御室流華道 「杜若会」

カテゴリー │杜若会(華道)

御室流華道 「杜若会」 (男性のいけばな講座)
 浜松市御室松韻亭さんと御室流華道、男性のいけばな講座


「御室流」
 世界遺産に登録されている日本の古都、京都洛西の名刹仁和寺という寺院に伝えられている華道(いけばな)の流派です。
古くは仁和寺創建当時(平安時代)より仏前に御供えする供華として、挿花の渕源を知ることができます。
中世にあっては世間の名匠、技芸練達者に称号(法橋、法眼、法印)を授与し、華道はじめ技術の発展に寄与してきました。
いけばな人(花道家)も勿論この例にもれず、近世になってはこの称号を授与された花道家が集まり御室流をささえることになり、今日の隆盛をみるにいたっています。
その流風は伝花といわれる古典花(生花)の技法を伝承すると共に、時代に調和する現代感覚あふれる盛花、投入花の花矩(挿花、いけ方)を探求し、更には既成概念にとらわれず自由ないけ花の表現への道をも開き、豊かな感性の涵養をめざし、次代にいけ花の美しさと、いけ花を求める心を継承していくことを目的とした流派が御室流です。



:今日の花材
=雲竜柳、黒文字(クロモジ)、撫子(ナデシコ)、錦木(ニシキギ)、接骨木(ニワトコ)、銀香梅(ギンコウバイ)、菊、スウィートピー、レモンリーフ、カーネーション、ガーベラ

:私の花材=すいません。画像を消去してしまいました。 (^_^;)


:お菓子
=浜松「花鼓さん」 干し柿のお菓子だったか!



















藤原さんから頂いたガーベラ。 男3人がガーベラ持って!(笑)








 

浜松のカルタ

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「ふるさとのかるた 浜松」
 

 私たちのふるさと浜松には、伝説・史跡など古くからの歴史がたくさんあります。とりわけ、浜松城を築いた家康に関する話は、いろいろな形で残されています。
そんな話をもう一度おもい起こしながら、このカルタをお楽しみ頂けたら幸いに思います。
=カルタ紹介文より=


 このカルタは、昭和57年に作られたもの。実に今から34年程前になりますね。
私は、まだ三歳です。(笑)

 この時の浜松市はもちろん合併前であります。
今度は、今現在の浜松市を題材に、伝説、史跡、歴史等のカルタ、作ってみようか!
34年前の先輩方を受け継がなくてはいけませんね。


※かるた画像と文章(かるた絵の説明文)
  絵は版画?切り絵? 作者を訪ねてみたいです。
※浜松の小学生に関わらせてあげたいのは、家康くんの応援より、
  このようなカルタ作り。
 




ふるさとかるた 浜松




ふるさとかるた浜松 案内図




浜松城(元城町)
見るからに荒々しい野面積の石垣が今なお戦国時代の面影を残しています。
この城は徳川家康が築きました。
浜松藩政や約三百年の間に二十五代の城主が在城しましたが、老中、寺社奉行などに出世した人が多いことから別名、出世城とも呼ばれています。




三方原古戦場
市の北方に広がる台地。ここで家康は武田信玄と戦い敗れ、浜松城へ逃げ帰ったのです。しかし信玄も多くの兵を失い、甲斐の国へ引きあげていったのでした。
負け戦さにもかかわらず信玄に立ち向かった家康の名は、天下に広まることとなりました。
かつての古戦場あたりは現在畑が広がり、住宅や工場が建ち並んでいます。




雲立の楠(八幡町)
三方原の戦いにやぶれた家康が、敵の目からのがれるために逃げ込んだのが、八幡宮の楠のほら穴であったという伝説が残っています。またその楠の枝葉が雲がかかる程高くそびえていたので雲立ちの楠と呼ばれていたという説もあります。




有玉神社の流鏑馬(有玉南町)
有玉神社の流鏑馬は家康が戦場で乗った馬を寄進して、流鏑馬の神事を行ったのが始まりといわれ、毎年十月十日に行われます。当日は裃に身を包んだ三人の乗り手が馬に乗り、境内の馬場を九往復し、走る馬の背で弓振りをします。使われた的や矢は魔除けとして氏子が争って取り合い、家に持ち帰ります。 ※縁があるのかも




