徳川家康と鷹狩り 歴史トリビア

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 ★歴史のトリビア・ひすとりびあ、より★


 『徳川家康と鷹狩り』


家康が鷹狩りに夢中になっていたわけとは

 鷹狩りって、鷹を狩る?…ことではなくて、鷹を使って狩りをすることです。
腕に大きな鷹を乗せている図、見たことがある方も多いのではないかともいます。
鷹狩りをこよなく愛した大名の筆頭が、徳川家康でした。生涯で1000回以上も行ったと言われています。
好きは好きでも、なぜこれほどまでに家康は鷹狩りを行ったのでしょうか。そもそも、鷹狩りってどんなふうにやるものなのでしょう。
色々な意味が込められた鷹狩りと家康の意図について、検証してみたいと思います。




家康が鷹狩りをよく行った理由


 家康は幼いころから鷹など鳥が好きだったらしく、百舌鳥を飼いならそうとしたこともありました。
また、今川氏の人質時代にも鷹にまつわるエピソードがあります。
家康の屋敷の隣には孕石元泰(はらみいしもとやす)という今川の家臣が住んでいましたが、家康が鷹を放すと彼の屋敷に入り込んでしまうことがありました。そこで鷹を取りに行くと、孕石は「人質の分際で鷹狩りなどとは生意気だ」とか「三河の小せがれの顔を見るのは飽き飽きだ」とか何かと嫌味を言ったのです。
おそらく幼い家康は何も言い返せずにこらえたのでしょう。
後に、武田氏と争った高天神城(たかてんじんじょう)の戦いの時に、家康は捕虜の中に孕石がいることに気づきました。
彼は「わしもお前の顔を見るのは飽き飽きだ」と言い、孕石を切腹させたそうです。
幼くして他家に人質に出て、少ない側近たちとの心細い日々の中で、鷹は家康の心の癒しだったのだと考えられます。

また、長じた家康は鷹狩りに多くの意義を見出しています。
彼は鷹狩りについて、「(鷹狩りは)娯楽のためだけではなく、郊外に出て民の様子を察するためだし、身体を動かして健康にすることだ。暑さ寒さを厭わず走り回ることで、病にもかかることなどなくなる」と言及しています。
江戸幕府の公式史書である「徳川実紀(とくがわじっき)」の中でも家康についての記録である「東照宮御実紀」にも、鷹狩りの目的として、民情視察・軍事訓練・身体鍛錬・家臣の知行所支配の実態把握・家臣等の剛弱究明・色欲調節・士風刷新とその高揚・他領国の情勢探索・地方支配の拠点づくり」と記されています。
家康は食生活に気を遣い、自分で薬を調合したりするなど健康オタクの感がありましたが、鷹狩りをして体を動かすことも彼の健康法のひとつでした。
また、鷹狩りの場合はいくつもの狩場に出かけます。その際に領内の民衆の生活を見て回ることができました。それに加えて、多くの家臣を従えて広い狩場に行くことで、戦の予行演習にもなったのです。
もちろん自分の楽しみもあったでしょうが、広い領地の状況を自分の目で見ておくことが大事だとわかっていたのでしょうね。
彼の狩場は、三河時代は浜松城下だけでなく尾張国(愛知県西部)や遠江国(静岡県西部)に及びました。江戸に拠点を移してからは、埼玉県から千葉県にかけての一帯がそうでした。
加えて、家康は天下を取った後に公家などが勝手に鷹狩りをすることを禁じ、鷹を勝手に売買することも禁じました。鷹狩りが限られた人物にしかできなくすることで、これを権威の象徴としたのです。



鷹狩りとは


鷹狩りの歴史


 鷹狩りの起源は紀元前2000年頃にまでさかのぼると言われ、中央アジアやモンゴル高原が発祥の地だそうです。そこからペルシャやヨーロッパに伝わり、貴族や聖職者によって各地に広まっていきました。この時点ですでに高貴な身分の人々が行うものだったようです。
日本には、仁徳天皇の時代(4世紀)に大陸から伝わりました。王侯貴族の遊びとしてもてはやされ、中世以降は力を付けた武家も行うようになっていきます。
そして、戦国時代には武将たちの嗜みとなりました。
今でも鷹狩りは伝わっていますが、行う人は少なくなっています。

鷹狩りの方法


 鷹狩りといえど、使用する鷹はいくつかの種類があります。タカ科のイヌワシ、オオタカ、ハイタカに加え、ハヤブサ科のハヤブサも使いました。オオタカやハイタカは扱いやすかったそうです。イヌワシは王者の象徴であるため、そう簡単に使用することはできませんでした。
そしてご注意。鷹狩りは、決して鷹が獲物を捕らえて自分で主のところに持ってくるわけではないのです。
まず、茂みや林にいる獲物を犬や勢子(せこ)という追い立て人員が追い立て、飛び立った瞬間に鷹を放して捕えさせます。これは猛禽類の狩猟本能を利用しています。そして、獲物を捕らえて地面に舞い降りた鷹のところに走っていき、エサを与えて獲物と引き換えるのです。
今では鷹匠と鷹だけで鷹狩りを行ったりするようですが(国や流派、獲物の種類などにより異なります)、家康の時代の鷹狩りはもっと大規模でした。
鷹・鷹匠・猟犬・犬引き・馬・騎馬者・勢子と大集団で、勢子は数百人を超えることもあったのです。




家康以外の武将も鷹狩りをした?

