師集

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人間がその知恵を働かせるということは

国家や社会のためである

だがそこには人間としての「道」がなければならない






 

「家康公と鷹狩り」 浜松城公園にて!

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 「家康公と鷹狩り」  

 11月28日(日)、昨日は浜松城公園にて「家康公と鷹狩り」に参加
静岡文化芸術大の二本松先生、そして生徒さん
 鈴木浜松市長、そして市職員の皆様方
また何より諏訪流放鷹術保存会員の皆様
大変お疲れさまでした また、貴重な体験もさせていただき本当に感謝いたしております
 日本の伝統文化の一つ「鷹狩り」を私も一人の日本人として応援、そして出来る限りの支援をしていきます
  
 

 「家康が愛した鷹狩り」 に市民が熱い視線 浜松城公園で実演 
                            中日新聞記事より
 

 徳川家康がこよなく愛した鷹(たか)狩りが28日、若き日を過ごした地、浜松市中区の浜松城公園で実演された。
徳川家の鷹狩り技術と同系譜とされる諏訪流放鷹(ほうよう)術保存会員10人が、当時から伝わる技を披露し約1000人の市民が見学した。
 静岡文化芸術大で同日開かれた文化講演会「家康公と鷹狩り」(同大、同市など主催、中日新聞東海本社後援)に合わせて一般公開された。
 保存会長の田籠善次郎さん(東京都青梅市)らがオオタカなど10羽を操った。
約30メートル離れた別の鷹匠(じょう)の腕に飛び移る「振り替え」や、何人もの鷹匠がじりじりと追い込んだ獲物のハトが飛び立った 瞬間にすかさず捕らえる「陣立て」などの技が繰り広げられ、“人鷹(じんよう)一体”と呼ばれる光景に、市民らは熱い視線を送っていた。
 一般市民ら約200人が聴講した講演会で、鷹狩りに関する文献研究を進めている同大文化政策学部の二本松康宏講師は「鷹狩りは 古代、中央アジアや中国などから日本にもたらされた。
遠江、駿河、三河は家康により鷹狩り文化が花開いた特筆される地域だ」と述べた。




         


 

「家康公と鷹狩り」

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 「家康公と鷹狩り」 放鷹文化講演会
      見学・来聴=無料(事前の申し込みは不要です)

   徳川家康公は鷹狩りをこよなく愛しました。
  鷹狩りこそ「天下人」の証であった。
  家康公ゆかりの浜松のまちで、鷹狩りの伝統、
  歴史と文化がよみがえる。

  
  放鷹術実演(少雨決行)
   日時 22年11月28日 10:30~12:00
   会場 浜松城公園 中央芝生広場
   実演 諏訪流放鷹術保存会
     
  
  公開講演会
   日時 22年11月28日 13:30~16:00
   会場 静岡文化芸術大学
      南176大講義市室
  
   解題 家康公と鷹狩り
      (二本松康宏・静岡文化芸術大学講師)
  
   公演 諏訪流放鷹術に受け継がれる心と技(諏訪流宗家として)
      (田籠善次郎・諏訪流放鷹術保存第17代宗家・諏訪流放鷹術保存会会長)
      
      天下人と鷹(信長・秀吉・家康の権力と鷹狩文化)
       (中澤克昭・長野工業高等専門学校准教授・鷹書研究会会員)

 

      


 

「義」と「利」

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 「義」

 武士道での中心かつ最も厳格な徳目は「義の精神」とされる。
「義」とは、打算や損得のない人間としての正しい道、すなわち正義を指すものであり、「義」から派生した言葉に大義・道義・節義・忠義・仁義・信義・恩義・律義、更には義理・義務・義憤・義侠・義士・義民・義挙などがある。武士はこの「義」を武士道精神の中心に据え、これを踏み外した者は卑怯者として糾弾の対象となった。

 「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。
 現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。
それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。
 新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。
フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。







 

初陣 岡崎城

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「初陣 岡崎城」  

    遠州鎧仁會としては初の岡崎城出陣
   
   ここ岡崎公園は、岡崎城や三河武士のやかた家康館そして能楽堂、からくり時計など
   飲食のお店や広場もあり憩いの場所としても十分に楽しめる所です
   昨日は、七五三参りのご家族、観光のお客様と園内は大変な賑わいでした