鎧かけの松(元城町)
四百年ほど昔、徳川家康は戦いに負けて、城に逃げ帰りました。
城門をくぐりほっとした家康は、松の木かげに入り、着ていた鎧を脱いでかけ、一休みしたと言われています。
また家康が武田方戦死者の首実験をした場所でもあるといわれ「首実験の松」とも呼ばれています。




引間城(元城町)
市体育館の東側、現在元城町の東照宮あたりが、引間城跡です。
城を築いたのが誰なのか判っていませんが徳川家康がこの城を攻めたときの城主は飯尾豊前守でした。
豊前守が家康に討たれた後、城を守っていた豊前守の妻は、激しく抵抗し討死して果てました。
その遺体を葬ったのが、元浜町の御台塚で今は、椿姫観音となっています。
※直虎さん(次郎法師)の時にこの方も取り上げて頂きたいですね。
 



犀ヶ崖(布橋一丁目)
雪の一面に積もった十二月の夜、三方原の戦いにやぶれた家康は浜松城に逃げ帰りました。
そして勢いにのった武田勢に備え、犀ヶ崖に白い布を張り渡し、橋にみせかけました。
武田勢はそこに深い谷があるとも知らず攻め寄せて、人馬もろとも墜落し命を落としたということです。




鎌研池と片葉のあし(頭陀寺町)
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた頃、頭陀寺の武将、松下嘉兵衛之綱の屋敷に奉公をしていました。
馬の飼料の草刈り人足だった藤吉郎は、大事な鎌を近くの池で研ぐのが日課で、研ぎ終わると池のほとりに生えるあしの葉で、切れ味をためします。
葉のつけ根から片側だけを切り落とすうち、いつの間にかそこには片葉のあしが生えるようになったということです。
※やっぱ秀吉公は、頭陀寺でしょ!
 


小豆餅と銭取(小豆餅)
三方原合戦で、大勢の武田方に追われた家康は、浜松城に逃げ帰る途中小さな茶店を見つけました。
腹が減っていた家康は、茶店にとび込み小豆餅をほおばりました。ところが追っ手が迫ってきたので、銭も払わず逃げ出しました。茶店のばあさんは、あわてて後を追い銭を受けとりました。
これが小豆餅と銭取の地名のいわれだということです。




遠州大念仏
戦国時代、徳川家康と武田信玄が三方原で合戦をしました。
その時、徳川方の夜襲にあった武田勢の侍や馬が犀ヶ崖に転落し命をなくしました。その霊を慰めるため家康は、三河から宗円という僧を招き、供養しました。これが遠州大念仏のおこりと伝えられています。
浴衣を着、すげ笠をかぶり、鐘、太鼓、笛に合わせて歌い踊ります。
※宗円堂、復活させたいです。




築山御前(広沢二丁目)
徳川家康の妻、築山御前は天正七年、岡崎城から浜松城へ呼びよせられ、小薮(富塚町)まで来たところ家康の命令を受け家臣により殺されてしまいました。家康が戦国の世に生き残るために、御前が犠牲になったのです。
遺体は手厚く西来院に葬られました。
その静かな西来院墓苑の中央に、御前をまつった廟が建っています。




甘露寺(中郡町)
弘仁年間(八一〇~八二四)内乱により、命を落とした人たちの供養をするため創建されたと言われています。
現在残っている建物の中でも、ひときわ古びた中門は桃山時代の様式と技法をよく伝えるものとして知られています。応仁の乱、元治元年の内乱の災禍にも難をのがれ現在では市の文化財に指定されています。




姫街道(葵町~細江町)
江戸時代、今切(新居)の関所は、西へ向かう「出女」と「入り鉄砲」の取り調べがきびしく多くの人たちは今切をさけ浜名湖の北を通る本坂超えをしました。
当時の松並木が葵町地内から細江町にかけて、道の西側に美しく立ち並び、今も残っています。
又、一里塚も現存し、追分一里塚と東大山一里塚は市の史跡に指定されています。