織田信長

 戦国武将たちはみな嗜みとして鷹狩りをする者が多かったのですが、その中でも鷹狩り好きとされているのが織田信長です。おそらく鷹狩りの話で家康とは盛り上がったのではないでしょうか。
信長は、関白を務めなおかつ鷹狩りの権威であった近衛前久(このえさきひさ)と親しく交わりました。ちなみにこの近衛前久が著した「龍山公鷹百首(りゅうざんこうようひゃくしゅ)」という鷹狩りの解説書は、家康と豊臣秀吉が写本をもらっています。
信長が鷹狩りを民情視察に使っていたという逸話が、小瀬甫庵(おぜほあん)の「甫庵信長記(ほあんしんちょうき)」にあります。
信長が鷹狩りに出た際、ある村で嘆き悲しんでいる老婦人に出会いました。わけを聞くと、老婦人の家が代々持っていた田畑を里長に取られてしまったというのです。信長はそれを聞き、城に帰ると部下に事情聴取を命じました。そして里長の不正が発覚すると、老婦人が奪われた田畑を戻してやったということです。
これはあくまで逸話であるので、事実かどうかはわかりませんが、このようなこともあったのかもしれません。いつの時代も現場を見るということが大事だったというわけですね。


徳川家光


 祖父:家康を深く尊敬していた家光は、鷹狩り好きな部分まで祖父にならっていました。
家光の場合は鷹狩りを将軍と幕府の権威の見せどころとしていた感もあり、勢子を多数引き連れて行ったそうです。そして、江戸中の様々な場所で鷹狩りに来た家光ゆかりの話が伝わっており、彼がしょっちゅう鷹狩りに出ていたということは本当だったようです。
彼の場合も逸話があります。
鷹狩りが好きすぎた家光は、いちいち城に帰るのが面倒だと狩場の近くの民家に泊まってばかりいました。家臣は危ないからやめてほしいと言いますが、家光は聞く耳を持ちません。
ところで、家光が泊まっている民家に伊達政宗がやってきます(実は家臣に頼まれたとも言われています)。尊敬する政宗に対し、家光は「家臣たちが危ないだの何だのうるさいのだ」と愚痴をこぼしました。
すると政宗は、「それは心配しますよ。私も何度、鷹狩り中の家康公のお命を狙ったことか」。
それ以来、家光は民家に泊まるのをやめたそうです。





徳川吉宗


 8代将軍吉宗は、5代将軍綱吉による生類憐みの令で停止となっていた鷹狩りを復活させました。質実剛健で知られた彼は、当時の武士たちが軟弱化していると感じ、鷹狩りを武士の剛の部分を取り戻す軍事教練の場としたのです。
ただ、倹約で知られた彼は、鷹狩りに関連する風習も簡略化しました。将軍のお成りの場合は商売を休んだり店の看板を外したりしなければなりませんでしたが、吉宗はそうした風習をやめるように命じたのです。加えて、泊りがけの鷹狩りはしませんでした。
そして彼は鳥見役(とりみやく)という役職を設置しました。鷹匠は鷹の調教に当たりますが、鳥見役は狩場の管理や鷹狩りの準備、周辺の治安確保などを担当しました。鳥の生息状況なども把握し、狩場ではより獲物のいる方へみんなを誘導する役割もあったのです。






まとめ


 家康の血筋には鷹狩り好きが多かったようですね。信長も好きだったということで、きっと2人は鷹狩りを一緒に楽しんだりしたこともあったのでしょう。
ただ戦が激しくなると、なかなか鷹狩りに興じることもできなかったかもしれません。
だから、将軍となって天下を統一した後、家康は存分に鷹狩りを楽しんだのでしょう。
静岡県の駿府城公園には、片腕に鷹を載せた家康の像がありますよ。





掲載画像=遠州鎧仁會放鷹術実演参加画像より




 

家康公がこよなく愛した鷹狩り 開催

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 岡崎市制100周年記念
  「家康公がこよなく愛した鷹狩り」

 徳川家康公が愛した鷹狩りの実演と講演会を、家康公のふるさと岡崎城で開催します。


      
主催 一般社団法人岡崎パブリックサービス
共催 公立大学法人静岡文化芸術大学大学

日時 平成28年12月4日(日曜日)
会場 岡崎公園  愛知県岡崎市康生町561


[放鷹術実演] 
無料 
時間:午前10時30分~12時
会場:岡崎公園 多目的
実演:諏訪流放鷹術保存会
・「放鷹術実演」のご観覧は、お申し込み不要です。
・雨天の場合は、岡崎公園内の能楽堂にて鷹匠との撮影会を行います。


[公開講演会] 
無料
時間:午後1時30分~午後3時
会場:岡崎城 巽閣
講演:「家康公と天下の鷹狩り」  
講師:静岡文化芸術大学 文化政策学部 
  国際文化学科 教授 二本松康宏
*公開講演会には事前のお申し込みが必要です。





※画像は、過去鷹狩実演と岡崎城登城






























 

遠州鎧仁會・凱旋  浜松城お持て成し

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 遠州鎧仁會・凱旋 
 「浜松城お持て成しと浜松城公園紅葉まつり」 

