2014年 相馬野馬追 その弐
その弐
五百余騎の騎馬武者が神輿を擁し祭場地を目指す。
午前九時三十分、夏空に轟く花火を合図に陣螺、陣太鼓が鳴り響き出発を告げる。
太田神社(中ノ郷)、小高神社(小高郷・標葉郷)、中村神社(北郷・宇多郷)の順に総勢五百余騎。
各郷、総大将、軍師、郷大将、侍大将、軍者、組頭、螺役長・・・などの役付騎馬が整然と駒を進める。
行列は陣螺・陣太鼓の合図により時に止まり、時に前進して隊列を整えながら御本陣・雲雀ヶ原の祭場地へ。
騎馬武者全員が甲冑を纏い、太刀を佩き、先祖伝来の旗指物を風になびかせ進軍する。
今年は最年長が86歳。最年少は2歳(伊藤琉馬ちゃん)。女性は20歳までの独身のみが参加可能。
2014年 相馬野馬追 その壱
相馬野馬追 2014年
「相馬野馬追」 (国指定・重要無形民俗文化財)
2014年7月26日、27日、28日
相馬野馬追執行委員会公式ページ http://www6.ocn.ne.jp/~nomaoi/index.htm
※いよいよ、待ちに待った野馬追です! 楽しみです!
相馬野馬追「起源」
相馬野馬追の起こりについては、相馬氏の始祖、平将門に始まると伝え『相家故事秘要集』に、「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(しもうさのくにかつしかぐんこがねがはら)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備え(そなえ)の次第、駆引(かけひき)の自由、馬上の達者、機変自在(きへんじざい)の動きを試む」と見える。
『奥相秘鑑』によれば、天慶3年(940)将門没後、長男は早世し、三男以下は戦死し、次男将国(まさくに)一人が死を免れて民家にかくれ、その子文国は旧臣浮島太夫木幡右近国豊に隠まわれ、常陸国信田(ひたちのくにしだ)郡浮島に住み、信田小太郎と称した。文国(ふみくに)の子頼望(よりもち)にいたり推されて信田の郡主となり、漸く地方に重きをなすようになった、とある。
将門没後、数代の間は野馬追も出来なかったと思われるが、相馬氏の一族の岡田氏が葛飾に住んで、わずかに野馬追を続けていたと伝える。
頼望より六代目の重国(しげくに)の代になって千葉介常兼(つねかね)(千葉城に居住)より所領を分け与えられ、下総国相馬郡守谷に移り、信田の名を改め、相馬を名のり相馬家を再興した。
重国から胤国(たねくに)、師国(もろくに)と続いたが、師国に子がなかったので、養子として迎えたのが、本家筋の千葉常胤の次子、師常(もろつね)であり、ここに師常は将門の正統を継いだのである。そして、師常の頃から、晴れて先例のように小金ヶ原で毎年五月中(なか)の申(さる)の日に野馬追を行うようになったとするのが一般の伝承である。
小金ヶ原で行われたという将門のころの野馬追の様子は知る由(よし)もないが、平素多くの野馬を放牧し、この馬群を多くの将兵が騎馬で追い出し、一定の場所に追い込み、野馬を生捕る(いけどる)ことによって敵兵を捕虜にした形をとった、いわゆる野馬追の行事を行ったとされる。
今に残る小金ヶ原は、ほんの名ばかりで、守谷(茨城県守谷市)の西南方約20キロメートルの辺り(あたり)にあるという。
将門の正統を継いだ師常(もろつね)は、鎌倉四天王の一人として武名をはせ、奥州行方を拝領したので、彼を奥州相馬の祖としているのである。
nikoe
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
(春華堂ニコエ店)
おつかいものを買いに・・・。
春華堂 ニコエ店ですって! 7月20日にオープン。
あの、 「うなぎパイ」 の会社です。
「美味しい、楽しい、新しい」 感、満載です。
コチラ⇒ http://www.nicoe.jp/
次郎長遺物館(梅陰禅寺)
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
次郎長遺物館(梅陰禅寺)
梅蔭禅寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、明応元年(1492)天倫通明和尚の開山創建と伝えられています。当初は、梅蔭庵と号し永禄年間(1558-1569)武田家の御朱印地となり、その後梅蔭寺と改めました。
梅蔭禅寺は侠客・清水次郎長の菩提寺として有名です。次郎長をはじめ、大政・小政・増川仙右エ門、お蝶夫人の墓があります。境内に立つ次郎長像の向いには次郎長遺物館があります。次郎長愛用の着衣や煙官、大政の特大の胴着、小政愛用の木刀などを展示しています。
※次郎長遺物館(プレハブ造)は、次郎長生家から徒歩15分程の所にあります。
この遺物館も、次郎長生家が近くにあるから生きるのです!
