箱根 「元湯 環翠楼」

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

  5th anniversary in HAKONE

   「登録有形文化財 元湯 環翠楼」



 5年目の記念日。昨年末からどうしよう。と思っていた。
知人のお気に入りの場所。お勧めの老舗旅館を紹介してくれた。

  「元湯 環翠楼」

 その歴史は古く、
1614年(慶長19年)箱根塔ノ沢に湯治場として開湯をする。
今回は、ここを中心に箱根をめぐってみた。

 不思議です。
ここに決めた後、ふしぎ発見、ブラタモリ、旅サラダで箱根を紹介。
色々と参考にさせて頂きました。




登録有形文化財 元湯 環翠楼

 公式サイト→ http://www.kansuiro.co.jp/

1. 大正時代の雰囲気がそのまま残された空間
国内外の多くの文化人や政治家が定宿とした環翠楼。皇女和宮様、天璋院様、伊藤博文から夏目漱石や島崎藤村をはじめとする文学者まで、この場所を愛した人々とのご縁がそのまま環翠楼の歴史でもあります。大正ロマン薫る館内の風情、館内の至るところに飾られた文人ゆかりの品々が、往時の面影を現代に伝えます

2. 匠の技が光る100年前の高楼建築
環翠楼の建物は大正時代に建造された国内でも数少ない木造による高層建築であり、国の登録有形文化財にも指定されています。大黒柱を用いない「総もたせ」という特殊な工法で建てられた神代杉の大広間を有する、4階建ての木造による高層建築が現存していることは奇跡的なことであり、多くの建築家や職人が注目する文化財として知られています。

3. 山川を一望できる露天風呂・四季折々のお料理
早川の清流や箱根山を一望できる高台に設置された露天風呂。源泉掛け流しのお湯につかりながら、塔ノ峰や明星ヶ岳など、近隣の山々の四季の変化をご鑑賞ください。箱根の山の幸、小田原や相模湾の海の幸をふんだんに用いた四季のお料理はこの土地ならではの贅沢。夕食・朝食共に各お部屋でお楽しみいただけます。

















































































































































 

御室流華道「杜若会」 (男性のいけばな講座)

カテゴリー │杜若会(華道)

 御室流華道「杜若会」 (男性のいけばな講座)

 浜松市茶室松韻亭さんと御室流華道教授・湖風斉裕心先生の企画による男性のいけばな講座。

 平成29年5月22日。

今回の花材は「ギボウシ(擬宝珠)」

  同じギボウシ。 生ける人によって違うものなのですね。


 ギボウシのお話。

 ギボウシは日本・中国・朝鮮半島に30種ほど分布している多年草.。
その多くは日本原産ですが、1830年頃に日本に滞在していたシーボルトがヨーロッパに紹介し、欧米で改良が進められさまざまな品種が生まれています。
日陰でもよく育つため庭園の植え込みや庭のカラープランツとしてよく利用され、また野草風の涼しげな雰囲気をもつので、オリエンタルなガーデニングとして欧米でも日本以上の人気あります。

 和名のギボウシは連なって咲く花のつぼみの形が、橋の欄干に使われる擬宝珠「ギボシ(切り口の柱が痛まないように宝珠の形をしたおおい)」に似ていることから「ギボウシ(擬宝珠)」とつけられました。
別名は「ハナギボウシ(花擬宝珠)です。英名はこの葉姿がオオバコに似ていることから「Plantain lily(プランテン リリー)」、「Day lily(デイ リリー)」と呼ばれます。
















 

今川復権宣言

カテゴリー │遠州鎧仁會

  『今川復権宣言』

 本日は、駿河の名将・今川義元公の命日忌法要の日。
遠州鎧仁會からは、中西部、中部、東部の三名が参加。

 命日忌法要と、また今回は2年後の今川義元公生誕500年に向けて今川義元公の功績を再評価しようと、「今川復権宣言」と題され、静岡大学名誉教授・小和田哲男氏と臨済寺・阿部宗徹老師の講演などがあった。

 小和田哲男教授は講演で「政治的にも軍事的にも先進的な武将で、家臣だった徳川家康にも大きな影響を与えた」とし、会場では、ゆかりの地に住む市民に改めて誇りを感じていただきたいと結んだ。