中田島砂丘(中田島町)
市の南部、遠州灘に連なる中田島砂丘は鳥取、千葉の砂丘と共に日本の三大砂丘の一つです。
風によって一夜のうちに形が変わり美しい風紋を作り出す自然の神秘さに、まず驚かされます。
昼夜の別なく吹く風に人々は砂防のため松を植え、移動する砂を止めるのに「そだ」をさし、柵を二重、三重に立て砂と闘い、その防砂柵はこの浜の風物詩ともなっています。




浜松まつり
引間城主、飯尾豊前守の長男の誕生を祝って、凧をあげたのが凧揚げ合戦の始まりだと言われています。
毎年五月三日から五日の三日間、中田島砂丘で行われる凧の切り合いは勇壮で市民はもちろん遠方から見物客が集まり賑わいます。
夜は市内各町の御殿屋台が五十台あまりも、はなやかに引き回されます。










 

DLoFre`s/ドロフィーズ

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

 「DLoFre`s/ドロフィーズ」 浜松市北区都田町2706‐1

 今日は浜松市の北区都田町にある、ドロフィーズへ。

 実は私。普段このブログ内容のような活動をしているので、皆さんてっきり伊藤は和物好き!なんて思ってらっしゃることと思います。
イヤイヤいや~。 実はそうばっかりではないのだ。

 確かにネ~、篝火も好き。 ですが、薪ストーブも大好きなのです。

 冗談はこのくらいにして、今回のドロフィーズ。

 場所は浜松市。けどここは浜松駅がある中心市街地、つまり中区ではなく郊外。そうなんです。ここは同じ浜松市でも北区。
北区と言えば今日から大河ドラマ「真田丸」が始まりましたが、来年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台井伊谷(いいのや)が浜松市の北区となります。
そして、この北区都田町からやや東には浜松市天竜区。天竜区と言えばあの徳川家康の長男信康公とゆかりのある二俣城や清瀧寺(せいりゅうじ)。そして秋野不矩(あきのふく)美術館があり。またここから西に行けば直虎(次郎法師)のふるさと井伊谷があります。井伊谷には、もちろん龍潭寺があり、井伊谷宮や渭伊神社(いいじんじゃ)。そして、井伊谷城跡もあれば三岳城跡(みたけじょう)もある。そして、ここドロフィーズがあることによって、歴史好きな方も、このような雑貨好きな方も両方が楽しめる。
子供たちだって楽しめる。 そうそう、天竜浜名湖鉄道もありますから電車好きも楽しめます。 
まだまだ時間の余裕があれば、フルーツやアウトドア浜名湖でも遊べます。 北区サイコー!ってな感じ。

 そうそうもう一つ。
マリメッコといえば、映画「かもめ食堂」もいいですよね。 
あのね~。かもめ食堂ってフィンランドが舞台なんですけど、日本通な内容もでてくるのです。 オモシロいですよ! 


「ドロフィーズ」 http://www.interior-dlofre.jp/
ドロフィーズインテリアは、北欧的なスローライフな生活・ライフスタイル をご提案させていただいているインテリアショップです。
一つのものを永く大切に。丁寧な暮らしのきっかけづくりをさせていた だいております。
「一生涯の友人のような家具たち」をコンセプトとした職人さん手作り の無垢の家具。
心と体に柔らかな光を包み込む、自然素材のカーテン。
北欧から届いた、シンプルだけれど実用的なデザインの食器。
体にも環境にも配慮した「顔の見える生産者」のオーガニックワイン。
炎の揺らぎに心温まる神秘的な薪ストーブ。
一生涯、ずっと永く大切に愛され続けるものだけを提案させていただ いております。
家具、カーテン、照明など、コーディネートの提案・お打ち合わせも行 っております。


「かもめ食堂」
かもめ食堂(かもめしょくどう)は、2006年3月公開の日本映画。小林聡美・片桐はいり・もたいまさこのトリプル主演。
監督は『バーバー吉野』『恋は五・七・五!』『めがね』の荻上直子、原作者は群ようこ。
キャッチコピーは「ハラゴシラエして歩くのだ」で、個性的な面々がフィンランドのヘルシンキを舞台に、ゆったりと交流を繰り広げていく様子を描く。第28回ヨコハマ映画祭(2007年)にて第5位を獲得した。






















































 

