ライオン少年/雄獅少年

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

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「My favorite」
(私の好きなもの)
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映画 『ライオン少年/雄獅少年』
https://gaga.ne.jp/lionshonen/
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☘️題材、内容、映像、音楽、どれも素晴らしいです。映画館で観るべき。超お勧めです。
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2021年中国大ヒット&作品満足度No.1‼️
中国獅子舞競技に魅せられた少年達の熱き物語を世界クオリティのCGアニメーションで描く獅子舞バトル・アクション・エンターテイメント
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▶Story
「僕らには、たった一度のチャンスもないのか?」
 片田舎で出稼ぎをしている父母の帰りを持つ貧しい少年チュンは、ある日、華麗な獅子舞バトルで屈強な男を倒した同じ名前の少女チュンから、獅子頭を譲り受けた。チュンは、ちょっぴり情けない仲間のマオやワン公と獅子舞バトル全国大会を目指すことを決意する。
飲んだくれの元獅子舞選手チアンを口説き落として師匠に迎え、その妻アンジェの励ましを受け、特訓の日々を送る。しかし、大会目の前でチュンの父が病に倒れてしまう。一家を支えるためには、チュンが出稼ぎに行くしかない。大都市での労働は夢を追う時間もないほどに過酷だった。疲れ果てたチュンの前に、あの少女が再び現れた。
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▶中国獅子舞
 中国獅子舞は、武術・技芸・演劇の特長をあわせもった民間芸術の一つです。古来より人々に親しまれ受け継がれてきました。
獅子は神に忠実に仕える勇猛な聖獣として親しまれ、 幸福を呼び寄せ厄を払うと信じられ中国各地に浸透、祝い事で舞われてきました。
中国の伝統的観念や武術の精神を持ち、強さを表わし弱いものを助けるといった勇敢・賢さを象徴しています。 頭をかんでもらえると、「無病息災」や「健康長寿」の御利益があるといわれています。
南北の流派があり、本作は南派。色鮮やかで表情豊かであり、雄々しい動きが特徴です。
現在では中国国家級無形文化遺産にも指定されているほど強く文化として根付いています。
本作で描かれているのはまるで本物の獅子のようにアクロバティックで躍動感に溢れ、まさに“獅子舞バトル”という言葉にふさわしい熱く激しい争闘です。
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※私は静岡シネギャラリーへ
※TOHOシネマズららぽーと磐田では上映終了となっております。
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#静岡シネギャラリー
#tohoシネマ
#ユナイテッドシネマ




























 

引間城 と 飯尾氏四代

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「引間城 と 飯尾氏四代」

乱世に生きた引間城飯尾氏四代

 長連(おさつら)-賢連(ただつら)-乗連(のりつら)-連龍(つらたつ)と続く飯尾氏歴代は室町後期における浜松地方の有力な武将であった。
引間城(浜松市元城町)を本拠とした飯尾氏は四代にわたって西遠の一角を支配、それは波乱にとんだ戦国武将としての生き様をした。
長連(おさつら)は今川氏のために討死にし、連龍(つらたつ)は今川に謀殺されている。まさに戦国乱世の縮図を飯尾氏の消長に見ることができる。

 浜松城が徳川家康によって構築される以前この地方の中心に位置して構えられていたのは引間城であった。浜松城の東北四〇〇メートルほどの位置に元城町の氏神である元城町東照宮が鎮座している。その元城町東照宮の境内を中心とする一帯が引間城址である。現在引間城祉には銀杏の巨木をはじめ、楠、椎、松、ユーカリなどの大樹が枝を広げ、市街地の中心に潤いある森を生み出しており、昭和五十三年十月、浜松市の保存樹林の指定を受けている。引間城祉の西側は国道152号線をはさんで浜松城公園駐車場やホテルコンコルド等の高層ビルが見られるが、太平洋戦争前は、引間城祉周辺は深い谷になっており、古城としての面影をとどめていた。


引間城の築城は謎

 引間城が何時頃、誰によって築かれたのかこれを明らかにする史料がないが、室町の初めにはすでに三河の豪族吉良氏の流れをくむ一族が城砦をこの辺に構えていたもののようで、
やがて浜松庄の領家吉良氏の代官として大河内備中守貞綱が引間城に在城するようになったようである。引間城について諏訪神社の神官であった国学者として知られる杉浦国頭(すぎうらくにあきら)は著書「曳馬拾遺(ひくましゅうい)」の中に次のように書いている。
「古城、この城は引間の城という、その築かれし初め定かならず、或記に久野佐渡守末子越中守家進、永正の頃、三善為連(みよしためつら)と言う人城にとりたてけるよし見えたり。又或記に永正の頃、三河の国臥蝶城主大河内備中守貞綱、引間の城を築き、斯波武衛等加勢して駿河の今川をは拒む・・・」築城者は明らかではないが、引間の城は室町時代の中頃に築かれた城のようである。



引間城 2012年撮影





飯尾氏の系譜

 さて遠江における武将の一人として飯尾氏の名がはじめて登場するのは今川氏親(いまがわうじちか)の時代である。氏親が遠江に入国した当時、飯尾善左衛門尉長連が引間の奉行として浜松の地にあった。飯尾氏はもともと室町幕府の奉行人であったようで遠江浜松入りは今川氏の招きによるものであった。当時の遠江は土豪たちが強い勢力圏をもっていただけに、今川氏としてはそれを押えてゆくのに精一杯であった。わけても中遠から東遠にかけては横地、勝間田の両氏が反今川色を打ち出し、氏親の子義忠の代わりになり横地、勝間田は狩野介の居館(磐田市見付)にたてこもって抵抗した。義忠は見附にこれを攻め、激しい闘いの末、横地、勝間田の両氏を滅亡においやった。

だが駿河への帰陣の途中で、義忠は横地氏の残党に襲われ、塩買坂(小笠郡小笠町)において討ち死にしてしまった。この戦いの時義忠と行いを共にしていた飯尾長連も討死にしていることが「今川記」や「宗長日記」に見えている。
この連歌師宗長が書き綴った「宗長日記」は戦国期の駿遠の動きを知るえで、きわめて良質な史料とされており、飯尾氏の事も登場する。