今川義元

 今川治部大輔義元(いまがわじぶのたゆうよしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。
 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。

 

臨済寺
(りんざいじ) 静岡市葵区大岩町7-1
http://www.sizutabi.com/sizuoka/rinzai.html
 
 臨済寺は、 修行僧の専門道場のため通常は拝観できず、 年2回の一般公開日(5月19日、10月15日)を設けています。
臨済寺は、賤機山の南麓に位置し、 天文5年(1536)、今川義元の軍師として有名な太原雪斉長老が、 妙心寺の大休和尚を招いて開山とした禅宗寺院。
  幼い徳川家康公が今川氏の人質時代、 太原雪斉を師として学んだとも伝えられる寺。
本堂は、東日本有数の禅宗方丈形式で、 静岡県では最も古い年代のものです。
天正15年(1587)に家康公が再建したとの伝えもあり、 遅くとも慶長年間までには再建されたと推測されます。
 昭和63年から平成5年までの半解体修理で、 正保2年(1645)当時の形式を再現するため、 屋根は杮葺き、正面側通りは吹放しの広縁、玄関は檜皮葺きとなりました。
本堂は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されています。



大聖寺(だいしょうじ) 豊川市牛久保町岸組66  昭和51年10月30日市指定史跡
http://www.net-plaza.org/KANKO/toyokawa/haka/imagawa/index.html

 大聖寺は浄土宗の寺院で、山号は牛頭山、本尊は阿弥陀如来で、豊鳳二十一弘法大第6番師霊場。 
境内の北西の隅に石柵に囲まれて建つ墓が、戦国時代駿遠三の大名今川義元の胴塚。
義元は永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで戦勝祝宴中のところ、大雷雨に乗じた織田信長の奇襲をうけて敗死。家臣たちは、首のない遺体を背負って駿河へ帰る途中、ひとまずこの地に葬り、手水鉢をその上に置いて墓じるしとしたものが、現在もそのままになっいる。



















































 

BUSHIDO

カテゴリー │遠州鎧仁會



『BUSHIDO』

Have you heard of this book?
It's highly recommended.


『BUSHIDO』
The Soul of Japan/Inazo Nitobe















 

平成29年 第52回長篠合戦のぼりまつり

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「平成29年 第52回長篠合戦のぼりまつり」


 昨日は、愛知県新城市にて開催された、第52回長篠合戦のぼりまつりに参加。
大変よく晴れ、唸るほどの暑さの中であったが、参加者全員怪我や事故もなく無事お役目を果たすことができました。

 また、私は今回はじめてまつり終了後まで会場にいることとなりましたが、地元の小学生が、まつり終了後にゴミ袋を片手に、皆で会場や近隣のゴミ拾いをしている姿がとても印象的でありました。
あの暑い中、多くの来場者を迎えた一日を締めくくるとても大切な作業であると思います。頭が下がります。
本当にご苦労様でした。

 長篠合戦のぼりまつり関係者様、スタッフの皆様。地元でこのお祭りを支えて下さる皆様方。
お世話になりました。また来年宜しくお願いいたします。



 遠州鎧仁會は、日置流雪荷派・具足弓演武と日本前装銃射撃連盟・火縄銃演武に参加いたしました。

「日置流(へきりゅう)」

 弓術の代表的流派の一つ。
戦国時代の明応年間 (1492~1501) 、弓道中興の祖といわれる日置弾正正次 (へきだんじょうまさつぐ) が創始したもので、歩射による技法を中心にして旧来の実戦的弓道にさらに技術研究を加え革新した。
この流派からは、吉田派、雪荷派、道雪派、印西派、竹林派などが分派した。



神事における「お祭り弓」の考察より

コチラ⇒ http://www5b.biglobe.ne.jp/~fes/report.htm

2、歴史的文化的背景

 天正3年(1575)、武田信玄の後を継いだ勝頼は1万5千の兵で長篠城(鳳来町)を囲み攻撃、長篠城主奥平貞昌、5百の兵でこれを防ぎ、鳥居強右衛門の働きによって駆けつけた援軍織田信長(3万8千)、徳川家康(8千)連合軍が設楽原で合戦。武田軍1万の戦死者を出し敗北、この戦によって武田氏は没落し、織田、徳川の勢力は絶対的なものとなる。
 関ヶ原、小牧長久手の戦いと共に、その後の日本の歴史を変えてゆく事になる長篠の戦いである。
現在、お祭り弓の残る地域(豊川、額田、鳳来、作手、足助、遠州)と、長篠の合戦当時における徳川家康の勢力圏とほぼ重ねあわせる事ができる。
しかし、戦後市街化された地域に於いては、祭りそのものの変貌衰退と同時にお祭り弓も衰退したと考えられる。