    そして今回は、岡崎城上席係長の藤原さん、また各スタッフの皆様
   甲冑武者隊の小林さん
   いろいろとお世話になりありがとうございました
   今後とも宜しくお願いいたします








 





   


 

岡崎城にて

カテゴリー │遠州鎧仁會


  岡崎城にて… 岡崎市民まつり見学

  

   日本甲冑武者隊の武者さんにご挨拶

   岡崎城の藤原さんご多忙の中お相手下さいましてありがとうございました     
     今後とも宜しくお願いいたします


   遠州鎧仁會 11月14日(日) 岡崎城に出陣いたします
 
   右特別展 本多忠勝没後四百年 「本多家の遺宝展」開催中



   







 

徳川信康武者行列 (第39回天竜産業観光まつり)

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 徳川信康武者行列 (第39回天竜産業観光まつり)にて 

 
  遠州鎧仁會
    ■参加者着付け(二俣高校) ■清龍寺(参拝・記念撮影) ■武者行列



「第39回天竜産業観光まつり」
 ―徳川信康武者行列と大パレード、特産品の展示即売―

 天竜区二俣町は、徳川家康の長男「徳川信康」が自害した二俣城此があり、その近くの清龍寺には徳川信康の墓が祀られている徳川家ゆかりの地。
 二俣城で悲劇の最期を遂げた信康を偲んで、武者行列や特産品の展示即売が行われる「天竜産業観光まつり」が開催されます。
開会式の投げ餅を皮切りに、音楽ライブやキャラクターショーなどのステージイベントに続いてまつり最大の呼び物の武者行列と大パレードが始まります。
 市内各地や北遠の物産即売では、地元の食材を活かした食べ物やお土産が並びます。
天竜商工会青年部のクラシックカーフェスティバルや、商工会女性部による「二俣ハムコロ」販売、二俣おかみさんの会リリーズによる「天竜秋の蔵シック」も同時開催します。



 




 

上洛 ④  love kyoto 

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

 
   love kyoto 


       


 

上洛 ③  宿「要庵西富家」

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 上洛の宿…。

 正直、HPを見たり本をあさったりで幾つか電話をした。
 しかし、電話の声、対応が一番よかったのがここ。
 おばあちゃん(大女将)が優しいの。
 


 京都市中京区 「要庵西富家」

 日本の美しいたたずまいと伝統が、日々の暮らしの中に変わることなく息づく街、京都。
KYOTOは失われつつある『美しい日本』の代名詞かもしれません。

 要庵西富家のある中京の富小路は、骨屋之町と呼ばれ、かつて扇の骨をつくる町衆が多く住んでいました。今でもこの界隈にはその面影を残す扇屋さんが多く残っています。
 要庵西富家の「要」はその扇の要に由来し、京の宿の「要」となる願いをこめて名づけました。
明治六年創業以来百数十年の歴史のなかで温故知新の心を大切に持ちあわせた宿、それが「要庵」です。
春・夏・秋・冬と四季ごとに美しい京都。その京都の素晴らしさとひとつの宿を通して文化をあらわすことが出来ればと思います。


  


 

上洛 ②  国宝「三十三間堂」

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  今回は二条城の他に何が見たいっていったらここでした。
 
  何かに圧倒されたかった。
 
  大きいの一体とかじゃなくて…。

     1000体。

  

  国宝「三十三間堂」

 三十三間堂は後白河上皇ゆかりの寺院で、東山七条の西にある妙法院の境外寺院正しくは蓮華王院(れんげおういん)である。
 三十三間堂の名は内陣の柱間が33あることに由来するのであるが、この33という数字は観音の慈悲が33相に示現するということにちなんでいる。すなわち苦難に遭遇した衆生を救済するため観音菩薩は苦難に応じて33の姿に変身される。
 柱間の数もこれにあわせたもので、また観音霊場が三十三所となっているのもこれによるものである。

 観音堂内陣には高さ3m余りの本尊千手観音座像(国宝・湛慶作)を挟んで、湛慶など慶派、円派、院派の奈良仏師が左右に500体ずつ、合計1001体の十一面千手千眼観音像が並んでいる。
 また、両端に風神・雷神像、背後にほぼ等身大の二十八部衆立像が安置されている。






 