浜松城の門松

カテゴリー │遠州鎧仁會お城

 「浜松城の門松について」

 そういえば先日詣出た有玉神社さん(東区)では、家康公の馬のお話がありました。
地元住民との交流があったのですね。



浜松城の門松について、松は万斛村と有玉村で、竹は篠ヶ瀬村、飾り付けは植松村、片付けは白鳥村で行ったと。
すべて東区の村々である。

中道朔爾氏が昭和8年に著した『遠江積志村民俗誌』の~万斛と家康~より

 「・・・浜松城の正月の飾松は、昔から有玉と共にこの(万斛)両村で献ずる例になって居た。両村民は神主を先頭に立てて、一本を二十五人で運搬した。随分大きな門松で、これを大道狭しと、道々の家々の門先を拂立てながら、喧囂(けんごう)を極めたものであったと言ふ。
 有玉万斛では松を持って行くのみで、篠ヶ瀬(和田村篠ヶ瀬)では飾竹を、植松村(蒲村植松)では松立をした。松飾の後片付は白鳥村(中野町村白鳥)でしたと言ふ。・・・」

中道朔爾氏は、明治34年12月生、和田村薬師新田、積志小学校の教員も務め、昭和32年1月に57歳で没。この本には、当時の積志村の伝説伝承から生活等に至るまで書かれており民俗誌として貴重で興味深い話が載っている。








 

天宮神社 と 小國神社

カテゴリー │神社・寺・史跡My Favorite/私の好きなもの

 「天宮神社 と 小國神社」


  28年最初の〆は、北東へ。 天宮神社と小國神社。


 天宮神社(あめのみや) 静岡県周智郡森町天宮

 当神社は第29代欽明天皇の頃(約1500年前)に小碓命(日本武尊)の後裔太田の君、守の君の氏族が先祖の遺跡を訪ねてこの地を開き、筑紫の国宗像の御神霊を迎え大氏神として鎮斎せられたのに始まります。
 文武天皇慶雲2年勅願により社殿等の造営がなされ、その折京都から藤原綾足が神官として赴任し京都の楽人により舞楽が奉納されました。以来十二段舞楽は今日まで連綿と伝承されてきています。
 神社・社殿は、室町時代に焼失し、一時衰退をしましたが、徳川家康公によって社殿が造営され、その後修営にあたって、遠州横須賀城主の隠岐守西尾忠成公を奉行に幕府の直参棟梁の甲良豊前宗賀によって完成したのが現在の社殿であるといわれています。












 神木 梛の木(ナギの木)

 梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り、奈良春日神社には平安期900年頃の巨木有り、伊豆山神社には今を去る1,400余年の昔、山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が
   「神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は  
      千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず」
                          と歌われた誌が有ります。
 鎌倉の尼将軍と名をはせた北条政子が若き日に伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁が結ばれる縁結びの神木とされます。後に、1192年源頼朝鎌倉に幕府を開く。
他にも梛の木の文献が数多くありますが、当熊野神社の本宮 紀州熊野神社那智の大社には平重盛が植えたといわれる樹齢1,000年の梛の巨木有り。
 千古の昔より信仰熱く当神社にも「縁結び」の神々が坐します梛の木との関わり深く神木として大切に生育したいと思います。





 
その名が「凪(なぎ)」に通じることから船乗りの信仰を集めたが、船乗りだけでなく、一般の人たちもその葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏に入れる風習もあった。長さ4~6cm、幅 1.7~2cmの光沢のある葉は筋が強く、いくら引っ張っても切れないというので、夫婦の絆が切れることのないよう願いを込めて鏡の裏に入れたという話や、鏡の裏に入れておくと会いたいと思う人が鏡面に現れるという話など、この木にまつわる伝説は多い。


 ※梛の葉を頂きました。 河合さんありがとうございました。


 梛(なぎ)/和ぎ・凪・薙ぎと表記したときの意味合いの別

1.「和ぎ」は和やか、穏やかな状態であり、主に心情や情勢に用いられる。
2.「凪」は和ぎと同意でもあるが、現在では風が無く穏やかな波のない海の状態をさす場合が多い。また、数少ない国字(和製漢字)であり風が止まっている状態をあらわしている
3.「薙ぎ」は山が崩れ平らになりつつある状態や草木を刈った平坦な野原を指すが、横に打ち払う(薙ぎ払う)という意味もある。そのことから神事としての祓い清めを意味する。また薙の神事が日本各地にあり、内陸地方での嵐や大風を鎮める行為とされる。珍しい文字では「(なぎ)」があり、崩れという意味から薙ぎの当て字である。

