齢800年といわれる大きな御神木夫婦木楠がある。
境内正面に拝殿、拝殿の後方、垣の中に本殿がある。
三代実録によると、貞観四年(862)5月に従五位下に叙されている。
中世以降は神ヶ谷村八幡社と称していた神社で、祭神に、その名残が残っているが、本来は雨乞いの神を祀るらしい。
「賀久留」の名は、周囲に加久留池や加久留川があり、昔は「かくる神社」とひらがな名であった。「かくれ」→「かくる」→「賀久留」となり、そもそもは、神が隠れ籠もる地という意味らしい。
神紋は二引紋。二引の紋は、水神、龍神と龍を表現する紋と言われる。
また、こんな由緒も。
延元三戌寅年正 月、宗良親王の御祈願応永二拾六己亥年将軍 足利義尚公御造営。天文拾辛丑年三月国 司今川義元公再建御神領壱千石寄進。 慶長六辛丑年伊奈備前守忠次公御黒印 拾五石御寄附。慶安元年、徳川家光公先規に 依り御朱印拾五石御寄附。領主吉田城主、松平 伊豆守信祝殿以来累代名祭祀料山林百六拾 四丁八反歩御寄附。浜松藩主代々奉幣。
以上の様に武門、武将、領主の崇敬が深かった。
もと、八幡宮と称していたが改称の儀、明治拾六年 一月許可され、昭和四年七月四日、県社に列格せられる。
昭和5年5月、『昭和天皇行幸の御時に当社所有宝物の天覧の光栄を賜う』とある。
※須山さん。
色々とお話しくださり感謝いたしております。
本当にありがとうございました。
※ 何が見えますか?
賀久留(かくる)神社 (静岡県浜松市西区神ケ谷町)
遠江国の日置流に関して図書館で調べていたらふと目にとまった神社があった。
この辺りにしては、古い奉納額があるらしい。
4月11日。行ってみた。
拝殿に奉納額は無かったが、御用の際は駆け付けます。とあったので何となく今日は電話だなと思い、かけてみた。。
ほどなく、宮司の須山さんが来た。(この方がまたとても親切な方でした)
まずは、お祭り弓の事。奉納額の事をお話した。
では、「拝殿へどうぞ」とのことで拝殿へ。
拝殿には古い絵図が額に入れられており解説が始まった。
「これはですね~」と、聞いてる矢先気づいた。
「あーっ」「あるーっ!」(鳥肌)
拝殿には、文政11年(1828年)、今から192年前の神社の絵図があり、しかも絵図にはあの博覧図のような矢場、射小屋がちゃんと描かれている。
「文政とは」
文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。
※天皇=仁孝天皇 ※将軍=11代徳川家斉
※大塩平八郎の乱
※文政年間に誕生した人物
文政6年(1823年): 勝海舟
文政7年(1824年): 徳川家定(江戸幕府第13代将軍)
文政8年(1825年): 岩倉具視
文政10年(1827年): 西郷隆盛
文政13年(1830年): 大久保利通
そして、奉納額。この神社の歴史は本当に古く、雅楽なども行われており当時使われていた面などはとても貴重の物で須山さんの代にはすでになく。現在は博物館で管理しているという。
奉納額のいくつかも恐らく博物館にあるのでは。とのことであった。
それからもう一つ。
掲載画像に戦争時代の写真がある。これは第二次世界大戦時の物。
境内には沢山の人と、人の名前が書かれた大きな幟が何本もある。
なんでも、第一次世界大戦の時。ここで祈願して戦争に行った若者は一人として命を落とすことなく無事に生還したそうで、第二次の時にはその噂を聞いた出征兵とご両親などが全国からこの賀久留神社に集まったという。いわゆる弾除け信仰の地でもあったそうです。
更にもう一つ。
須山さんが、ちょっと待っててといい社務所から持ってきてくれた写真。
拝殿の中から神殿の方を映した写真である。
しかもね。「ついこの間」の出来事。
ついこの間、ここに来た人が11年前に撮ったという写真。
須山さん 「なんか見える?」
私・・・ 「えっつ。! これ・ですか?」(鳥肌)
※皆さん、見えます? (ここは、龍神を祀っている)
これは、11年前の写真。
何気に・・・。今日何日だっけ。・・・11日。
ふと、時計を見たら。・・・・11時。(鳥肌)
二引紋を縦にすると、11。(笑)
次は博物館。行ってみます。
「賀久留神社」
浜松駅北西5kmの神ヶ谷に鎮座。
(この辺りは、神ケ谷、神久呂、神原等、神の字につく地名が多い)
北上する道路脇に鳥居が立ち、その上に神門。さらに階段を登ると境内がある。
境内左手脇には樹齢800年といわれる大きな御神木夫婦木楠がある。
境内正面に拝殿、拝殿の後方、垣の中に本殿がある。
三代実録によると、貞観四年(862)5月に従五位下に叙されている。
中世以降は神ヶ谷村八幡社と称していた神社で、祭神に、その名残が残っているが、本来は雨乞いの神を祀るらしい。
「賀久留」の名は、周囲に加久留池や加久留川があり、昔は「かくる神社」とひらがな名であった。「かくれ」→「かくる」→「賀久留」となり、そもそもは、神が隠れ籠もる地という意味らしい。
神紋は二引紋。二引の紋は、水神、龍神と龍を表現する紋と言われる。
また、こんな由緒も。
延元三戌寅年正 月、宗良親王の御祈願応永二拾六己亥年将軍 足利義尚公御造営。天文拾辛丑年三月国 司今川義元公再建御神領壱千石寄進。 慶長六辛丑年伊奈備前守忠次公御黒印 拾五石御寄附。慶安元年、徳川家光公先規に 依り御朱印拾五石御寄附。領主吉田城主、松平 伊豆守信祝殿以来累代名祭祀料山林百六拾 四丁八反歩御寄附。浜松藩主代々奉幣。
以上の様に武門、武将、領主の崇敬が深かった。
もと、八幡宮と称していたが改称の儀、明治拾六年 一月許可され、昭和四年七月四日、県社に列格せられる。
昭和5年5月、『昭和天皇行幸の御時に当社所有宝物の天覧の光栄を賜う』とある。
※須山さん。
色々とお話しくださり感謝いたしております。
本当にありがとうございました。
※ 何が見えますか?