上洛 ①  国宝「二条城」

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 昨年の10月中旬は「関ヶ原の戦い」
  後半は国民文化祭の「三方原合戦」
    そして11月「二俣・一夜城と武者行列」と

  あれから早一年
   10月はある意味、節目の月
     このまま3日の「信康まつり」をむかえるのも・・・・。

   「そうだ、京都!」(CMかっ?)
     思うと速い。決めると開く。

     二条城、三十三間堂、後は宿、旅館がいい。
       高くても旅館。ゆっくりできるとこ・・・。
         料理旨いとこ。 行くか! 単身「上洛」



        

 国宝「二条城」

 二条城は、慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。
豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。
徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です。


 ●二条城
 
 ●観○光(かんひかり)EXPO2010(二条城内)









 

「第39回天竜産業観光まつり」

カテゴリー │遠州鎧仁會


 「第39回天竜産業観光まつり」
 ―徳川信康武者行列と大パレード、特産品の展示即売を実施―

 天竜区二俣町は、徳川家康の長男「徳川信康」が自害した二俣城此があり、
その近くの清龍寺には徳川信康の墓が祀られている徳川家ゆかりの地。
二俣城で悲劇の最期を遂げた信康を偲んで、今年も下記日程で武者行列や
特産品の展示即売が行われる「天竜産業観光まつり」が開催されます。
 開会式の投げ餅を皮切りに、音楽ライブやキャラクターショーなどの
ステージイベントに続いて、まつり最大の呼び物の武者行列と大パレードが始まります。
 市内各地や北遠の物産即売では、地元の食材を活かした食べ物やお土産が並びます。
天竜商工会青年部のクラシックカーフェスティバルや、商工会女性部による
「二俣ハムコロ」販売、二俣おかみさんの会リリーズによる「天竜秋の蔵シック」
も同時開催します。

■開催日:平成22年11月3日(水・祝)雨天決行
■時間:午前9時30分から午後3時30分
■場所:クローバー通り商店街(天竜区二俣町)
■武者行列⇒遠州鎧仁會参加
















 「信康の会」

 徳川信康の生涯後世に。 浜松市天竜区住民有志が会発足

 昨年の「静岡新聞」より 

 浜松市天竜区の住民有志がこのほど、10月開幕の「国民文化祭・しずおか2009」に合わせ、天竜ゆかりの武将徳川信康の生涯を後世に伝えていこうと「信康の会」を発足した。
19日早朝には最初の活動として、地元の二俣小付近で児童への声掛けを行った。

 徳川信康の生涯後世に 天竜区住民有志が会発足同会は、信康に関する研究や顕彰活動、信康をまつる地元清瀧寺の遺跡保存、顕彰イベントの開催などを行う。
会長は、天竜商工会副会長の大村邦男さんが務める。

 二俣小での声掛け活動では、清瀧寺所有のよろいかぶとに身を固めたメンバーが正門前に立ち、「信康公がいつもみんなを見守っているからね」などと呼び掛け、通学児童の人気者になった。

 信康は徳川家康の長男として生まれながら、1579年、織田信長に謀反の疑いを掛けられ、21歳の若さで二俣城で自害した悲劇の武将として知られる。




 





信康の生涯

 
 永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で生まれる。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長、鵜殿氏次との人質交換により岡崎城に移る。

永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長による清洲同盟が成立。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城を譲られた。7月元服して信長より「信」の一字を与えられ信康を名乗る。

信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575年)17歳で初陣を長篠の戦いで飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の闘いで退却時の殿を努め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。
特に1歳下だった大久保忠教の『三河物語』によると、会話はいくさのこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれている。

信康の切腹についても『三河物語』の記述が詳しく、それによると、信長の娘である徳姫は、今川の血を引く母築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼(武田信玄の四男)と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康をまったく庇わず、すべてを事実と認めた。
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。

徳川家中では信康への処断に対しては反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかしながら家康は徳川家の老臣が既に認めてしまった以上もはやそのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で徳川家家臣、岡本時仲、野中重政[2]により殺害される。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命なれど主筋に刃を向けることが出来ず、別の者が介錯にあたった。

享年21(満20歳没)。





 

師集

カテゴリー │師集浜松出世城まつり

 
  大事を成し遂げようとする者は、本筋以外のことはすべて荒立てず、
 なるべく穏便にすますようにせよ