 「なぎ」には様々な漢字表記があり、同音異句の樹木や山・地名としても多く使われている。そのほとんどが日本の神道や神話や古神道における信仰の場所に関わるもので、神社の名や日本の神の名の一部として使われている。


 ※頂いた梛の葉を一輪差へ(青宵作)  額装(ページワン)





  小國神社(おくに) 静岡県周智郡森町一宮

 大己貴命は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と呼ばれ、神話の中でも「因幡の白うさぎ」はよく知られており、赤裸にされたうさぎを助けられた心のやさしい神さまです。(一般には「大国様(だいこくさま)」と呼ばれ親しまれています。)
豊葦原の国(日本の国)を稲穂がたくさん稔る豊かな国に造りあげ、天孫に国をお譲りした神さまとして「国作之大神(くにつつくりのおおかみ)」・「大穴牟遅神(おおなむじのかみ)」といわれています。

また、農業・山林・鉱業・縁結び・医薬の開発・禁厭の法(鳥や害虫から作物を守る方法)を授けた神さまとして「大物主神(おおものぬしのかみ)」・「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」・「大国玉神(おおくにたまのかみ)」とも呼ばれ、国中の悪い神さまを追い出して平和な国に治められた神さまとして「葦原醜男命(あしはらのしこおのみこと)」・「八千矛命(やちほこのみこと)」と称えられています。

 創祀は神代と伝えられ上代の事で詳らかではありませんが、延宝8年(1680)の社記によると、人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられました。後に、都より勅使が差遺せられ、山麓約6kmの現在地に社殿を造営し、正一位の神階を授けられました。
それ以来、年々奉幣に預り勅使が下向され、文武天皇大宝元年(701)春18日に勅使奉幣の際、特に十二段の舞楽を奉奏されました。 延喜7年(907)の延喜式では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤く近世に至りました。

元亀3年(1572)の戦では、徳川家は御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛治宗近作の太刀を奉り戦勝を祈願した後、社殿を全て焼失しました。天平3年(1575)に勝利を得た家康公は、御本殿の造営、拝殿・楼門を再建され、更に社領五百九十石の朱印を奉り、以降代々の徳川将軍家より、社殿の改造・修復料を寄進されました。

明治6年6月13日に国幣小社に列せられ、明治15年3月に再度の火災により御本殿以下建造物などことごとく失いましたが、明治19年に復興され現在に至っております。
平成17年には御鎮座一四五〇年祭が斎行され、「遠江國一宮さま」として崇敬され親しまれております。














 

東西南北中の神社巡り

カテゴリー │神社・寺・史跡My Favorite/私の好きなもの

 「東西南北中の神社巡り」

 本日は、以前言われた事があった、浜松城を中心に「東西南北中」の神社を巡れ!を実行する事にした。
全部は無理。だから、浜松市を区分けし、プラス浜名湖西に一ヶ所、そして天竜川東に一ヶ所の計6ヶ所を巡ってみた。
候補地は大体で自分で決めた。 何がどういいか? 今後、どうなるのかはわからない。 けど、いい出会いはあった。
やってみるもんだとも思った。

・高塚熊野神社(浜松市南区高塚)
・女河八幡宮/めがわ(湖西市新所)
・愛宕神社(浜松市西区舘山寺町)
・井伊谷宮(浜松市北区引佐町井伊谷)
・有玉神社(浜松市東区有玉南町)
・府八幡宮(磐田市中泉)



高塚熊野神社(浜松市南区高塚) 

当社は、後三条天皇の延久年間(約940年前)に創建されたと口伝され、紀州和歌山の熊野本宮の神主が、諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられました。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って神社の裏山に土をもりあげました。その後、「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出ましたが、この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えられます。又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)、高い墓を築いたと・・・。
大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚、高塚(たかつか)と呼ぶようになり、地名になったと伝えられています。