「清水の次郎長 と 生家」
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
「清水の次郎長 と 生家」
「徳川家康 と 宗円堂」
「清水の次郎長」
清水の次郎長(1820-1893)こと山本長五郎は文政3年(1820)清水市美濃輪の船持ち船頭の三男に生まれ、母の弟の米商「甲田屋」山本次郎八の養子となりました。家出してやくざの世界に入り、諸国を旅して修行を積み清水港に一家を構えました。
慶応4年(1868)、東征大総督府から駿府町差配役に任命され、静岡県の駿河、遠江、愛知県三河の地域の治安維持に貢献しました。この年に旧幕府軍の一隻「咸臨丸」が清水湊に入り、官軍からの攻撃で乗船していた旧幕府軍兵士が殺害される事件が起きました。
海に投げ出されたままになっていた遺体は、官軍の怒りを買うことを恐れ、誰も葬ることをしませんでした。次郎長は「死者に官軍も賊軍もない。皆、仏だ」と言って手厚く葬ったのです。そして静岡藩大判事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟らと親交ができ、世のため人のために生きるようになったそうです。 博打を止めた次郎長は清水港開港に尽力し、英語教師を招いて青年に英語を教え、晩年は開墾事業に没頭し、三保・日本平・富士市裾野大開墾など幾多の社会公益の為に尽くしました。
:追記:
1820年文政3年
1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれる。生家は薪炭を商う『薪三(まきさん)』。船持船頭三右衛門の次男。長五郎と名付けられ、母方の叔父、甲田屋(米穀商)次郎八の養子となる。次郎八の子の長男というので『次郎長』と呼ばれた。
1829年文政12年10歳
粗暴な性格を直すため、由比倉沢の伯父兵吉のもとに預けられる。
1834天保5年15歳
粗暴な挙動改まり、甲田屋に戻る。江戸に行こうとして許されないため、百両あまりを持って家出。
浜松に行き米相場で巨利を博し、清水に帰って家人を驚かす。
1866慶応2年47歳
笠砥神社(三重県)の祭礼の賭場に安濃徳ら黒駒勝蔵の一味が集まる。吉良の仁吉や大政ら清水の一党二十二人が、荒神山で血闘。大政が首魁の門之助を倒したが、仁吉は重傷、法印大五郎ら討死する。次郎長手勢四百人余を引連れて船で伊勢に渡り、安濃徳らは陳謝する。(荒神山の血闘) 最初の手打式(慶応2年1868年)その後も小競り合いがあったので再度の手打式を明治3年1970年に浜松の五社神社境内で行う。
:清水の小政:
浜松宿 吉川冬吉とは、清水の次郎長の子分の一人であった通称「清水の小政」の本名である。彼は天保13年(西暦1842年)12月浜松宿新町で桶屋を営んでいた吉川由蔵の二男として生まれた。家計を助けるため、鶏卵の行商に歩き、浜松宿で次郎長と出会い、浜松の博徒親分、国領屋亀吉と地元の魚問屋のとりもちで、次郎長一家の身内となった。その後、次郎長と養子縁組して「山本政五郎」と名乗った。
「次郎長生家」
次郎長の生家は、次郎長にちなんで名付けられた「次郎長通り」と呼ばれている商店街の中にあります。家の中には次郎長の写真や使用した道具類、資料などが展示されています。当時の居間もそのままの状態で保存されています。夏の盆踊りシーズンには「次郎長踊り」のメロディーがあちらこちらから聞こえてきます。今でも地元清水の人々に愛され続けている次郎長です。
:次郎長の生家市民で保存:
清水港整備など清水のまちの発展に尽力した清水次郎長の生家に光を当て、新たな町づくりにつなげようと、静岡市内の有志が同清水区美濃輪町にある生家の保存活動を始めた。生家は老朽化し、屋根などの補修が必要な状態。関係者は市民や県内外の次郎長ファンなどの協力を得ながら、生家の継承に取り組む考えだ。
昨年4月から生家の公開にたずさわっているNPO法人地域づくりサポートネットによると、建物は長年の風雨で屋根瓦が痛み、昨年も台風や強風で損傷が広がった。同NPOの呼びかけに応じ、地元商業者、建築の専門家、企業関係者など20人が3月下旬、「次郎長生家を活かすまちづくりの会」を設立した。同会は清水湊の国際港湾化、茶の販路拡大、英語塾の開設などに尽力した次郎長の功績を生かした地域活性化の一環で、生家の保存活動を本格化させることを決めた。当面の懸案である屋根の補修の資金を集めるため、近く募金を始める。
このほか、登録文化財としての文化庁への申請、次郎長に関する勉強会の開催などを2013年度事業に盛り込んだ。
生家と周辺施設の散策ネットワークづくり、全国への情報発信も順次進める。
同会には次郎長の兄の子孫で、母との一緒に生家を管理する服部千恵子さん(70)も参加した。
会長に就任した牧田充哉さん(小松園)は「生家を末長く保存し、具体的なまちづくりを推進したい」と話している。平成25年4月3日
由井宿 散策②
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
由井宿 散策②
「東海道広重美術館」
平成6年、東海道の宿場町「由比宿」の本陣跡地である、由比本陣公園内に開館した東海道広重美術館は、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(1797-1858)の名を冠した、日本で最初の美術館です。
収蔵品は、“広重・東海道三役”と異名をとる《東海道五拾三次》の「保永堂版」、「隷書東海道」、「行書東海道」の他、晩年の傑作《名所江戸百景》など、風景版画の揃物の名品を中心に約1,400点を数えます。
常に新しい視点で、浮世絵芸術の素晴らしさを満喫していただけるよう、毎月展示替えを行い、所蔵品を中心にバラエティーに富んだ企画展を開催して参ります。
また講演会やギャラリートークなど、関連事業も随時実施致します。
館内には「大展示室」「小展示室」の他、「浮世絵の基礎知識」「ガイダンスルーム」があります。 エントランスホールには、浮世絵版画摺りの技術をやさしく理解できる「版画体験コーナー」を設置するなど、“広重”や“東海道”をキーワードに、江戸文化への理解を深めて頂ける工夫がされています。 また「ミュージアムショップ」では、オリジナルグッズの販売もしております。
http://tokaido-hiroshige.jp/
由井宿 散策①
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
由井宿 散策①
「和紙と錦織の館」
旧東海道沿いにある昭和初期に建てられた、大正ロマン漂う建物。店内は奥に長く、繊細な描写の和紙グッズや錦織で作られた小物など伝統工芸品を多数販売しています。
最高級「印伝」の製品は種類も多く、がまぐち、印鑑入れ、バッグ、財布など丈夫で使いこむほど味が出るのでギフトにもぴったりです。