すなわち「宗長日記」大永二年(1522)の「朝比奈戦忠の次第」の項の中には次のようにみえてくる。
「浜松庄吉良殿御知行奉行大河内備中守、堀江上野守にくみしてうせぬ。其刻、飯尾善四郎賢連、吉良より申し下され、しばらく奉行とす。すべて此父善左衛門尉長連、義忠入部の時に、当庄の奉行として、度々の戦忠、異他なり。あまつさえ、義忠帰国の途中にして凶事。名誉の防矢数射尽し、則討死。其子善四郎乗連、伯父善六郎為清其旧号わすれたまはず。」
この一文によって飯尾氏の系譜も判る。遠江における飯尾氏の初代飯尾善左衛門長連が、塩買坂において討死してのち、引間奉行として引間に往来したのが大河内備中守貞綱が引間城の築城者と考えられるとしるされている。大河内備中守貞綱はやがて今川氏親に反抗したため、氏親はこの城を攻め、備中守は逃亡したことが諸書にみえており、そのあとの引間の奉行として今川氏が任命したのが、塩買坂で討死して長連の子善四郎賢連である。かくして賢連は浜松庄の代官として引間城に入り、以後引間城は賢連からその子善四郎乗連へ、そしてさらに連龍へと時代の流れをみる。


飯尾ゆかりの東漸寺

 浜松市向宿町に寿量院という臨済宗方広寺派の寺がある。この寺に残されている中世文書六点が浜松市の文化財(古文書)に指定されているが、そのなかに飯尾乗連と飯尾連龍が授龍庵(寿量院)あてに発した寺領安堵の判物があり、天文から永禄にかけて飯尾氏が今川を背景として大きな力をもっていたことがうかがわれる。
ところが、永禄五年(1562)今川氏真が突如として引間城の飯尾連龍を攻撃している。連龍が今川氏に反抗の動きをしたからである。今川氏は義元が尾張国(愛知県)桶狭間で討死して以降家運がにわかに斜陽化、義元が討死した永禄三年(1560)の翌年になると飯尾豊前守連龍は、浜名湖の井伊氏等と共に、織田、徳川方に従属する動きをみせた。これを知った今川氏真が永禄五年(1562)二月に引間城に連龍を攻めたのである。このときの寄せ手の大将であった新野左馬助は討死した。一方城側も多くの死傷者を出し、飯尾氏の家臣渥美、森川、内田といった面々が討死している。
当時の引間城がどれほどの規模であったものか明確ではないが、江戸期に描かれた浜松城絵図のなかに「古城」として記入されている一部が引間城のあととされている。今でこそ周辺の谷が埋めたてられ、小高い丘陵といった感じだが、昔は自然の地形を巧みに利用した要害の城であったと思われる。

東漸寺 2016年撮影






連龍、悲運な最後

 永禄五年(1562)の攻防戦は守りが固く、今川氏真はこの城を落とすことができず、結果和睦の形で幕がおろされた。しかし氏真は飯尾連連に対し深い疑念を抱いていたため、永禄八年(1565)十二月、連龍を駿府に呼び寄せ、城内の一角において謀殺してしまったのである。わずかな共の者を連れただけの駿府入りであったため、氏真の奇略の前に逃れることができず、悲運の最期をとげたのだった。その後の引間城は、飯尾連龍が殺害されたことにより大きくゆらいだ。家老の江間安芸守と江間加賀守の対立はこの城の瓦解に拍車をかけ、やがて永禄十一年(1568)德川家康の浜松入りによって引間城は家康の掌握下に入った。四代にわたった飯尾氏の遺風は引間城の廃城によって完全に消え去った。
引間城に入った徳川家康はこの城を遠江経略の拠点とするには規模が小さすぎるとし、西側にある独立丘陵まで拡張し引間城の旧城地は浜松城内に抱擁した。
江戸時代、引間城には米蔵がおかれていたことが城絵図によって判る。
   (参考 遠江武将物語/神谷昌志)

飯尾氏は、初代飯尾善左衛門長連(1522年)から、賢連、乗連、連龍(1565年)へと飯尾氏四代、43年にわたり城主として引間城に在城していた。

また、引間城と飯尾姓にまつわるおもしろいデータがある。
電話帳データ静岡県内約150件のうち、約130件が浜松市内に集中し、特に引間城のある浜松市中区では、1位高林地区、2位曳馬地区で64件もあるのだ。
飯尾氏か、またその一統か、何らかの関わりがあることは間違いないだろう。


浜松まつりとの関係 
「郷土史家らは懐疑的な見方」

浜松まつりの起源は、飯尾連龍の子「義廣」の誕生を祝って凧揚げをしたことが理由などととして紹介される。しかし、このことに関して確固たる根拠、資料などない。伝承が史実かどうかについて、「郷土史家らは懐疑的な見方」である。


飯尾氏四代の名前

 長連(おさつら)
 賢連(ただつら)
 乗連(のりつら)
 連龍(つらたつ)

戦国武将の名にみられる通字(とおりじ)。
徳川氏は、家康公の「家」が通字。 
飯尾氏の場合、通字は「連」になる。

「連」が四代も続いたのに、なぜ「義廣」なんでしょう?










 

アカウミガメの産卵地保護

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「見つめる・認める・見直す」
〜あなたのまわりでおきていること〜
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令和5年2月26日。本日は、「アカウミガメの産卵地保護」の署名に行って参りました。
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370億円〜70億円の野球場。
本当に必要だと思います⁉️
またその付近にある中田島砂丘は、絶滅危惧種・アカウミガメの産卵地です。
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リニアの問題もそうだが、日本人ってこうした自然環境や動物への関心、そして配慮って異常に低いですね。
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◆浜松市へ建設の新野球場
▶︎照明無し→1万3000人収容→70億円
▶︎ドーム型→2万2000人収容→370億円
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◆詳しい内容はコチラ
https://news.yahoo.co.jp/.../9b7946483208176ea82f2fb38e75...
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◆アカウミガメの産卵地を守る署名活動
特定非営利活動法人
サンクチュアリN.P.O
浜松市南区中田島1672-3(中田島砂丘入口)
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遠州・三河の八幡八社めぐり