  昨日は、遠州鎧仁會・凱旋 浜松城お持て成しの日。
今回ばかりはお天気にやられるのでは、と思ってはいましたが、何とかお昼過ぎまでは持ちこたえてくれました。
お陰様で、わざわざ会いに来てくださりましたご家族様や、息子さんからの還暦祝いにと奈良からこの浜松旅行・浜松城にいらして下さいました奥様からも感動をわけていただいたり。今回今年最後の浜松城にてご来城のお客様とも触れ合うことができ良き一日となりました。

 また、このような生憎のお天気にも関わらず、浜松城紅葉祭りのスタッフさんや関係者様にはお気を使って頂き。同、出展の皆様にもよくしていただき感謝をいたしております。本当にありごとうございました。(中村さん、井の国の皆さん、大変お疲れさまでした)

 ただ、これは鎧仁會のことではなく、この日の浜松城内での出来事の中で、私が、「ん!?」と思った事。
後で思えば案外関連しているなと思った、ご来場のお客様からのご意見など。感じることができ、言っていただけてよかったなとは思うことが。
しかしながら今度はそれをどう改善していくかが問題である。
けど浜松だけにね! 無理かも。(ーー;)








































































 

武将さんたちへのクリスマスカード

カテゴリー │遠州鎧仁會

「武将さんたちへのクリスマスカード」


こんなお葉書を頂きました。
11月21日(月)
駿府の小池君より






そして今日、またまたお葉書が届いた。
クリスマスカード?
歌舞伎座の前にちっちゃなサンタクロース(笑)
これは駿府の小池君のお友達のお母さんからだ。









いきさつを簡単に・・・。

①11月6日 駿府城でお持て成し

②そこに子供たちがやってきた ⇒
一緒に写真を撮りたいけどカメラ持っていない

③大丈夫!こちらで撮って、後で送ってあげるよ!

こんな感じ。



伊藤様

先日、大道芸での写真が届きました。
子供たちを撮って下さり、
たくさんのステキな写真をありがとうございました。
大切にします。
私達家族は、イギリス人の主人と
日本人の私と息子(13才と10才)2人の家族です。
この時期は、イギリスの家族、
親せき、友人などにこのようなクリスマスカードを送るのが習慣です。
伊藤様にも写真のお礼も兼ねまして送らせて頂きました。
ステキなクリスマスとお正月をお迎え下さい。

エマソン薫






今年7月に歌舞伎座に行ったんだよな~。
不思議だな~。


鎧仁會一同にも伝えますね。
皆、喜ぶと思います。


エマソンさんファミリーにもステキなクリスマスが来ますように。
楽しくお正月が迎えられますように。


これからも頑張ります!

遠州鎧仁會








 

浜松城お持て成しと浜松城公園紅葉まつり 開催について

カテゴリー │遠州鎧仁會

 遠州鎧仁會・凱旋 
  「浜松城お持て成しと浜松城公園紅葉まつり」 開催について

 元旦に浜松城に入り、5月の節句時に一回、そして秋の浜松城に凱旋。
今年も紅葉の浜松城にて、凱旋お持て成しの予定となっておりました。
しかしながら、お天気の様子が大分怪しくなっており、当日朝まで様子を見るという事となってしまいました。
 詳細は下記にて。
皆様、何卒ご容赦の程。宜しくお願い致します。

〇鎧仁會・凱旋お持て成し
  →雨が降っていなければ、
    または降っていない時間帯に実行(10時~15時の間)
〇岩崎城手作り甲冑隊→来城中止
〇浜松城紅葉まつり→少雨決行(10時~15時)




◇◇下記の内容は晴天時の案内◇◇ ※画像は昨年のもの 


 「浜松城公園紅葉まつりと浜松城お持て成し」

   ※岩崎城手作り甲冑隊来城

 11月27日(日)。浜松城公園にて、遠州鎧仁會・凱旋浜松城お持て成しを実施いたします。
また同日。浜松城公園では、浜松城公園紅葉まつりも開催されます。
皆様、今週末は是非、紅葉鮮やかな浜松城公園に遊びに来て下さい。


「浜松城公園紅葉まつり」


 豊かな自然を育む浜松城公園では、園内の紅葉をバックに、お城らしい遊びが楽しめるイベントを開催します。
当日は、戦国武将の衣装「甲冑」を着て記念撮影ができるほか、武将隊の出陣(遠州鎧仁會出陣)、凧作り・凧揚げ、お城らしい遊びなどが体験できます。
また、秋の実りクラフト体験や松蔭亭による抹茶サービス(有料)、移動販売による飲食サービスなどもあります。
浜松城公園の紅葉を眺めながら、家族や友達と秋の一日を楽しく過ごしませんか。

<紅葉まつり> 当日直接公園へどうぞ!
クラフト体験/100円~300円
甲冑を着て写真を撮ろう!甲冑体験(衣装体験)/有料 
凧を作って凧揚げをしよう!凧作り体験/有料 
呈茶(お菓子付き)/300円 松蔭亭によるお茶席
阿多古の手すき和紙の体験/有料
ミニ鉄道乗車/無料
草笛体験/無料
直虎になろう!/無料