 古くからこの地域では、「三河の張り弓」(弓の弦を張ったまま、いつでも引くことのできる状態で持ち歩くことが許可された地方)、「遠州の裸弓」(弦は張ることはできないが、弓を裸のまま持ち歩くことが許可された)、「尾張の袋弓」(袋に入れてなら弓を持ち歩くことが出来る)と言われ、徳川家康の時代から、この地方では百姓が弓を引くことや、張った弓を持ち歩くことが許された領地として知られている。
 現在も家康の幼名である元康の名で「弓の事」という書状が、各地の弓術の師匠に残されている。
それによると武士だけではなく、農、工、商に関わらず弓を引くことが許可され、又いったん有事の際には、戦の加勢に駆けつけるように、とも記されている。
三河百矢場と呼ばれてきたように、弓の師匠を各地の神社を中心に任命し、代々継承することで有事のために備えたのであろう。

 家臣による正規軍に対し百姓、町人が予備軍的な役割を担っていた。
お祭り弓に参加する弓士も、普通には「弓引き」と呼ばれている。
武士ではなく百姓町人である事と、「弓引き」と俗っぽく呼ばれていることは深く関係するようである。
この地域の矢場では、お祭り弓とほぼ同じ形式にそった射会が月例射会などで行われている。
お祭り弓を継承、保存する上で有効に機能している。
現在でも全日本弓道連盟の段、級に関わることなく、矢場を活動の中心におくものが多くいる。






































































































 

29年 掛川城お持て成し

カテゴリー │遠州鎧仁會


 「平成29年掛川城お持て成し」

 本日の遠州鎧仁會は、掛川城にてお持て成し。

 まずはご来城のお客様・・・。
我が国遠方では、東は仙台、西は兵庫県からのお客様でありました。
また、多かったのがお隣の愛知県。 以外にも次いで浜松のお客様が多かったです。

 Youの皆さんではダントツがアジアの国々の方、一番は台湾の方々でしたね。

 なぜ、掛川城に! との質問では、嬉しいことに掛川城を目指してやってまいりましたという県外の方が多かった。
つまり、ついでに立ち寄ったのではなく旅の目的の一番は掛川城であったということなのだ。
お城や歴史に興味のある方がいかに多いかが伺える。


 けど、そんな中・・・。

 「掛川城を目指して渋滞の中やって来たけれども。忍者さんや武将さん達に会えて良かった。今日はとてもラッキーな日でした。」
 こういうお言葉がね。本当にありがたいお言葉なのですよね。

 それからもう一つ。義援金募金の件です。
数は決して多くはありませんでしたが、率先して入れて下さる方がいらっしゃいました。
本当に感謝です。 必ず届けます。 ありがとうございました。

 以上です。


最後に・・。 本日掛川城にご来城くださいました皆様。ありがとうございました。
またどこかでお見掛けくださった時は是非お声掛け下さいませ。

 そして、掛川城の皆さん。この度はありがとうございました。


本当に最後です。
  「小沢さん」 お疲れ様でした。 

 これまでの小沢さんの努力。見習わせて頂きます。
今後とも、遠州鎧仁會を宜しくお願いいたします。
本日は本当にありがとうございました。


追伸: 石川さん。 掛川城まで遥々のご来城とお差し入れ。感謝です。



 















































































 

三河日置流雪荷派合同稽古

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

「平成29年 三河日置流雪荷派合同稽古」

 29年5月5日に愛知県新城市にて開催されます『長篠合戦のぼりまつり』具足弓演武の為の合同稽古が行われた。

この動画は合同稽古と長篠合戦のぼりまつり開催のPRを兼ね制作されました。

 YouTubeはコチラ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=llb-ddUzx-I


 新城市観光協会 長篠合戦のぼりまつり詳細はコチラ⇒ http://shinshirokankou.com/event/nobori.html