浜松のカルタ

カテゴリー │遠州鎧仁會

 「ふるさとのかるた 浜松」
 

 私たちのふるさと浜松には、伝説・史跡など古くからの歴史がたくさんあります。とりわけ、浜松城を築いた家康に関する話は、いろいろな形で残されています。
そんな話をもう一度おもい起こしながら、このカルタをお楽しみ頂けたら幸いに思います。
=カルタ紹介文より=


 このカルタは、昭和57年に作られたもの。実に今から34年程前になりますね。
私は、まだ三歳です。(笑)

 この時の浜松市はもちろん合併前であります。
今度は、今現在の浜松市を題材に、伝説、史跡、歴史等のカルタ、作ってみようか!
34年前の先輩方を受け継がなくてはいけませんね。


※かるた画像と文章(かるた絵の説明文)
  絵は版画?切り絵? 作者を訪ねてみたいです。
※浜松の小学生に関わらせてあげたいのは、家康くんの応援より、
  このようなカルタ作り。
 



浜松のカルタ
ふるさとかるた 浜松



浜松のカルタ
ふるさとかるた浜松 案内図



浜松のカルタ
浜松城(元城町)
見るからに荒々しい野面積の石垣が今なお戦国時代の面影を残しています。
この城は徳川家康が築きました。
浜松藩政や約三百年の間に二十五代の城主が在城しましたが、老中、寺社奉行などに出世した人が多いことから別名、出世城とも呼ばれています。



浜松のカルタ
三方原古戦場
市の北方に広がる台地。ここで家康は武田信玄と戦い敗れ、浜松城へ逃げ帰ったのです。しかし信玄も多くの兵を失い、甲斐の国へ引きあげていったのでした。
負け戦さにもかかわらず信玄に立ち向かった家康の名は、天下に広まることとなりました。
かつての古戦場あたりは現在畑が広がり、住宅や工場が建ち並んでいます。



浜松のカルタ
雲立の楠(八幡町)
三方原の戦いにやぶれた家康が、敵の目からのがれるために逃げ込んだのが、八幡宮の楠のほら穴であったという伝説が残っています。またその楠の枝葉が雲がかかる程高くそびえていたので雲立ちの楠と呼ばれていたという説もあります。



浜松のカルタ
有玉神社の流鏑馬(有玉南町)
有玉神社の流鏑馬は家康が戦場で乗った馬を寄進して、流鏑馬の神事を行ったのが始まりといわれ、毎年十月十日に行われます。当日は裃に身を包んだ三人の乗り手が馬に乗り、境内の馬場を九往復し、走る馬の背で弓振りをします。使われた的や矢は魔除けとして氏子が争って取り合い、家に持ち帰ります。 ※縁があるのかも



浜松のカルタ
鎧かけの松(元城町)
四百年ほど昔、徳川家康は戦いに負けて、城に逃げ帰りました。
城門をくぐりほっとした家康は、松の木かげに入り、着ていた鎧を脱いでかけ、一休みしたと言われています。
また家康が武田方戦死者の首実験をした場所でもあるといわれ「首実験の松」とも呼ばれています。



浜松のカルタ
引間城(元城町)
市体育館の東側、現在元城町の東照宮あたりが、引間城跡です。
城を築いたのが誰なのか判っていませんが徳川家康がこの城を攻めたときの城主は飯尾豊前守でした。
豊前守が家康に討たれた後、城を守っていた豊前守の妻は、激しく抵抗し討死して果てました。
その遺体を葬ったのが、元浜町の御台塚で今は、椿姫観音となっています。
※直虎さん(次郎法師)の時にこの方も取り上げて頂きたいですね。
 


浜松のカルタ
犀ヶ崖(布橋一丁目)
雪の一面に積もった十二月の夜、三方原の戦いにやぶれた家康は浜松城に逃げ帰りました。
そして勢いにのった武田勢に備え、犀ヶ崖に白い布を張り渡し、橋にみせかけました。
武田勢はそこに深い谷があるとも知らず攻め寄せて、人馬もろとも墜落し命を落としたということです。