「岩崎城手作り甲冑隊来城」


浜松城と岩崎城
 ~小牧長久手の戦い~
 コチラ → http://yoroikokoro.hamazo.tv/e6477540.html




























 

信長公首塚伝説 富士山西山本門寺

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「信長公首塚伝説」 富士山西山本門寺


信長公の首塚と足跡

(1)西山本門寺概要
 日蓮聖人第7百遠忌記念に日蓮宗が発行した「日蓮宗事典」によれば、西山本門寺は、康永2年(1343)に日代上人により開山され、富士山と号したとされている。
西山本門寺の開山より45年前の永仁6年(1298)日代上人の師・日興上人が富士郡北山の地に本門寺(北山本門寺)を開山した。その45年後、先述のとおり、日代上人が、西山に本門寺を開山したため、北山と西山に本門寺が両立することになった。
紆余曲折を経て天正年間には、当地で最大勢力を誇っていた武田勝頼の庇護を受けていた西山本門寺も、同10年の武田家滅亡後は、徳川家康から諸役免除の朱印を与えられ、徳川家の庇護を受けるようになった。
安政2年(1855)10月の大地震に遭って本堂、御影堂、垂迹堂などが倒壊し、諸堂また大破したが、その後復興に努め、現今本堂、宝蔵、鐘楼、総門等がある。


(2)西山本門寺と織田信長公首塚の云われ


 この西山本門寺と信長公との結びつきは、古くから地元では信長公の首塚が本堂奥の大柊のもとに安置されているということが口伝としてあった。 その根拠となったのは第18代・日順上人の内過去帳の旧暦6月2日の『惣見院信長』の記述で、以来、寺では歴代上人の口伝で信長公を供養してきた。 また近年では、昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔氏の記事と平成12年1月発行の「歴史街道」で作家の安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」が紹介され、 信長公の首塚が再びクローズアップされてきた。
昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔氏の研究で特筆される事項として、第18代・日順上人(1602~1688)の内過去帳を骨に、日順—本因坊算砂—信長のかかわりを割り出し、 西山本門寺を舞台にした近世初期の埋もれた歴史を展開している。ここで重要な役割を果たすのが、本能寺の変で信長公と一緒に死んだ原一族が残した「原家記」。原志摩守が混乱の中から父と兄、それに信長公の首を持ち出し、山道伝いに駿河にたどりつき、 富士郡本門寺の本堂裏手に三つの首を埋めたと記されていると説明。この西山本門寺には「信長の首塚」が代々ひそかに言い伝えられ、山口さんは先代貫主日光上人から直接この伝承を確かめるとともに、状況証拠となる過去帳を見つけた。と記述されている。
 日順上人は「原家記」を残した原一族の出で、同寺復興のため、朝廷・公家の支持を得て江戸幕府相手に寺格復権の大運動を繰り広げた傑僧。しかも原一族は西山と仏縁があると記載されている。もう一人の人物本因坊算砂(日海)は、 京都寂光寺本因坊の住僧で同寺は京都妙満寺を本山とする日蓮宗什門派の寺。妙満寺は日什上人の開山。その日什上人は富士郡の生まれで、最初富士門徒で修行したが、転じて一派を立て、京都においても富士門徒要法寺とは親しい交渉を持っていた。 その要法寺の広蔵院日辰が弘冶2年(1557)から再三、富士門徒合同のため、「本因坊日秀」を同行、西山を訪れていた。算砂(日海)は日秀の二代目とされ、西山と算砂をつなぐ糸は早くから張られていたと立証している。
 また、作家の安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」の中で、寺伝によれば、本能寺の変当日、信長の供をしていた原志摩守が本因坊算砂の指示によりこの寺に運んで供養したのだという。 変の前夜に信長が算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせていたことはよく知られているが、算砂は翌朝まで本能寺に留まり、戦乱に巻き込まれたのだろう。そして信長の死を知り、旧知の原志摩守に首を西山本門寺まで運ぶよう命じたのだ。と説明している。 二人にとってこの寺がなじみ深いものであったことは、算砂が本門寺の境内に本因坊という坊舎を作って住んでいたことや、原志摩守の子、日順を弟子とし、寺の第18代上人としていることからもうかがえる。とも記述している。この日順上人こそ、 常子内親王に働きかけて後水尾天皇夫妻の位牌を安置させた張本人なのである。寺には日順の自筆過去帳があり、それには『天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅』と記されている。誅するとは、一般的には上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉である。 日順上人は慶長七年(1602)の生まれだから変の当事者ではないが、師の算砂から事情はつぶさに聞いていたはずである。
 上記、山口氏の研究結果と安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」で、共通点が多く記述されており、古くから本門寺および西山周辺で口伝されていた信長公の首塚が一つの線で結ばれたことが証明された。