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「遠州・三河の八幡八社めぐり」
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恒例となった、新年「遠州・三河の八幡八社」をめぐる一日。
今年も元旦3日に決行。
男三人で楽しい一日となりました。
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②若宮八幡宮(磐田市)
③事任八幡宮(掛川市)
④府八幡宮(磐田市) 
※大樹寺(岡崎市)
⑤上地八幡宮(岡崎市)
⑥伊賀八幡宮(岡崎市)
⑦豊川八幡宮(豊川市)
⑧牛久保八幡社(豊川市)
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①浜松八幡宮(浜松市)→元旦
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「八幡神・弓矢神」
 八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
日本においては弓矢の神ではなく「弓矢神」という一つの単語になっていて、応神天皇(八幡神)のことでもある。応神天皇を祀っている八幡神社の数は、稲荷神社に次いで全国第2位で広く信仰されてきた。また弓矢や運命や確率に関わり幸運を願う時には「八幡」という語が使われてきた歴史があり、八幡は祈願と弓矢の意味が一体となす語として、射幸心という語の語源ともなった事由である。これらのことからも古くから弓矢が信仰の対象となってきたことが窺える。また八幡神は八幡大菩薩としても夙(つと)に知られ、「南無八幡」と言う慣用句からもうかがい知ることができる。
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『神は人の敬いによりて威を増し、
  人は神の徳によりて運を添ふ』
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「射幸心」
射幸心(しゃこうしん、射倖心とも)とは、人間の心理として「幸運を得たい」と願う感情のことで、その心理的な欲求を抱く状態を意味する。しばしば「幸運によって他人よりも幸せに恵まれたい」という心理状態をも含む。古くから人は幸福を願うことにおいて、様々な儀式や占いや競技の結果の善し悪しで未来を予想したり、その結果に備えたりしてきた。そのような意味で風習や習慣やあるいは宗教儀式などの形で祭りや神事に姿を変え継承された文化も人間の射幸心によって体現されたものと解釈できる。
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「夙(つと)に」
ずっと以前から。早くから。
「彼は夙にその名を世に知られていた」






 

「しかみ像」と「三方ヶ原の戦い」

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの


「しかみ像」と「三方ヶ原の戦い」関係ない!!

 徳川家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにしたとされてきた「徳川家康三方ケ原戦役画像」(しかみ像)について、三方ケ原の戦いと関連づける根拠がないとの説が提唱され、有力視されている。
合戦の舞台となった浜松市や出生地の愛知県岡崎市では、展示を見直す動きが出ている。 



◆新説有力に文献記述なく、礼拝向けか

 この新説を二〇一五年に提唱したのは、しかみ像を所蔵する徳川美術館(名古屋市東区)の学芸員だった原史彦氏(54)=現在は名古屋城調査研究センター主査。口伝として継承されてきたしかみ像の由来を明確にしようと調べた。
 徳川美術館は尾張徳川家に伝わってきた品々を中心に収蔵。台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)の所持品とあった。尾張徳川家九代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と一七八〇年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。
 原氏は、三方ケ原の戦いに関する文献も調査。いずれも反対を押し切って家康が出陣したとの内容で、慢心の戒めとして合戦直後の姿を描かせたとする記録はなかった。
 三方ケ原の戦いとの関連で最も古かったのは、一九一〇(明治四十三)年に名古屋開府三百年記念会が発行した「尾張敬公」。敬公(初代尾張藩主の徳川義直)が「自ら戒め子孫をも戒めるため」、家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせたと記されていた。
 この見方は、徳川美術館が開館した翌年の一九三六年一月に報道され、広く知られるきっかけになった。同月十四日付、中日新聞の前身の一つ、新愛知新聞では、美術館を創設した徳川義親(よしちか)らによる座談会が掲載され、義親は「子孫への戒めのために残したものだと思います」としていた。
 原氏は「徳川家の権威が薄れていく中、箔(はく)を付けるため、三方ケ原の戦いと結び付けたのでは」と推測する。片手を頬に当て片足を組んだ仏像のようなポーズなどから、神格化のため描かれたとする松島仁・静岡県富士山世界遺産センター教授(53)=美術史=らの研究を挙げ「武神として礼拝向けに描かれたと見なす方が合理的」と話す。
 この説を受け、しかみ像の立体像がある浜松市博物館(中区)は、三方ケ原の戦いで敗れた姿を描いたとする解説を撤去。展示の見直しを考えている。
 市犀ケ崖(さいががけ)資料館(中区)は、三方ケ原の戦いと関連づけて紹介している。描かせる場面の模型もあり、市中区まちづくり推進課は「解説を変えるなど、展示を見直したい」とする。
 岡崎市では、三河武士のやかた家康館がしかみ像の複製を展示。三方ケ原の戦いと結び付けた解説を添えており、市の担当者は「通説でなくなっている。新たな説も紹介できるよう考えたい」と話す。しかみ像の石像がある岡崎公園やブロンズ像を飾る市立中央図書館でも、対応を検討する。




◆「人の一生は重荷を」も後世作
 家康を巡っては、「人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくが如(ごと)し」の書き出しで知られる「遺訓」も後世に作られたとみられている。家康の言葉や考えがどこまで反映されているかは不透明だが、今も遺訓として紹介されることがある。
 尾張徳川家二十一代当主、徳川義宣(よしのぶ)氏(故人)が一九八〇年代前半、家康の遺訓ではなく、「水戸黄門」で知られる江戸前期の水戸藩主徳川光圀(みつくに)が作ったと伝えられる教訓が基で、後に修正が加えられたものとする研究結果を発表。光圀が祖父の家康を敬愛していたことから、家康の教えも継承されている可能性を主張した。
 岡崎市の岡崎城天守閣前には、「東照公遺訓」として「人の一生は…」の文を刻んだ石碑がある。家康が祭神の久能山東照宮(静岡市駿河区)は「徳川家康公御遺訓」の色紙を千五百円で販売するなどしている。落合偉洲(ひでくに)宮司(74)は「家康公の考え方が適切に表現されているのは間違いない。今を生きる人に良い影響を与えており、東照宮信仰の核になるもの」と説明する。
 <三方ケ原の戦い> 元亀3(1572)年12月、遠江(とおとうみ)に侵攻した武田信玄軍が浜松城を攻めずに三河へ向かおうとし、出陣した徳川家康軍と三方原台地(浜松市)で合戦となった。織田信長からの援軍を加えても兵力に劣る徳川軍は総崩れとなり、敗走した家康は命からがら浜松城へ戻った。