他にも、人気のてぬぐいの速乾性とタオルの優しい触り心地を備えた「てぬぐいタオル」、アクセサリー入れ、ミニ巾着、和紙のシール、便箋、着物柄のハンカチや帯を使ったメモ帳など、100種類以上のアイテムが並んでいます。和紙手作りの御結婚の祝儀袋なども人気があります。
http://shizuoka.mytabi.net/shizuoka/archives/washi-nishikiori.php
「正雪紺屋」(由比正雪の生家)
江戸時代初期から400年も続いている紺屋(染物屋)で、由比正雪の生家と言われています。藍甕(かめ)や神棚、染物道具、用心篭中などの道具や仕事場が昔のまま残されており、当時の歴史を物語っています。また、裏庭の祠(ほこら)には正雪を祀った五輪塔があります。
http://www.mapple.net/spots/G02200092501.htm
<
「東海道由井宿おもしろ宿場館」
江戸時代の東海道十六番目の宿場町であった東海道由比宿を再現した、江戸時代にタイムスリップした気分にさせてくれる施設です。
由比出身の画家の松永宝蔵氏がデザインした人形で旅籠、桶屋、寺小屋など、上り下りの旅人で賑わった江戸時代の宿場町や、本陣奥間に参勤交代のお殿様やお姫様、豪華絢爛な大名駕籠や家臣など本陣の様子が楽しくわかります。
2階の駿河湾を一望できる桜えび料理専門レストラン「パノラマテラス 海の庭(うみのてらす)」は、生桜えびを使った揚げたての桜えびかき揚げや、桜えびお刺身等約50種類のメニューがあります。
http://shizuoka.mytabi.net/shizuoka/archives/ooshiroshukubakan.php
御室流華道 「杜若会」
カテゴリー │杜若会(華道)
浜松市茶室松韻亭さんと御室流華道教授・湖風斉裕心先生の企画による男性のいけばな講座。
今回の花材は、檜扇(ヒオウギ)である。
檜扇⇒花が美しいためしばしば栽培され、生花店でも販売される。特に京都では祇園祭に欠かせない花として愛好されている。
黒い種子は俗に「ぬば玉」と呼ばれ、和歌では「黒」や「夜」にかかる枕詞としても知られる。
そして、飛び入りのホオズキを先生が活ける。これは花友さんの差し入れである。
それからもう一つ。
今日のお軸は「露堂々」。言葉としては「明歴々」とあるそうだ。
この書と意味にひかれたので書いておきます。
「明歴々露堂々」
歴々と明らかで、堂々と露(あらわ)れているの意。
一点も覆い隠すことなく、明らかに露れている、ということ。
真理は奥深いところに隠れていて、誰もが簡単に見られるものではないと考えられがちであるが、
実際は、全くあからさまであり、隠すところなど微塵もない。
それが見えないとすれば、見ようとしないだけか、目が曇っているだけにすぎない。
宗円堂 遠州大念佛と盆踊り大会
カテゴリー │神社・寺・史跡│My Favorite/私の好きなもの
本日、遠州の盆行事、遠州大念佛と盆踊り大会が浜松市中区犀ヶ崖資料館(宗円堂)で行われる。
遠州大念佛は、440年前の三方ヶ原の戦いでの戦死者への供養の為始まったとされ浜松市の無形民族文化財でもある。
私は縁あって鎧を着用し、徳川や武田の紋を羽織らせて頂くようになってから毎年ここでお線香をあげさせてもらっている。
また、今年は遠州大念佛保存会より、袋井木原組さんと芝本下組さんが参加。
大念佛保存会の生き字引中村伯司さんご解説の下各組特徴のある念佛をこの暑い中披露する予定である。
ちなみに私は中村さんの特徴のある声、そして言い回しの解説が大好きである。(下記画像は以前のもの)
追伸:
本当に、宗円堂は解体されてしまうのだろうか!