(3)信長公の足跡から


 西山本門寺と朝廷、信長公、その後の徳川幕府との繋がりなどを調べていくうちに、担当者として推察であるが、信長公の軌跡から西山本門寺の首塚の口伝は真実味が充分に考えられる。
信長公記(しんちょうこうき)は、信長公の家臣である太田牛一(1527~1613)が記した記録であるため、その信憑性は現代の学者により評価が様々であるが、当時の信長公の記録を代表する記録である。この信長公記によると、信長公は天正10年(1582)3月10日安土城を出発し、諏訪・甲府の戦後処理を終え、同年4月21日に安土城に帰陣している。
この約1ケ月におよぶ東国巡回は、織田軍の甲州征伐の工程で、総大将は嫡男信忠であったので、自身は後方からゆっくり進軍したとされる。3月7日に信忠は甲府入りしているが、信長公が安土城を出発したのは3月10日であり、このことからも、信長公は戦勝後の論功行賞が主な目的であり、長年恐れた武田家滅亡の凱旋紀行であったことが伺える。
 日本地図で見ると明確であるが、それまでの信長公は、現在の愛知県や岐阜県、滋賀県といった、中部、近畿が主な行動範囲であり、それ以上の遠方に足を運ぶことがなかった。しかしながら、征夷大将軍は字の如く、東夷を従える、つまり東国を支配している必要があり、初代征夷大将軍であった源頼朝公は東夷を従え、打倒平家の挙兵をしており、また統一後も富士の巻狩りと呼ばれる大軍事演習を富士の麓で実施している。したがって、この甲州征伐には、武田家滅亡後の事後処理だけでなく、権威拡張に向けた巡回であり、天下統一を目前にした観光的行程も加わった凱旋紀行であったと思われる。
 新聞、テレビの無い時代であり、信長公は富士山をこの甲州征伐で初めて見たと思われる。諏訪で論功行賞を行った後、4月に入り甲府に到着、4月10日に甲府を出発し、天正10年(1582)4月12日の頃の信長公記(第15巻)の記載を見ると現在の山梨県本栖湖付近から、静岡県富士宮市の朝霧高原に入り、武田家討伐の成功と雄大な富士山をはじめて見た嬉しさからか、小姓と馬を走らせて楽しんだことや、白糸の滝、上井出の人穴、その昔、源頼朝公が富士の巻き狩り際に陣を張った狩宿などに立ち寄ったと記されている。当時は浅間大社も戦火にあい、社殿等も無い状況であったが、近くに信長公が宿泊する寝所を、随行する徳川家康が贅沢に造り、これに喜んだ信長公は太刀などを礼として与えた。現在も富士宮市の浅間大社東側には、御殿町と呼ばれる場所があり、当時、信長公が腰掛けた「富士見石」など、信長公が富士の麓の富士宮市(大宮)を訪れたと思わせる史跡や地名が残っている。
 翌日13日に、信長公は富士宮市を出発し、清水区の江尻、掛川、浜松、を経て、4月21日に安土城に帰陣することになったとされる。
これらの信長公記から、自分が信長になったつもりで推察すると、信長公が最も恐れた戦国大名は甲州武田氏であり、事実、長篠の戦い(1575)で武田氏に大勝しているが、実に甲州征伐までに7年間もの時間を要していることからも、周辺事情はあるものの、警戒に警戒を重ねていたことが伺え、戦局がほぼ決定している3月10日に安土城を出発していることからも判る。その様な中、武田氏滅亡の喜びは大変なものであり、その折に生涯ではじめて見る富士山は、信長公の心に深く残ったことは、信長公記に記載がなくても容易に推察できる。


(4)信長公の亡骸の行方

 安土城到着から約1ケ月後5月15日、甲州征伐や富士宮市(大宮)での宿泊接待のお礼にと、徳川家康と穴山梅雪を安土城に招いている。この時、家康の饗応役となったのが、その僅か2週間後に「本能寺の変」を起す明智光秀であることは、日本史上では有名なことであり、一説にはこの時の饗応の支度が、将軍家の接待のようで行き過ぎであると、信長公が激怒し、光秀を叱責したとも伝えられている。
 天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀の謀反により、京都本能寺で信長公は没するが、亡骸の行方は今以て謎であり、日本史最大のミステリーとも言える。
 信長公が、天下統一を目前に思わぬことで命を絶つことになるが、本能寺で明智軍の大軍に囲まれ絶体絶命になった時、当時としては革命児であり奇抜な発想豊かな信長公であれば、「是非も無し・・・」の後に「我が首を富士の麓へ・」と僅か1ヶ月半前の、霊峰富士を眺めた凱旋紀行を思い出し、日本一の富士の麓から今後の戦国の世の行方を見守ろうとしたのでは!?と考えるのは、私だけではないような気がします。

住所:419-0313 富士宮市西山671


富士宮市HPより
 http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/kankou/llti2b00000018hl.html




 

第17回 信長公紅葉まつり 2016年

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「第17回 信長公紅葉まつり 」


 昨日、富士宮市西山にある、富士山西山本門寺にて第17回信長公黄葉まつりが開催された。

 まず初めに!
遠州鎧仁會5度目の参加にて初の秋晴れ。
 と、言うことは・・・。 
過去の4回は、雨、雨、雨、雨。
中には、一日のほとんどを本殿や屋根のある建物内で過ごしました。
なんて日もありましたしね。

 そして、今回。 今更ながら・・・。 
晴れてるとこんななんだー(嬉)。 って感じました。

 また、今回はいつも仲良くして頂いている北川組からお二人が参陣。→(北川さん、晴れ男なのか!?)
鎧仁會毎年のスケジュールにはあった、信長公供養祭、境内にてお持て成し、行列参加、火縄銃演武の全てを初めてこなすことができました。→(過去4回は何かしら中止、または縮小。→晴れると全部。これ結構キツイかも。)