 徳川家康を主人公にした二〇二三年のNHK大河ドラマ「どうする家康」放送を前に、家康と地域のつながりを見直し、地元を盛り上げようとする取り組みが各地で進んでいます。こうした動きや県内とのゆかりなど、家康関連の話題を随時取り上げます。



◆ありえない伝承 今も
 元静岡文化芸術大教授の磯田道史・国際日本文化研究センター教授は、描き方から「家康時代の作でないだろう」と原史彦氏の説に賛同する。ただ、後世になって、三方ケ原の戦いで大敗した家康の苦境をイメージして描かれた絵画の可能性がゼロになったわけではないともみている。
 「三方ケ原の戦いをめぐっては、家康が敗走の途中、農家の屋根に上がり屋根葺(ぶ)きに化けて敵から逃れたなど、ありえない逸話もある」とも指摘。「遠州では弱い家康が今も、ある程度信じられているのが面白い。浜松時代は弱小大名だった地元の家康が天下人となった誇らしさもあるのかもしれない」と話す。












 

浜背負い祭り(はましょいまつり)

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『浜背負い祭り』(はましょいまつり)
 浜松市天竜区佐久間町
 令和1年11月17日


「浜背負い祭り」

 浜背負い祭りとは、かつて天竜川の港町として栄えた浜松市天竜区佐久間町山香地区の舟運、陸運の歴史を後世に伝えるお祭り。

 信州街道「塩の道」の結節点でもあった同地区では、江戸時代ごろから昭和初期ごろまで、住民が陸に上がった生活物資を背負子(しょいこ)に縛り、「浜」と呼ぶ船着き場から塩の道の急坂(長さ約900メートル)を登って荷継ぎ場の明光寺峠までを運ぶ「浜背負い」の仕事があった。祭りでは伝統の神楽舞を先頭に、かさをかぶった男衆や背負子にもんぺ姿の女衆が商店街を練り歩く。


「地域の歴史や特色を伝える貴重な行事がなくなっていくのは寂しい」

その浜背負い祭りも今年で最後。
開催当初は市街地からの見物人などで通りが埋め尽くされたが、最近は来場者がまばらで専ら地域の祭りになった。
地区の人口も当初の半分に満たない約400人に減少。高齢化率は約70%で、実行委員会の会員約30人の大半が70〜80代。若者も仕事を求めて地区を出るため、準備や運営、継承が困難になった。
























































 

柴田勘十郎弓店

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N-Trip

◆京都

「柴田勘十郎弓店の弓」

動画・・柴田宗博さんと杣有介さんの弓作り





5曲線極めた機能美 柴田勘十郎弓店の京弓

なだらかな曲線を描く弓。よく見るとカーブは1つではなく、蛇行した道のように5つのカーブから成る。勢いよく矢を放つのに最適とされる5曲線の構成。京都市で京弓(きょうゆみ)を製作する柴田勘十郎さんは究極の曲線美を出すことに心血を注ぐ。

京都や千葉の竹林で自ら刈り、3年ほど乾燥させた真竹が主な材料。長さ2メートル超、幅約3センチに切ったものを2枚用意し、ハゼノキなどで作ったほぼ同じ寸法の木材を間に挟み、接着剤で貼り合わせる。

これを麻縄で縛り、網目に竹製のくさびをはめ込んでいく。まず外側に20枚前後、次は内側。木づちでたたきながら110枚ほどはめると、独特の蛇行曲線ができあがる。

曲がり具合を左右する、くさびの数やたたく強さを決めるのは経験に基づく勘。二つと同じものがない竹の状態に全神経を傾け、思いをくさびに込める。この工程で「弓の魂が決まる」と柴田さん。接着剤が乾いてからくさびと縄を外し、全体を逆側に反らせて弦を張れば完成となる。

九州の薩摩弓や愛知の尾州弓など様々な弓がある中、京弓の特徴の一つが握り部分のカーブの小ささ。直線に近く船の底のようなラインで、「船底の弓」は弦を引くと全体が1つの曲線のようにしなり、矢が勢いよく飛んでいく。

柴田さんが営む「柴田勘十郎弓店」は、1534年の創業とされる。初代当主は薩摩藩の弓師として仕え、京都に移ると京都所司代から「御弓師(おんゆみし)」の称号を授けられた。本能寺の変で織田信長が明智軍に引いた弓は柴田のもの、との説がある。

当主が代々「勘十郎」の名を継ぎ、この道約40年の柴田さんは21代目。2013年に伊勢神宮の式年遷宮で59張の「梓弓(あずさゆみ)」を納め、皇居で天皇陛下に謁見。労をねぎらわれ、長年の苦労が報われる思いがした。

需要が高いのは1張10万~15万円の品。「時間をかけると値段が上がるから」と機械による一部作業の効率化をいとわない。「多くの人に使ってもらいたいので。芸術品とか工芸品という付加価値が付くのはいやなんです」

息子の宗博さんも製作に当たる同店では弓道の指導を兼ね、国内外の注文者に直接品物を届ける。弓作りの体験会も開くなど顧客本位の姿勢を貫く柴田さんは、昔気質の職人のイメージからは遠い。実際、敬称の響きを含む「職人」の呼び名を好まず「技術屋としてやっていきたい」。

弓ともども過度に一目置かれることをよしとしない。そのスタンスがかえって、今や唯一となった京弓工房のあるじと、弓道の伝道師としての存在感を際立たせる。























 

N-Trip 熊野三山

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N-Trip

◆熊野


「熊野本宮大社」
「熊野那智大社」
「熊野速玉大社」


「紀伊山地の霊場と参詣道」

古くから神々が鎮座する特別な地域として崇められた紀伊山地。
和歌山・奈良・三重にまたがって険しい地形が連なり、独自の発展を遂げた「高野山」「吉野・大峯」そして「熊野三山」の三つの霊場が誕生し、それらを結ぶ参詣道が形づくられました。
今も自然と人間の営みが紡ぎだす「文化的景観」が人類共有の財産として認められ、平成16年7月、世界遺産に登録されました。


※ 熊野三山
「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3社と「那智山青岸渡寺」の1寺を「熊野三山」と呼びます。「熊野三山」は、「熊野古道(熊野参詣道)中辺路」によって結ばれています。