※八咫烏(八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている)
※三つ巴(武神である八幡神の神紋として巴紋(特に三つ巴)が用いられる)




 ※御神木というものは何とも言えぬ雰囲気があるものです



女河八幡宮(湖西市新所)

 当社の例大祭には、秋の収穫感謝をあらわす特徴ある神事が行われる。「巫女卜」「十列児」「流鏑馬」などは、奈良の春日大社・春日若宮おん祭りの風流行列に同様の行事があり、神事をになう宮座当番やその活動拠点である庁屋とともに、近畿地方の影響が認められると言う。





 ※光栄なことに、幕の家紋が私と同じである


※ここでも神事的が行われていたのだ 「金的中」「金階中」そして日置流とある


※跳ね馬


※安土である 土に藁が混ぜ込まれている



愛宕神社(浜松市西区舘山寺町)

 聖武天皇の神亀4年(727)7月14日鎮座。のち元禄16年(1703)社殿焼失したが同年再建され今日に至っている。貞享年間(1684~88)堀江藩主大沢右京大夫殿の祈願所として、年々祭祀料1石2斗を賜る。本社は堀江村はもとより庄内・内山他7ヶ村の総社であったが、明治7年5月村内の10社を合祀、各村に神社が置かれたので、それ以来堀江村の村社(旧社格)となった。







※堀江氏か~! 感慨深い処である

※浜名湖がきれいである

       

井伊谷宮(浜松市北区引佐町井伊谷)

 明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つである。彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年(1869年)にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政と井伊高顕に助けられ、この地で死んだと伝えられていた。
翌明治3年(1870年)の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年(1872年)1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた。
初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していたが、明治6年(1873年)6月9日に白峯宮(白峯神宮)、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた。








※やはりね! 沢山の人出でありました







有玉神社(浜松市東区有玉南町)

 天照意保比留売貴命(あまてらすいほひるめきのみこと)外二十二柱の神を祀る。主神のご神徳は万徳を備えられている神で、全国の氏神様の総親神である。 家康公が大坂の役より帰陣後、秘蔵の愛馬を奉納。
以来、流鏑馬神事(やぶさめしんじ)を例祭日の特殊神事として400年の伝統を今に伝える。





※西の女河八幡宮 東の有玉神社 共通は流鏑馬


※有玉神社の氏子衆と 「馬」 「弓」 「鎧」で話が盛り上がりました
   何かできると良いですね!




府八幡宮(磐田市中泉)

 奈良時代の聖武天皇(在位724年~749年)のころ、「桜井王」という皇子(聖武天皇の曾孫といわれている)が、遠江国の国司となって国府(国の役所)に着任しました。王は、地域全体の平安を願って「府八幡宮」を建立しました。国府のあるところの八幡宮であるから、「国府八幡宮」ともいわれてきましたが、今は「府八幡宮」が正式名称です。地元の人たちは、親しさをこめて“八幡さま”あるいは“中泉の八幡さま”とも呼んでいます。
 府八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司(現在の知事にあたる)であった天武天皇の曽孫桜井王(さくらいおう)が、遠江国府の守護として赴任された時、遠江国内がよく治まるようにと府内に奉られたのが、始まりです。遠江国府は、最初に現在の二之宮・御殿地区に勧請(かんじょう)され、その後、見附地区に移転されるまでの間、一時、府八幡宮内に置かれていた、と伝えられています。
寛永12年(1635年)に建立された楼門(ろうもん)は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿および 幣殿は市の文化財に指定されています。境内の建物の多くは、江戸時代に建造されたものです。

※この楼門は昨年12月に、300年ぶりの改修工事が終わったそうであります






 「凛として・・・。」  好きな言葉です!
  「未来へつなぐ日本」 と言う事なのか!