 けど頑張る。先週の駿府城お持て成しに次いでここまで来てくれたご家族。焼津や地元浜松からわざわざ来てくれたご家族。
もう感謝せずにはいられません。本当にありがたいことです。

 そしてまたまた思った事がいくつもありました。
今までの雨で考えたこと。今回の晴天で考え学んだこと。
遠州鎧仁會への主催者さんの思い。駿府鉄砲衆さんや他の出演者さんの思い。そして楽しみに来てくれるお客さんの思い。
色々なこと考えさせられました。
もちろんできることとできないことがあります。
ただ、今一つだけ言えること。

 それは、やはりブレない事。 欲張ってはダメ。
できることを十二分にできるようになろう。

 最後に・・・。 
 信長公黄葉祭り関係者の皆々様。ご来場のお客様。
そして駿府鉄砲衆の皆様。北川組。
今回も大変お世話になりありがとうございました。
また今後とも遠州鎧仁會を宜しくお願いいたします。



「信長公首塚伝説」
 富士山西山本門寺
コチラ → http://yoroikokoro.hamazo.tv/e7144145.html




















































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第17回 信長公紅葉まつり 開催

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「第17回 信長公紅葉まつり 開催」


 第17回信長公紅葉まつりまつりが、11月13日午前9時から富士山西山本門寺で盛大に開催される。
駿府鉄砲衆の火縄銃演武をはじめ、武者行列、和太鼓演奏、県内のご当地グルメの出店など、同寺のシンボル大銀杏が黄葉期を迎える境内で多彩に繰り広げられる。
 今年は富士日本刀鍛錬所の刀匠・内田義基さんの刀鍛冶の実演が披露される。


第17回信長公黄葉まつり

●開催地: 富士山西山本門寺
●所在地: 〒419-0313 富士宮市西山671番地
●開催期間: 2016年11月13日
●アクセス(車): 東名高速道路富士ICから西富士道路経由して50分
●アクセス(公共交通): JR身延線富士宮駅から8:30より30分ごとにシャトルバスが運行
●駐車場あり駐車無料: 芝川スポーツ広場・日健メディカル駐車場を利用
●問い合わせ先: 信長公黄葉まつり実行委員会(芝川商工会内)
TEL: 0544 -65 -0273

8:50~
・オープニング、開会式
・信長公供養祭
・奉納踊り、舞扇
・野点
10:50~
・和太鼓演奏
12:00~
・俳句大会表彰式
・振纏
12:40~
・信長公天下布武の舞
・居合
13:30~
・武者行列
・剣道野試合
14:30~
火縄銃演武

★境内 刀鍛冶実演(富士日本刀鍛錬所) 時間未定

9:00~15:30
「信長夢の食街道」
・へだトロはんぺん(沼津市)emoji27
・みしまコロッケ(三島市)emoji27
・みくりやそば(御殿場市)emoji27
・富士山肉巻きおにぎり(富士宮市)emoji27
・富士金華豚サンド(富士宮市)emoji27

他にも沢山の味自慢グルメ・魅力的な雑貨等を多数出店して皆様をお待ちしていますface17






































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大道芸と駿府城お持て成し 2016年

カテゴリー │遠州鎧仁會

 
 「大道芸ワールドカップ in 静岡」
 「遠州鎧仁會 in 駿府城お持て成し」


 昨日は、静岡市駿府城公園にて、遠州鎧仁會 in 駿府城お持て成しを実施。
ご周知のように、静岡市では駿府城公園も含む複数の会場にて25周年となる大道芸ワールドカップ in 静岡が開催されており、3日~6日までに延べ205万人が会場を訪れ、世界19カ国、史上最多の108組が魅せる多彩な演技で静岡の街を盛り上げていました。
 また、驚いたのは今年のボランティアは975人。1992年の第1回大会は100人余りだったのだが、97年に400人、2000年には800人を突破し、質実ともに、静岡発の大道芸が世界の大道芸となったことを完全に物語っていることも実感いたしました。

 そしてそんな中でも、巽櫓、紅葉山庭園に掲載された「戦国甲冑隊参上」(笑)のチラシをみて、わざわざ坤櫓まで足を運んでくださいましたご家族の方が何組もいらした事。今年春の静岡まつりでもお会いした方には「またお会いできましたね。ご苦労様。」とお声がけをいただいた事。鎧仁會一同、とても感謝をいたしております。

 最後に、大道芸ワールドカップ in 静岡に関わられた多くの皆様。
駿府城坤櫓関係者、スタッフの皆様。
多くの方々にご親切にしていただき、重ねて感謝いたしたいと思います。
また次回。皆様のご期待に応えられるよう、一同頑張ります。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
























































































































 

遠州鎧仁會の旗指物 

カテゴリー │遠州鎧仁會


  「遠州鎧仁會の旗指物」


 これはあの相馬野馬追で知られる、福島県南相馬市の「にしうち染工場さん」で製作して頂いた物。
その旗指物の絵柄は戦国時代の有名大名の物ではなく、各自のお家の家紋。そして家名。
今回は色鮮やかに4枚の旗指物を製作して頂きました。