浜松のカルタ
鎌研池と片葉のあし(頭陀寺町)
豊臣秀吉が、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた頃、頭陀寺の武将、松下嘉兵衛之綱の屋敷に奉公をしていました。
馬の飼料の草刈り人足だった藤吉郎は、大事な鎌を近くの池で研ぐのが日課で、研ぎ終わると池のほとりに生えるあしの葉で、切れ味をためします。
葉のつけ根から片側だけを切り落とすうち、いつの間にかそこには片葉のあしが生えるようになったということです。
※やっぱ秀吉公は、頭陀寺でしょ!
 

浜松のカルタ
小豆餅と銭取(小豆餅)
三方原合戦で、大勢の武田方に追われた家康は、浜松城に逃げ帰る途中小さな茶店を見つけました。
腹が減っていた家康は、茶店にとび込み小豆餅をほおばりました。ところが追っ手が迫ってきたので、銭も払わず逃げ出しました。茶店のばあさんは、あわてて後を追い銭を受けとりました。
これが小豆餅と銭取の地名のいわれだということです。



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遠州大念仏
戦国時代、徳川家康と武田信玄が三方原で合戦をしました。
その時、徳川方の夜襲にあった武田勢の侍や馬が犀ヶ崖に転落し命をなくしました。その霊を慰めるため家康は、三河から宗円という僧を招き、供養しました。これが遠州大念仏のおこりと伝えられています。
浴衣を着、すげ笠をかぶり、鐘、太鼓、笛に合わせて歌い踊ります。
※宗円堂、復活させたいです。



浜松のカルタ
築山御前(広沢二丁目)
徳川家康の妻、築山御前は天正七年、岡崎城から浜松城へ呼びよせられ、小薮(富塚町)まで来たところ家康の命令を受け家臣により殺されてしまいました。家康が戦国の世に生き残るために、御前が犠牲になったのです。
遺体は手厚く西来院に葬られました。
その静かな西来院墓苑の中央に、御前をまつった廟が建っています。



浜松のカルタ
甘露寺(中郡町)
弘仁年間(八一〇~八二四)内乱により、命を落とした人たちの供養をするため創建されたと言われています。
現在残っている建物の中でも、ひときわ古びた中門は桃山時代の様式と技法をよく伝えるものとして知られています。応仁の乱、元治元年の内乱の災禍にも難をのがれ現在では市の文化財に指定されています。



浜松のカルタ
姫街道(葵町~細江町)
江戸時代、今切(新居)の関所は、西へ向かう「出女」と「入り鉄砲」の取り調べがきびしく多くの人たちは今切をさけ浜名湖の北を通る本坂超えをしました。
当時の松並木が葵町地内から細江町にかけて、道の西側に美しく立ち並び、今も残っています。
又、一里塚も現存し、追分一里塚と東大山一里塚は市の史跡に指定されています。



浜松のカルタ
中田島砂丘(中田島町)
市の南部、遠州灘に連なる中田島砂丘は鳥取、千葉の砂丘と共に日本の三大砂丘の一つです。
風によって一夜のうちに形が変わり美しい風紋を作り出す自然の神秘さに、まず驚かされます。
昼夜の別なく吹く風に人々は砂防のため松を植え、移動する砂を止めるのに「そだ」をさし、柵を二重、三重に立て砂と闘い、その防砂柵はこの浜の風物詩ともなっています。



浜松のカルタ
浜松まつり
引間城主、飯尾豊前守の長男の誕生を祝って、凧をあげたのが凧揚げ合戦の始まりだと言われています。
毎年五月三日から五日の三日間、中田島砂丘で行われる凧の切り合いは勇壮で市民はもちろん遠方から見物客が集まり賑わいます。
夜は市内各町の御殿屋台が五十台あまりも、はなやかに引き回されます。









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