ミシュラン三つ星!「わざわざ旅行する価値」が熊野にはあります。
日本全国の観光地などの魅力を三つ星・二つ星・一つ星で評価した、外国人観光客向けガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」(ミシュラン発行)。こちらで、"熊野古道""那智の滝""熊野三山"は「わざわざ旅行する価値がある」三つ星として掲載されています。


"熊野牛王符(くまのごおうふ)"とは?
"熊野牛王符"とは、熊野三山の神札で、「熊野権現のお使いの烏」(からす文字)と「宝珠」を組み合わせたデザインは、社名などを表します。本来は災難よけの「護符」でしたが、その裏に起請(誓約)を書く「誓紙」に用いられるようになりました。










































 

能/観世流 『船弁慶』

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの


能/観世流 『船弁慶』
  豊田市能楽堂


 先日、友人のお誘いを受け、能・観世流「船弁慶」を鑑賞した。
友人の今回の一押しは、平家の怨霊と化した平知盛の薙刀さばきである。

 実はですね。私、これが観たかったのです。

  いわゆる立ち回り。けど、殺陣のように早いわけではなく。かといって遅くもなく。
一つ一つに間があるというか、呼吸があるというのか。所作というものなのか・・・。
芸なんですよね。こういうのが。お見事でした。

ホント素晴らしかったです。



<船弁慶・あらすじ>

 平家追討に功績をあげた源義経でしたが、頼朝に疑惑を持たれ、鎌倉方から追われる身となります。義経は、弁慶や忠実な従者とともに西国へ逃れようと、摂津の国大物の浦へ到着します。義経の愛妾、静(しずか)も一行に伴って同道していましたが、女の身で困難な道のりをこれ以上進むことは難しく、弁慶の進言もあって、都に戻ることになりました。別れの宴の席で、静は舞を舞い、義経の未来を祈り、再会を願いながら、涙にくれて義経を見送ります。
 静との別れを惜しみ、出発をためらう義経に、弁慶は強引に船出を命じます。すると、船が海上に出るや否や、突然暴風に見舞われ、波の上に、壇ノ浦で滅亡した平家一門の亡霊が姿を現しました。なかでも総大将であった平知盛(とももり)の怨霊は、是が非でも義経を海底に沈めようと、薙刀を振りかざして襲いかかります。弁慶は、数珠をもみ、必死に五大尊明王に祈祷します。その祈りの力によって、明け方に怨霊は調伏されて彼方の沖に消え、白波ばかりが残りました。



































































 

明治150年記念 第41回 日本古武道演武大会

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの


『明治150年記念 第41回 日本古武道演武大会』



 昨日は東京日本武道館で開催されました日本古武道演武大会を見学。
今回は森重流砲術演武の一員として、遠州鎧仁會の佐野君も参加。彼は砲術の腕前をみるみるうちに上げていきました。そして、ここ日本武道館での演武。凄い事です。

 また、今回は小笠原流弓馬術、宝蔵院流高田派槍術、他、日本の名立たる古武道三十五流派の技を独特な雰囲気と緊張感の中、間近で見ることができました。いい勉強になりました。私としてもこうした体験をまた自分の中でも活かしていきたいと思います。
 また今回も色んな方々にお世話になりました。
皆様、本当にありがとうございました。



































































































































 

明治150年記念第41 回日本古武道演武大会

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

『明治150年記念第41 回日本古武道演武大会』
http://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/gyouji_06


※遠州鎧仁會、佐野翔平。
森重流砲術にて演武大会に参加!



実施要項

1 趣 旨
わが国の長い歴史と伝統を持つ古武道の「技と心」を広く一般に紹介し理解を得る ため、全国各地に伝わる古武道の中から厳選した流派による演武会を開催し、文化 遺産である古武道の保存伝承に寄与する。

2 名 称 明治150年記念第41回日本古武道演武大会
3 主 催 公益財団法人日本武道館、日本古武道協会
4 後 援 スポーツ庁、読売新聞社、日本放送協会
5 協 賛 日本武道協議会、全国都道府県立武道館協議会
6 期 日 平成30年2 月4 日(日)
7 会 場 日本武道館(東京都千代田区北の丸公園 2番3号)

8 次 第
開会式 10:30~10:50
演 武 11:00~15:50
閉会宣言 16:00(予定)

9 出場流派名
古武道 35 流派(予定)
為我流派勝新流柔術、氣樂流柔術、天神真楊流柔術、
長谷川流和術、大東流 合気柔術 琢磨会、澁川流柔術、
心月無想柳流柔術、竹内流柔術日下捕手開山、
卜傳流剣術、鹿島新當流剣術、立身流兵法、
鹿島神傳直心影流、小野派一刀流剣術、神道無念流剣術、
柳生新陰流兵法剣術、初實剣理方一流剣術、
野田派二天一流剣術、雲弘流剣術、兵法タイ捨流、
円心流居合据物斬剣法、貫心流居合術、鐘捲流抜刀術、
尾張貫流槍術、宝蔵院流高田派槍術、神道夢想流杖術、
天道流薙刀術、直心影流薙刀術、和道流柔術拳法、
金硬流唐手沖縄古武術、沖縄剛柔流武術、柳生心眼流體術、
森重流砲術、荒木流軍用小具足、 小笠原流弓馬術、
二刀神影流鎖鎌術

10 演武時間 1流派 7分40秒、入退場 20 秒の計 8分
11 入場料
大学生・一般 500 円(税込)
小・中学生、高校生 300 円(税込)

以 上

【問い合わせ先】
公益財団法人 日本武道館 振興部 振興課
TEL 03-3216-5134 FAX 03-3216-5117
日本古武道協会(日本武道館内)
TEL 03-3216-5114





 

根引き松

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 今年は『根引き松』


 京都の松飾り:「根引き松」

 正月飾りに門松を立てるのは全国的に行われていますが、京都の旧家や社寺などで昔から行われている松飾りは「根引き松」と呼ばれる根がついたままの松を飾ります。枝の中程に和紙を巻いて水引をかけたものもあり、旧家や寺院などでも同じような松を飾っておりとても簡素に見えます。

 根引き松を門口に飾るのは年神様をお迎えする依代、目印として飾られるものとされ、切り枝ではなく根が付いているのは根が着きますようにということと、成長し続けるという意味が込められているからだそうです。

 その由来は平安時代の貴族の遊びである「子の日の遊び」に由来するものといわれています。これは三省堂の「大辞林」によれば、正月の初めての子の日に野に遊び、根のついた小松を引いたり若菜を摘んで千代を祝った行事とされています。

 2本の根引き松の飾り方については、正式には向かって右に雄松、左に雌松を取り付けるのが基本だそうです。









こちらは門松。



 

日本の伝統的な新年の装飾

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『日本の伝統的な新年の装飾』

Traditional New Year decoration around Japan.