徳川家康と武田信玄の時代から始まり、今日に至るまで多くの地元住民たちと幾多の困難を乗り越えてきた宗円堂。
本当に今日が最後になってしまうのだろうか?
設楽原戦没者慰霊祭
カテゴリー │遠州鎧仁會
「設楽原戦没者慰霊祭」
昨日、第25回設楽原決戦場まつりで行われる、設楽原戦没者慰霊祭に参加。
場所は歴史資料館信玄塚。この日も、新城市長はじめ、市議会議長、商工会長。また、武田宗家邦信様、武田家旧温会の皆様、織田家当主信和様、設楽原をまもる会の皆様など。多数参加。戦国供養、火縄銃による鎮魂礼射等、例年のよう慎ましく行われた。
供養祭後は、武田家旧温会の皆様に同行。長篠城址や勝楽寺などをガイドされ有意義な一日となった。
決戦場まつり、主催・スタッフの皆様、ご苦労様でした。
また、武田家旧温会の皆様。いつもいつも大変お世話になりありがとうございました。
皆様には本当に感謝いたしております。今後とも宜しくお願いいたします。
「勝楽寺」
当山は大本山に永平寺を仰ぐ六百余年の曹洞禅寺で、永平寺十四世勅賜直指円性禅師が幼少から御修行なされた名刹で、その因縁によって「出世観音様」をお祀している。
三世玄賀和尚は、名僧の誉高く家康の遠州への進出を助け、設楽原の戦いの後、戦没将兵の大施餓鬼を営み、この夜の火祭りが、竹広の「火踊り」として今なお続いている。又このとき信長・家康が立ち寄って「松楽寺」を戦勝に因んで「勝楽寺」と改めたといわれ、川路城主・設楽家の菩提寺でもある。
文化の拠点 復活
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
このどちらにも興味があった。 昭和の文化拠点。そして動読(どうどく)。
古きをたずね新しきを知った!
戦後の面影を残す利木公会堂。地元住民は7月の公演を楽しみにしている。(2014/5/ 9 14:30静岡新聞)
戦後間もなくの面影を残す湖西市利木の利木公会堂で7月5日、県舞台芸術センター(SPAC)の公演が開かれる。かつて文化の拠点として親しまれた公会堂は、人口減少によりほとんど利用されなくなった。「以前のように、文化や芸能を楽しめる場にしたい」。実行委員長を務める地元の松本竜男さん(68)は思いを込め、公演の成功に向けて力を尽くす。
同公会堂が建てられたのは1953年。当時の住民が手分けして湖畔の区有林を伐採し、地元の大工の協力を得て、総工費165万円で建築した“手作り”の施設だ。完成当初は地域の芸能祭で使われたほか、全国各地から劇団が訪れて舞台を披露した。松本さんは「住民が集まり、みんなで舞台に夢中になった」と思い返す。
ところが、利木地区は過疎化が進み、テレビの普及と若者の芝居離れもあってステージの数は年々減った。現在は地元の湖西歌舞伎保存会が練習に使うだけで、公演が開かれることもなくなった。
そんな公会堂に興味を持ったのは、SPACの俳優奥野晃士さん(45)。浜名湖のほとりにたたずむ村の芝居小屋のような建物に、「時代が止まっているかのような空間。ここで何かを伝えてみたい」と感じた。機材の配置などさまざまな制約が予想されるが、松本さんら地元の住民と協力しながら舞台を作り上げる決意をした。
公演で披露するのは、奥野さんが提唱している「動読」。津軽三味線の演奏に合わせ、身ぶり手ぶりを交えながら「走れメロス」を朗読する。
地元住民や建築業組合が舞台の設営に協力してくれることになった。奥野さんは「湖西とSPACが連携し、文化を発信するきっかけにしたい」と力を込める。
ほおずき市
カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの
先日、浜松市北区にある竜ケ岩洞で開催されたほおずき市を訪れた。
いなさほおずき市は、奥浜名湖いなさ、初夏の風物詩である。
あまり知られていないようだが、ここ浜松は、全国有数のほおずきの産地でもある。
東京は浅草のほおずき市にもここから多数出荷されているのだ。
また、この日のほうずき市は、ほおずき色のポロシャツを着た若い生産者ご夫婦とその家族が、ほおずき市を盛り上げていた!(W)
(※ほおずき夫婦との出会いは偶然である)
もちろん、竜ヶ岩洞もお勧め⇒ http://www.doukutu.co.jp/
久能山東照宮参拝と徳川甲冑展
カテゴリー │神社・寺・史跡│My Favorite/私の好きなもの
「久能山東照宮参拝と徳川甲冑展」
先週日曜日、愛知県の甲冑仲間ご夫妻と、鎧仁會の仲間とで久能山東照宮に行った。
今年初の参拝と徳川甲冑展が目当てである。
しかし、いつも思うことではあるが、何をどう一つとってみても昔の人の技術、そしてセンスとは大したものである。
ただ、今回私が思った事はもう一つある。それは、なぜ、これだけの物が作れたのか!である。
作り手だけの問題だけではないような気がした。
作る側の技術やセンスだけではない。それは、身に着ける側にもある。
作り手にこれら、これだけの物を作らせてしまう側。つまり、鎧や太刀を身に着ける側も強者でない限り作り手はその思いに答えられない。
そう、誰が作り、誰がそれを纏うのか! 両者のオーラの塊が今この世に遺品を通して語っているのではないか。
だとしたら、私は私の分身たちに恥じる事のないような生き方をこれからもしていかなくてはならない。
「私の一生はその重き鎧を纏い遠き道をゆくが如し」
追伸: お仲間の皆さん。この度はお疲れ様でした。お会いでき、お話ができ、良き一日となりました。
「ありがとうございました」 またお会いいたしましょう!
追記: 徳川家康公の御手形とある。 三十八歳 身長155㎝ 体重60㎏ そして手形。
私は四十九歳 身長174㎝ 体重69㎏である。
驚いた事にその指の長さ等、手形はほぼ一致した。
ちなみに、足の長さは石原裕次郎と同じである。(笑)
「徳川家継の甲冑」
徳川家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)が所蔵する江戸幕府七代将軍家継(いえつぐ)(一七〇九~一六)の甲冑(かっちゅう)の修復作業が終了し十日、報道陣に公開された。
三歳で将軍職に就き、三年後にわずか六歳で死去した家継の遺品は非常に少なく、全国的にも貴重。三百年ぶりに輝きを取り戻した甲冑は十二日から、東照宮に隣接する博物館で展示される。
「御写形歯朶具足(おんうつしがたしだぐそく)」と呼ばれ、徳川の歴代将軍に作られた縁起物のよろい。
植物のシダをかたどった飾りがかぶとに付けられ、関ケ原の戦いに勝利した家康の甲冑に似せたとされる。
実際には着用されず、正月飾りに使われた。
二〇一五年の家康没後四百年に合わせ、東照宮は昨春、東京都板橋区の区無形文化財で甲冑師の三浦公法(ひろみち)さん(75)に修復を依頼。一年がかりで甲冑をつなぐひもや、ひびの入ったかぶとを直した。
三浦さんは「もともとの甲冑の部品を生かすようにして修復した」と説明。劣化したひもをかたくり粉で固めて貼り付けるなど、三百年前の部品を残す工夫をした。
東照宮は歴代将軍の甲冑六十三領を保有。大半は収蔵庫で保管する間に傷みが進み、修理が必要だ。落合偉洲(ひでくに)宮司(66)は「貴重な品々を後世に残すため、少しずつ修復を進めたい」と話している。
七月三十一日までの修復完成記念展ではこのほか、家康や八代吉宗など歴代将軍の甲冑も展示する。(中日新聞より)