本日巡った場所   後は、「鬼門」だ












 

伊藤家の初日(元旦)

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

 「伊藤家の初日」

 今日は、伊藤家の初日(元旦)である。
本来の元旦は、昨日のような内容であるため、今日が伊藤家としての初日祭事を行う。
 まずは、氏神様への挨拶。
家から徒歩3分に位置する、「豊田 若宮八幡宮様」に参拝にでかけ、そして崇敬神社の「浜松 五社神社・諏訪神社様」へ今一度足を運ぶ。
そして、今一つの崇敬神社「浜松八幡宮様」へと挨拶に向う。

 こういう事をしていると、ちまたでは、複数の神社様への参拝は神様が怒るのでやめた方がいいんですよ!なんて聞くことがある。
そのお言葉は飲み込むが、私は思います。 そんな、料簡の小さい事を私の神様は言わない。むしろ、「出来る限りその時に挨拶なさい」と言うと思っている。
 だから、行ける時には出来る限りの挨拶をして回る。正月も、現場の近くにでも神社様があれば挨拶する。
それが、私の行いなのだし、「これでいいのだ!」 と思っている。


「豊田 若宮八幡宮」旧磐田郡豊田町

 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)または若宮八幡社(わかみやはちまんしゃ)という名前の神社は、日本全国にあり、若宮八幡宮社(わかみやはちまんぐうしゃ)と称する神社もある。
 社名の通り「八幡宮の若宮」という意味で、多くは宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などにある若宮を勧請し、八幡神・応神天皇の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀るものである。他に、「八幡宮本宮から迎えた新宮」の意味の「若宮」もあり、この場合は応神天皇が祀られている。源氏、ひいては後の武家全体の守護神たる八幡宮から分祀され、日本各地に存在する。


「浜松 五社神社・諏訪神社」  http://yoroikokoro.hamazo.tv/e6237561.html

 「お江戸見たくば五社・諏訪ごろじ、お江戸まさりの五社や諏訪」
 これは、江戸時代に浜松周辺でうたわれた俚謡(りよう・一地方の民間でうたわれたはやりうた)である「ごろじ」はご覧なさいという意味、「江戸の華やかなさまを見たければ浜松の五社や諏訪神社をご覧なさい、この社殿の華麗さは江戸の建物にも勝るものだよ」という意味である。
 五社神社と諏訪神社の歴史は大変古いが、歴史の上ではっきりしてくるのは徳川家康の時代になってからである。家康は五社神社と諏訪神社を浜松で生まれた三男・秀忠の産土神(うぶすながみ)として崇敬し、社殿を造営している。



「浜松八幡宮」 http://www.hamamatsuhachimangu.org/

 浜松八幡宮は市中心付近にありながら多くの樹木が繁茂する鎮守の森に鎮座し、土地の先人達がお祭りの歴史を綿々と受け伝えてきたところであります。
  徳川家康公が祈願所とし、武運長久を祈ったと伝えられています。
武田信玄との戦い(三方原合戦)に敗れ武田軍に追われた際、洞穴に潜んだと言われる境内の御神木「雲立の楠」は、その時、瑞雲が立ち上ったとの故事により称されるようになりました。また「雲立の楠」は、静岡県の天然記念物に指定されています。



「豊田 若宮八幡宮様」






















「浜松 五社神社・諏訪神社」






「浜松八幡宮」 


















 

平成28年元旦 浜松城初日の出開城

カテゴリー │遠州鎧仁會

  「平成28年元旦 浜松城初日の出開城」

 明けましておめでとうございます
 本年も宜しくお願い申し上げます


 平成28年元旦。今年も幕開けは、浜松城にての初日の出開城お持て成しとなった。
今年はお天気もよく沢山の人出が!っと、言いたいところではあったのだが、今日は暖かな日であった為なのか浜松城への人出はいつもより少なく感じられた。だが、ホテルコルド浜松さんへの宿泊や、五社神社様への人出は大変多く午前中から長蛇の列が続いていた。
また、本日も浜松グランドホテルさんで開催されている浜松骨董まつりさんへ伺い、いつもの出会いと骨董まつりを楽しむことができた。
浜松骨董まつりは3日まで。

 ホテルコンコルド浜松様。浜松五社神社・諏訪神社様。本日も大変お世話になりありがとうございました。
本年も宜しくお願いいたします。

 ・浜松城初日の出開城お持て成し
 ・ホテルコンコルド浜松ランチバイキング
 ・浜松五社神社・諏訪神社 祈願参拝
 ・グランドホテル浜松骨董まつり