『注連縄』『注連飾り』


 理由は、神社が注連縄を張りめぐらせるのと同じです。
そもそも正月行事というのは、年神様という新年の神様をお迎えするための行事です。年神様は家々にやってきて、生きる力や幸せを授けてくださると考えられています。そこで、お正月が近づくと注連縄や注連飾りを施し年神様を迎える準備をします。

 注連縄(しめ縄)には、神様をまつるのにふさわしい神聖な場所であることを示す意味があります。注連縄が神の領域と現世を隔てる結界となり、その中に不浄なものが入らないようにする役目も果たします。その由来は、天照大神が天の岩戸から出た際に、再び天の岩戸に入らないよう注連縄で戸を塞いだという日本神話にあるとされ、「注連(しめ)」には神様の占める場所という意味があるといわれています。

 注連飾り(しめ飾り)というのは、しめ縄に縁起物などの飾りをつけたものをいいます。代表的なのが神様の降臨を表す「紙垂」(かみしで/しで)、清廉潔白を表す「裏白」、家系を譲って絶やさず子孫繁栄を願う「譲り葉」、代々栄えるよう願う「橙」などです。

 日本の正月に、家々の門や玄関。出入り口や車などにする注連飾りも注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、注連縄や注連飾りを施すことでその内側が清らかな場所となり、年神様が安心して降りてきてくださるわけです。
また、大相撲最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが締めることができる横綱も注連縄の一つであります。



●日本神話
 天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされる。

●稲作信仰
 稲作信仰は神道の根幹をなす一つであり、古くから古神道にも存在し、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられる。

●古神道
 神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰した。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた。

●注連縄の形は極めて多いが、三つ四つの基本的形式がある。
 一般にところどころに藁の切下げが垂れており、その効果を強めるために、真白い紙を細く剪って垂らす。
さらにその上に裏白などの山草・ゆずり葉・橙・ホンダワラなどの海藻や海老を添える。これはいくらか幸木の性質を帯びたものと思われる。

●「正月の飾り物と食べ物の由来」に、注連縄とその形について、以下のように書かれている。
 暮れのうちに煤掃、注連縄、鏡餅や小餅をつかせ、門口には門松、床には鏡餅を飾り、蓬莱を作る家もある。この注連縄は「しりくめ縄」ともいう。
天照大神が天岩戸に籠って天地が暗闇になった時、再びそういうことがないよう藁縄を作って戸口に掛けた。これが「前垂注連」で、これの簡単なのが「輪注連」である。”

●「五社」
 特殊の事由により五社の神社を総合したもの、または一社にして祭神の御所なるをもいう。

●「三社」
 天照皇大神宮、八幡宮、春日神社を指して特に三社という。

●「注連飾」
注連縄を装飾的に見て呼び習わした名称。
多く民間に於いて新年に神棚、床の間、竈、井戸、門戸、街路の両側等に張り渡し或いは懸けたもの。
現在は装飾の如く取り扱われて居る場合が多いが本義は清浄を俟ち、汚穢を隔てる意義を有する。

●「注連縄・七五三縄」
 神前、神聖な区域等に渡して不浄を界隔する。
もとは尻久米縄、端出之縄といい藁の尻を断去せず込めおく縄の義。起源は「天岩屋」である。
注連縄には、その形によって前垂注連、鼓の胴、大根注連、牛蒡注連、輪飾り等の種類がある。
いずれも新しい藁をもって左綯にして紙垂を挿んで垂れる。


『良い年になりますように』

I wish you a happy new year.




蘇民将来子孫家門/三重県伊勢市


宝結び・黒米/愛媛県宇和島市


三社飾り/香川県
香川の「三社飾り」は「アマテラス、氏神、家の神」の象徴だということ。


ほしの玉/宮城県気仙沼市


鶴亀しめ飾り/島根県出雲




鶴・亀/愛媛県宇和島市


火防飾り/静岡県富士宮市



牛蒡注連




輪〆


門松




 

神棚の里

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 『神棚の里』


 モダン神棚。 私は有だと思う。

 神棚の里は、伝統的な神棚からモダン神棚、神饌・神具や外宮まで扱う神棚の専門店。
日本が古来から継いできた「自然を敬い、神さまをまつり、感謝する心」を大切に、良質な純国産材と熟練の作り手による真摯なものづくりに励んでる。



 「神棚の里/静岡木工」

 わたしたちがお届けするのは、単なる木材の加工品ではありません。
神様、自然、それから過去未来。つながりを確かめられる場所を感謝の思いを深くするひと時を提供して参ります。
弊社は船大工であった初代がその腕を活かし、木製品の製造を始めたことが始まり。昭和36年(1961年)には、前身となるなる会社を立ち上げ、以来、50余年に渡り、神棚を中心とする木製品をお届けすることで、日々の安らぎをご提供できるよう努力をして参りました。
わたしたち日本人には、先人より受け継いだものがあります。自然を崇め、神様を祀り、感謝を捧げる。今回、神棚の里にご来店いただいたあなた様はその心を大切にされている方。そんなみなさまのお役に少しでもお役に立てるよう、そして「神棚の里に任せてよかったよ」といっていただけるよう日々精進を続けて参ります。


期間限定 MODI 静岡モディ1F
https://www.rakuten.ne.jp/gold/kamidananosato/

神棚の里 浅草店
https://shopping.geocities.jp/kamidana/index.html

静岡木工 
http://shizuokamokko.com/






























 

スター・ウォーズに赤備え?

