「しかみ像」と「三方ヶ原の戦い」

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「しかみ像」と「三方ヶ原の戦い」関係ない!!

 徳川家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにしたとされてきた「徳川家康三方ケ原戦役画像」(しかみ像)について、三方ケ原の戦いと関連づける根拠がないとの説が提唱され、有力視されている。
合戦の舞台となった浜松市や出生地の愛知県岡崎市では、展示を見直す動きが出ている。 



◆新説有力に文献記述なく、礼拝向けか

 この新説を二〇一五年に提唱したのは、しかみ像を所蔵する徳川美術館(名古屋市東区)の学芸員だった原史彦氏(54)=現在は名古屋城調査研究センター主査。口伝として継承されてきたしかみ像の由来を明確にしようと調べた。
 徳川美術館は尾張徳川家に伝わってきた品々を中心に収蔵。台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)の所持品とあった。尾張徳川家九代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と一七八〇年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。
 原氏は、三方ケ原の戦いに関する文献も調査。いずれも反対を押し切って家康が出陣したとの内容で、慢心の戒めとして合戦直後の姿を描かせたとする記録はなかった。
 三方ケ原の戦いとの関連で最も古かったのは、一九一〇(明治四十三)年に名古屋開府三百年記念会が発行した「尾張敬公」。敬公(初代尾張藩主の徳川義直)が「自ら戒め子孫をも戒めるため」、家康が三方ケ原の戦いで敗れた姿を描かせたと記されていた。
 この見方は、徳川美術館が開館した翌年の一九三六年一月に報道され、広く知られるきっかけになった。同月十四日付、中日新聞の前身の一つ、新愛知新聞では、美術館を創設した徳川義親(よしちか)らによる座談会が掲載され、義親は「子孫への戒めのために残したものだと思います」としていた。
 原氏は「徳川家の権威が薄れていく中、箔(はく)を付けるため、三方ケ原の戦いと結び付けたのでは」と推測する。片手を頬に当て片足を組んだ仏像のようなポーズなどから、神格化のため描かれたとする松島仁・静岡県富士山世界遺産センター教授(53)=美術史=らの研究を挙げ「武神として礼拝向けに描かれたと見なす方が合理的」と話す。
 この説を受け、しかみ像の立体像がある浜松市博物館(中区)は、三方ケ原の戦いで敗れた姿を描いたとする解説を撤去。展示の見直しを考えている。
 市犀ケ崖(さいががけ)資料館(中区)は、三方ケ原の戦いと関連づけて紹介している。描かせる場面の模型もあり、市中区まちづくり推進課は「解説を変えるなど、展示を見直したい」とする。
 岡崎市では、三河武士のやかた家康館がしかみ像の複製を展示。三方ケ原の戦いと結び付けた解説を添えており、市の担当者は「通説でなくなっている。新たな説も紹介できるよう考えたい」と話す。しかみ像の石像がある岡崎公園やブロンズ像を飾る市立中央図書館でも、対応を検討する。




◆「人の一生は重荷を」も後世作
 家康を巡っては、「人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくが如(ごと)し」の書き出しで知られる「遺訓」も後世に作られたとみられている。家康の言葉や考えがどこまで反映されているかは不透明だが、今も遺訓として紹介されることがある。
 尾張徳川家二十一代当主、徳川義宣(よしのぶ)氏(故人)が一九八〇年代前半、家康の遺訓ではなく、「水戸黄門」で知られる江戸前期の水戸藩主徳川光圀(みつくに)が作ったと伝えられる教訓が基で、後に修正が加えられたものとする研究結果を発表。光圀が祖父の家康を敬愛していたことから、家康の教えも継承されている可能性を主張した。
 岡崎市の岡崎城天守閣前には、「東照公遺訓」として「人の一生は…」の文を刻んだ石碑がある。家康が祭神の久能山東照宮(静岡市駿河区)は「徳川家康公御遺訓」の色紙を千五百円で販売するなどしている。落合偉洲(ひでくに)宮司(74)は「家康公の考え方が適切に表現されているのは間違いない。今を生きる人に良い影響を与えており、東照宮信仰の核になるもの」と説明する。
 <三方ケ原の戦い> 元亀3(1572)年12月、遠江(とおとうみ)に侵攻した武田信玄軍が浜松城を攻めずに三河へ向かおうとし、出陣した徳川家康軍と三方原台地(浜松市)で合戦となった。織田信長からの援軍を加えても兵力に劣る徳川軍は総崩れとなり、敗走した家康は命からがら浜松城へ戻った。

 徳川家康を主人公にした二〇二三年のNHK大河ドラマ「どうする家康」放送を前に、家康と地域のつながりを見直し、地元を盛り上げようとする取り組みが各地で進んでいます。こうした動きや県内とのゆかりなど、家康関連の話題を随時取り上げます。



◆ありえない伝承 今も
 元静岡文化芸術大教授の磯田道史・国際日本文化研究センター教授は、描き方から「家康時代の作でないだろう」と原史彦氏の説に賛同する。ただ、後世になって、三方ケ原の戦いで大敗した家康の苦境をイメージして描かれた絵画の可能性がゼロになったわけではないともみている。
 「三方ケ原の戦いをめぐっては、家康が敗走の途中、農家の屋根に上がり屋根葺(ぶ)きに化けて敵から逃れたなど、ありえない逸話もある」とも指摘。「遠州では弱い家康が今も、ある程度信じられているのが面白い。浜松時代は弱小大名だった地元の家康が天下人となった誇らしさもあるのかもしれない」と話す。


「しかみ像」と「三方ヶ原の戦い」

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