 また、今回はその旗指物を止めるチチの縫い止めに注目したい。。
旗を止めるチチ。よーく見ると一番上のチチ止めは星形で縫い止めてある。これは天をあらわしているとのこと。真ん中の升目は護身としての九字をあらわし、一番下には自身の願いが叶うようにとのことなのである。
それ以外の四角に☓印は、旗以外にも幕や幟にチチをつける時にも用いられる方法。
この九字については、妙見信仰(相馬家含む)や宿曜道、ひいては陰陽道、安倍清明といった言葉が出てきます。中には、安倍清明が(相馬家の始祖)平将門といった説もあるそうです。 
 
 偶然かもしれませんが、セーマンドーマンといわれる海女さん達に伝わる御守りの模様は星と九字が使われているとのこと。
ことの真偽はさておき、旗や幕、幟は古い時代においては、製作する時点から身を清めて臨むものであったようで、特に相馬においての旗については家の顔とも言うべき大切な物。その大切な物に思いを込め、また、無事を祈る気持ちが有ったのではないでしょうか。



チチの縫い止めについて


〇星形の印(セーマン)
星形は一筆書きで元の位置に戻り、始めも終わりもないことから魔物の入り込む余地がなく、また元の場所に戻る=『無事に戻ってこられるように』との祈りを込めたもの。




〇格子状の印(ドーマン)

格子は多くの目で魔物を見張るといわれる。魔除け、魔おどし。
〇陰陽道と関係するものではないかともいわれ、星形の印は安倍晴明判紋、格子状の印は九字紋と同じ形状である。このセーマンは安倍晴明、ドーマンは蘆屋道満の名に由来するともいわれる。
伊勢志摩の神島地方の海女は、この両方をあわせて『セーメー』と呼称し磯手拭や襦袢などに縫い付けている。

〇格子状の印⇒九字紋
九字紋は横5本縦4本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。
九字(くじ)は、道家により呪力を持つとされた9つの漢字。
陰陽道、密教や修験道等で主に護身のための呪文として行われた。この文句を唱えながら、手で印を結ぶか指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた。
臨兵闘者皆陣列前行。読みはりん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ぜん・ぎょう。
意味は「臨む兵、闘う者、皆 陣列べて(ねて)前を行く」。
九字の元祖で、人によっては最も強力な九字とされる。



〇叶⇒自身の願いが叶うように



































「房・総角結び(あげまき結び)」


これも、相馬野馬追の騎馬武者に多く見られる様式の一つ。

総角結びは、古代男子の髪型である角髪(みずら)から考案された結びで、 高松塚古墳の壁画にも見られる大変古い結び。
平安時代の冠の飾りである心葉日蔭鬘(こころばひかげかずら)にも総角結びが見られます。
前後二筋づつの紐を花の形に結び冠の左右に掛けて垂らした優雅な飾りで、神祭の清浄を表しています。
神社仏閣の幕に付いている房、提灯の房、大相撲の土俵の屋根から下がる房もこの総角結び。
昔の人々は自然を象って紐を結び、その強い生命力を封じ込めて身につけることで生命の衰えを防ぎ、再生を願ったといいます。特に花は生命の象徴として好まれ、花形の文様は衣服や調度につけられました。
このような自然観が紐を花の形に結ぶ「花結び」を生んだと考えられています。
また、装飾結びの代表といわれる総角結びですが、護符や魔除けとして、結び文化の精神性においても代表的な結びの一つといえます。
端午の節供に飾られる鎧の背につけられた総角結びは、無防備な背後を守り、生命の緒をつなぎとめる護符としてつけられています。
この総角結びには「入型」と「人型」があります。

財宝や幸福など入ってきてほしいと願うものには「入型」を、逆に生命を脅かしたり、不幸になるものは入らないように「人型」で結ばれます。
ですから鎧など武具の結びには「人型」の総角結びが使われています。

結び目の上と左右が輪ではなく、一本に重ねる十文字は「蜻蛉」とも呼ぶらしいです。
ちなみに遠州鎧仁會は当然ですが人型。そして結びは「勝蜻蛉」となっております。

※画像と一部→文章池尻紐房工場さんのブログより


































































































 

第45回 天竜産業観光まつり 信康行列と大パレード 2016年

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 「第45回 天竜産業観光まつり 信康行列と大パレード」

     
 昨日は、浜松市天竜区二俣にて開催された第45回天竜産業観光まつり・信康行列と大パレードに参加。
まずは今回もこのまつりのメインを飾る信康行列の為に選ばれた地元高校生10名と、中学生33名の着付けを担当させて頂きました。

 ついては、その着付け。 
今回は昨年までの反省を生かし、高校生、中学生に質問をした。
「昨年この信康行列に出た人!?」
 高校生、中学生(2校)の生徒さん、各数名が張り切って手を挙げてくれた。

 そうなんです。
つまり雑兵役33名の着付けの進行を昨年参加した中学生に任せる。
私達4名中2名は高校生武将の着付けに専念でき、残る2名は武将と雑兵の着付けの補佐に回る。

 やはりスムーズである。
主催関係者も、私たちのみが仕事をしていると手出しに躊躇するが、中学生同士が面白可笑しくやっていると自然に手が出る。
良いコミュニケーションにもつながる。一石二鳥なのだ。