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『スター・ウォーズに赤備え?』


 先日、スター・ウォーズ最新作『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』を観に行った。
スター・ウォーズと言えば、日本的要素を取り入れたネーミングや衣装、武具などが数多くあることをご存知の方もいるであろう。

 そして今回も!
スノーク最高指導者の護衛。
その名も、「エリート・プレトリアン・ガード」

 な、なんと。『赤備え?』

 どう見ても…! しかも四人。(四天王的)笑

スター・ウォーズ/最後のジェダイ。
是非、劇場でご覧ください。


『スター・ウォーズと日本』


 1990年代にようやく公式本で、ジェダイの言語は「時代」劇である、と紹介された。創造主ジョージ・ルーカスは学生時代に黒澤明映画に熱中し、快活なお姫様を助け出す黒沢時代劇(隠し砦の3悪人) (1958年)の物語や登場人物らは『スター・ウォーズ』オリジンのひとつだった。
さらに黒澤映画に数多く出演した『世界のミフネ』こと三船敏郎は、オビ=ワン・ケノービ役をオファーされるも、『SF イコール子供向け』映画だと言う理由でそれを断ったというエピソードもある。オビ=ワンの衣装デザインには日本の時代劇に登場しそうな武士っぽいスケッチも残されており、西洋の魔法使いと日本の時代劇に登場する侍をミックスしたイメージだったことが伺える。
 のちに、ルーカスは世界各国の神話を研究して普遍的な神話の共通項を盛り込んでSWサーガを創作したといわれているが、出発点は黒澤映画へのリスペクトであり、物語のベースは米国の南北戦争やヨーロッパのローマ帝国の興亡だった。そこに宇宙船やロボットが登場するヒロイック・ファンタジー(剣と魔法の物語)の要素を融合させ、ファンタジー要素の要として、魔法使いのようなジェダイとフォースという発明によって、独自の世界観を作り上げたのである。
(スター・ウォーズ/最後のジェダイ パンフレットより)



『ダース・ベイダー(Darth Vader)』


ダース・ベイダーとは、映画『スター・ウォーズ』に登場するキャラクターである。

「概要」
 本名はアナキン・スカイウォーカー。
フォースにバランスをもたらすと予言された「選ばれし者」であり、ルーク・スカイウォーカーとレイア・オーガナの実の父親。
かつてはクローン戦争で活躍し「恐れを知らない英雄」と賞賛されたジェダイ騎士だった。しかし、ジェダイ騎士団への不信感と妻を失う恐怖からパルパティーン(ダース・シディアス)の誘惑に屈しシスの暗黒卿に転向。師匠だったオビ=ワン・ケノービとの対決の果てに瀕死の重傷を負い、現在のような黒尽くめのスーツと仮面をつけるようになった。自力での呼吸ができなくなったためスーツには人工呼吸装置が搭載されている。独特の呼吸音が聞こえるのはそのためである。
(ニコニコ大百科/ダース・ベイダーより)



『"STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH−"(MARY HENDERSON /1997)』


 ダース・ベイダーのヘルメット及びマスクは、仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜を参考にしているという。 
"STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH−"という、スター・ウォーズに登場するキャラクターの衣装、宇宙船や戦闘機、ライトセーバーなどの武器のヒントに使われた物を紹介している本に、伊達政宗の黒漆五枚胴具足の兜部分の写真が紹介されています。
他にもドイツ軍のフリッツヘルメットなども参考にしているとされる。


























 

遠州鎧仁會 × 浜松注染そめ

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 遠州鎧仁會 × 浜松注染そめ



 「株式会社二橋染工場(にはしせんこうじょう)」


 浜松は、ゆかた取扱量日本一を誇るゆかたの産地。ゆかた産地を支える伝統的な技術が「浜松注染(ちゅうせん)そめ」である。
静岡県郷土工芸品に指定されている「浜松注染そめ」は、染料を柄(がら)の部分に注ぐことにより、
表裏が同じ柄に染まり、かつ独特のにじみやぼかしを出せる深みのある多彩な染色に特徴がある。

 浜松の市街地にある株式会社二橋染工場(にはしせんこうじょう)は、昭和2年の創業以来、注染の技術を守りながら、発展してきた企業である。
昭和30年代にピークを迎えたゆかた業界は、日本人のライフスタイルの変化や輸入品の増加により、生産量が減少してきた。その中で、同社は、優れた技術を活かし、多色染めゆかたやクレアと呼ばれる無地染めゆかたにも対応しながら、高級注染製品を追求してきた。

 染色加工の製造工程は、晒し(漂白)、染め、仕上げなど細分化され、工程ごとに受け持つ企業が存在する。同社は、小規模の工場でありながら、大手企業と同様に、細分化された染色加工の工程を一貫して製造している。この一貫製造が、注染以外の捺染(プリント染め)などの加工工程も含め、安定した経営を維持する原動力であり、現在、県西部地域で8社ほどとなった注染工場の中心的存在となっている所以である。















 

遠州鎧仁會の手ぬぐい①

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 『遠州鎧仁會の手ぬぐい』


 手ぬぐいを作ることにした。
遠州鎧仁會メンバーの家紋が入った手ぬぐいである。

 依頼は一瀬宗也さんにと決めた。
彼とは4年前に友人の紹介で知り合い、彼オリジナルの手ぬぐいを何本か購入させて頂いた事もある。
そして今日、その型紙ができたという事で彼のいる二橋染工場さんに行ってきた。
浜松注染という技法はもちろん聞いたことはあるがその現場に入るのは初めてである。

 忙しい一瀬さんが時間をさいて色んなも見せ、教えもしてくれた。まさに昭和。いや大正ともいえるのか。
職人さんの手仕事。古ーい機械。何だかワクワクするような気持と驚きの連発。

 私は、以前にも私たちの甲冑を作って頂いている九州の丸武産業さんにも見学に行った事がある。
旗指物を作って頂いた相馬の西内さんにも直接お会いしている。何故か不思議と現場が好きなのである。
その現場で誰が何をしているのか。どんな工夫があるのか。技術をどのように受け継いでいるか。
楽しいのである。それに、自分たちの使うものをこうした形で見ておくとなんか大切にするような気がする。もちろん手ぬぐいですから使用するのですが、それでも大切にしながら使う。使わせて頂く。

と、いう事でして。完成が待ち遠しい。完成が楽しみ。
一瀬さん。今日は大変お忙しい中。ありがとうございました。



追伸:高木さん。ありがとうございました。




 「株式会社二橋染工場(にはしせんこうじょう)」


 浜松は、ゆかた取扱量日本一を誇るゆかたの産地。ゆかた産地を支える伝統的な技術が「浜松注染(ちゅうせん)そめ」である。
静岡県郷土工芸品に指定されている「浜松注染そめ」は、染料を柄(がら)の部分に注ぐことにより、
表裏が同じ柄に染まり、かつ独特のにじみやぼかしを出せる深みのある多彩な染色に特徴がある。

 浜松の市街地にある株式会社二橋染工場(にはしせんこうじょう)は、昭和2年の創業以来、注染の技術を守りながら、発展してきた企業である。
昭和30年代にピークを迎えたゆかた業界は、日本人のライフスタイルの変化や輸入品の増加により、生産量が減少してきた。その中で、同社は、優れた技術を活かし、多色染めゆかたやクレアと呼ばれる無地染めゆかたにも対応しながら、高級注染製品を追求してきた。

 染色加工の製造工程は、晒し(漂白)、染め、仕上げなど細分化され、工程ごとに受け持つ企業が存在する。同社は、小規模の工場でありながら、大手企業と同様に、細分化された染色加工の工程を一貫して製造している。この一貫製造が、注染以外の捺染(プリント染め)などの加工工程も含め、安定した経営を維持する原動力であり、現在、県西部地域で8社ほどとなった注染工場の中心的存在となっている所以である。























































 

岐阜のまつりと取り組み

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの


 「岐阜のまつりと取り組み」

 先日、ぎふ信長まつり、火縄銃演武への参加の為岐阜市を訪れた。
火縄銃の演武は俳優の藤岡弘さん扮する織田信長公を後方に中心市街地を行列。
所々での火縄銃演武は、中心市街地だけに沿道に続くお客さんの数と今までにない火縄銃の轟音を耳にし、自分自身少しの興奮を味わいました。また、年に数回、そして数年かぶりの仲間にも再会。地元を離れての遠征はこうした楽しみもあり楽しかったです。

 そして今回はもう一つ。
予定を調整してうまいこと前日入りできたこともあり岐阜の街を少し散策してみた。

 2年前に完成したという、「みんなの森 ぎふメディアコスモス」に行った。中央図書館を中核施設とする複合施設である。

 オォ、いい! と思った。 私、以外にも図書館へ行く人。でもその図書館にずーっと居たいと思ったことはない。
でもここは、本もさることながらここへ来たいと思ったのである。

 ヤラレました。 「行きたくなる図書館」を造ったのだ。

 もちろんそれだけじゃない。

 古い町並みもちゃんと遺す。(川原町) 
 歴史もね。(信長まつり) 
 そして未来も創造する。(図書館)

 私の知ってるところ。
  古い物・・・壊す
  歴史・・・ゆるキャラ
  未来・・・城の真ん中にコーヒー屋、ド~ん

 なんだか愚痴になってしまいましたが、それぐらい岐阜の街とまつりが良かったという事。
外に出ると色々と勉強になります。

 最後に・・・。
 今回のおまつりでは色々とお世話になりました。
実行委員の皆さん。スタッフの皆さん。同じく出演者の皆さん。
本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。





































































 







 

龍雲寺坐禅会と世界一大きい般若心経

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「龍雲寺坐禅会と世界一大きい般若心経」

 本日は朝6時から、浜松市中区にあります臨済宗妙心寺派の龍雲寺さんでの坐禅会に参加。

 龍雲寺さんでの坐禅会は初の参加ではありましたが、まず驚いたのが新しくなられた涅槃堂(ねはんどう)。
約100畳の広間、そして書家・金澤翔子さんの世界一大きい般若心経がそこにはある。

 ホントに驚く。凄いです。

 壁一面のその大きさと約300字からなる般若心経には本当に圧倒されます。

 坐禅会に入る。
坐禅会が始まり住職さんの話を聞き入る頃には少しずつ落ち着きが戻ってくる。

 無になろうとする。

 約40名が居る広間とは思えないぐらいの静寂。静かだ。
警策(けいさく)の音が響いてくる。
何だかドキドキする。自分もと、手を合わせる。

 一瞬熱くなるものがある。
けれども打たれてみるとスーッと引いてゆく。
何やら更に落ち着くような気がする。

 いいものだ。

 今日のこの日は偶然の出来事で始まった。
しかし、必然なのであろう。

 金沢さんは「感謝」。 私は「感謝、感謝、感謝」です。

龍雲寺さんhttp://www.ryouun.com/index.html

金沢翔子さん書展http://www.ryouun.com/syoko.html
























































 

おえ草履

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの


  「おえ草履」


 7月末。私は福島県南相馬市で開催された相馬野馬追に行っていた。
2日目。雲雀ヶ原祭場で甲冑競馬、神旗争奪戦等を終えた小高郷勢が帰陣をする為の行列を待つべく、小高神社近くで待っていた。
彼女達とはそこで出会った。

 最初の画像中央の二人、向かって左は横堀さん。茅葺屋根の職人さん。
向かって右は井戸川さん。このおえ草履の職人さん。

 実はですね。私、どーにも夏場のスリッパが苦手でして。(とくに風呂の後)
履物屋、下駄屋、和雑貨屋さんなど、めぐっては部屋履きにも使える草履を探していました。

 また、彼女達はこの時山形県から来ていました。
横堀さんは山形の人。井戸川さんは南相馬出身の今現在は
山形在住との事。
驚きですよね。
二人とも担い手が圧倒的に少ない貴重な物に携わる職人さんなのです。

 そんな彼女達のライフワークから聞かせていただいた一つが
このおえ草履。
欲しくなりました。使ってみたくなりました。
そして届いたおえ草履と小冊子を読み、今尚、彼女達との出会いに感動しております。

この記事を書き終え早くお風呂にはいりたいです。



<小冊子より>

 ・おえ草履   
 ・渡部志げさん90歳   
 ・「おえ」とは、カヤツリグサ科フトイの地方名
 ・滑らかで肌触りの良い履き心地 
 ・雪を待ち硫黄で燻す
 ・花緒は庄内刺し子(日本三大刺し子) 
 ・刺し子(豊作・魔除けの願い)
 ・日知舎/日知(太陽の暦、自然の霊力) 
 ・日(自然)、霊(魂)、火(文化)
 ・古くからの知恵を学ぶ

 追伸:山伏修行。これも驚きました。

日知舎(ひじりしゃ)HPはコチラ → http://hijirisha.jp/