 その後は早めの昼食をとり、家康公の長男でありながら悲運の死を余儀なくされた信康公の供養へと清瀧寺へ向かう。
そしてメイン通りへと向かい出番を待つ。

 また、今年の行列からは昨年まで行われていた、武将たちの馬への騎乗は諸事情にて中止となり、行列参加の子供たち(鉄砲隊、槍隊、若武者隊)のアクションを指南する予定でいたものの様子見となり、鉄砲隊のみのアクションとなった。
 通りの中央ポイントでこれを行列見物のお客さんに披露する。
今回もウケてくれた!笑

 子供ってすごいですね。たった2回の指南も覚えが早い。体の切れがある。カッコいいし可愛い。笑
来年はみんなやろう。
子供たちも、お客さんも楽しめる行列をやろう。「魅せる」行列を作ろう。

 最後に・・・。
天竜産業観光まつり実行委員の皆様。いつもお世話になりありがとうございます。
そして、各学校関係者の皆様。大変お疲れ様でした。
私達、遠州鎧仁會。今年も色々と経験・勉強になりました。
また来年お世話になると思います。
何卒、宜しくお願いいたします。


















































































































 

松平信康(まつだいら のぶやす)

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 「松平信康(まつだいら のぶやす) 」


 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。
母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。




 永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。
 永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。

 信康は若い頃から勇猛果敢で、天正元年(1573年)に初陣する。
天正5年、家康は武田方の諏訪原城(榛原郡金谷町)を攻略し、ついで小山城(同郡吉田町)を攻めた。
すると勝頼は後詰(援軍)として押寄せ、家康軍を包囲しようとした。そこで家康は、囲みを解いて退却した。
井籠崎(同郡の内)までは、敵を前にしていたので、信康は無言で退いたが、ここからは敵を背後にしなければならない。
信康は、嫡男としての務め、殿軍をと主張した。
家康は、信康の申し出をはねつけたが、何度も言うので承諾した。
信康の奮戦により、武田軍は大井川を渡る事が出来ず撤退した。
この話は、信康の勇猛と親孝行の事実を物語るものとしてよく知られている。

 信康が武勇に優れていたという話は他にもある。
長篠敗戦後、勝頼は家人に戦場での信康の指揮の巧みなさまを述べ成長ののちには思いやられると語ったと伝えられている。
この話は、「東照宮御実紀」(巻二)という徳川家の正史に載っている話であり、又、長篠で若い信康に軍隊の指揮権がどの程度発揮出来たのか疑問であるが、少なくとも信康が武勇に優れた若殿であったという伝承があったのではないか。

 「三河物語」は、信康についてこうもいっている。信康ほどの立派な若殿は、またと出てこないであろう。
昼夜共に武辺の家来を側に置いて、武辺の雑談ばかりで、その他には馬と鷹が話題にのぼった。
 この本の著者大久保忠教は、信康を武勇に優れた若殿であったと記している。


信康の廟所「清瀧寺(せいりゅうじ)」
 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405





















 

第45回 信康行列 開催

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 「第45回 天竜産業観光まつり 信康行列と大パレード 開催」

 武者行列と大パレード、北遠エリア特産品の展示即売!


開催日:2016年11月3日(木・祝) 9:30~15:30

会  場:浜松市天竜区二俣町   雨天決行
     クローバー通り商店街
     ※歩行者天国 8:30~16:00  周辺観光地図

駐車場:臨時駐車場設置 約500台(無料)
     二俣小学校グランド、二俣川河川敷他

交  通:遠州鉄道新浜松駅→(470円)→西鹿島駅乗換え、
     天竜浜名湖鉄道西鹿島駅→(200円)→二俣本町駅
     から西へ徒歩約5分です。または、西鹿島駅より
     山東行バスで「城下通り」下車。
     ※交通渋滞が予想されます。
     東名高速浜松ICから県道45号経由で18km40分

<イベント内容>
  徳川家康の長男「徳川信康」ゆかりの地、二俣城で悲劇の最期を遂げた信康を偲んで、信康と正室徳姫の武者行列や地元小学校6校による鼓笛隊、民謡手踊り、吹奏楽団などの大パレードが見どころとなっています。
 物産大テント市では、特産品の展示即売が行われます。また、懐かしのポンポン大集合、歴史ある地元の蔵を開放した工芸品の展示・即売会、ステージショー、木工工作の広場、紙すき・竹細工体験などが人気の体験コーナー、ミニ新幹線もあり、家族で一日中楽しめます。


○-同時開催-○

☆「懐かしのポンポン大集合」
  2016年は、本田宗一郎生誕110年を記念し、ポンポン倶楽部浜松による“懐かしのポンポン大集合”も催されます。

☆「天竜秋の蔵シック」 ヤマタケの蔵前広場
  2016年11月3日(木・祝) 9:00~16:00
  国の有形文化財に指定された「ヤマタケの蔵」の懐古的な雰囲気を活用したまちおこしイベントで、地域の手芸愛好家の手作り作品展示や軽食販売などを行います。「天竜産業観光まつり」と同時開催で、蔵の前ではよさこい踊りが披露され、信康武者行列も登場します。  北遠物産品などが並ぶ「リリーズコーナー」が登場!交流棟や広場でも、手織り体験や手打ちそばの実演販売、フリーマーケット、アート作品展、アクセサリーや雑貨の販売などあります。

お問い合せ先:天竜産業観光まつり TEL 0539-25-5151



≪昨年の画像≫