2010年06月08日00:50
二俣・信康の会≫
カテゴリー │遠州鎧仁會
「信康の会」
徳川信康の生涯後世に。 浜松市天竜区住民有志が会発足。
昨年の「静岡新聞」より
浜松市天竜区の住民有志がこのほど、10月開幕の「国民文化祭・しずおか2009」に合わせ、天竜ゆかりの武将徳川信康の生涯を後世に伝えていこうと「信康の会」を発足した。
19日早朝には最初の活動として、地元の二俣小付近で児童への声掛けを行った。
徳川信康の生涯後世に 天竜区住民有志が会発足同会は、信康に関する研究や顕彰活動、信康をまつる地元清瀧寺の遺跡保存、顕彰イベントの開催などを行う。
会長は、天竜商工会副会長の大村邦男さんが務める。
二俣小での声掛け活動では、清瀧寺所有のよろいかぶとに身を固めたメンバーが正門前に立ち、「信康公がいつもみんなを見守っているからね」などと呼び掛け、通学児童の人気者になった。
信康は徳川家康の長男として生まれながら、1579年、織田信長に謀反の疑いを掛けられ、21歳の若さで二俣城で自害した悲劇の武将として知られる。
大村会長は「活動が軌道に乗れば、地域おこしにもつなげていきたい」と語り、会員を募集している。
年会費は、個人会員と賛助会員は1000円、法人会員は3000円。
問い合わせは今村さん〈電053(926)2843〉へ。
信康の生涯
永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で生まれる。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長、鵜殿氏次との人質交換により岡崎城に移る。
永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長による清洲同盟が成立。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城を譲られた。7月元服して信長より「信」の一字を与えられ信康を名乗る。
信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575年)17歳で初陣を長篠の戦いで飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の闘いで退却時の殿を努め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。
特に1歳下だった大久保忠教の『三河物語』によると、会話はいくさのこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれている。
信康の切腹についても『三河物語』の記述が詳しく、それによると、信長の娘である徳姫は、今川の血を引く母築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼(武田信玄の四男)と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康をまったく庇わず、すべてを事実と認めた。
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。
徳川家中では信康への処断に対しては反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかしながら家康は徳川家の老臣が既に認めてしまった以上もはやそのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で徳川家家臣、岡本時仲、野中重政[2]により殺害される。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命なれど主筋に刃を向けることが出来ず、別の者が介錯にあたった。
享年21(満20歳没)。
徳川信康の生涯後世に。 浜松市天竜区住民有志が会発足。
昨年の「静岡新聞」より
浜松市天竜区の住民有志がこのほど、10月開幕の「国民文化祭・しずおか2009」に合わせ、天竜ゆかりの武将徳川信康の生涯を後世に伝えていこうと「信康の会」を発足した。
19日早朝には最初の活動として、地元の二俣小付近で児童への声掛けを行った。
徳川信康の生涯後世に 天竜区住民有志が会発足同会は、信康に関する研究や顕彰活動、信康をまつる地元清瀧寺の遺跡保存、顕彰イベントの開催などを行う。
会長は、天竜商工会副会長の大村邦男さんが務める。
二俣小での声掛け活動では、清瀧寺所有のよろいかぶとに身を固めたメンバーが正門前に立ち、「信康公がいつもみんなを見守っているからね」などと呼び掛け、通学児童の人気者になった。
信康は徳川家康の長男として生まれながら、1579年、織田信長に謀反の疑いを掛けられ、21歳の若さで二俣城で自害した悲劇の武将として知られる。
大村会長は「活動が軌道に乗れば、地域おこしにもつなげていきたい」と語り、会員を募集している。
年会費は、個人会員と賛助会員は1000円、法人会員は3000円。
問い合わせは今村さん〈電053(926)2843〉へ。
信康の生涯
永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で生まれる。
今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長、鵜殿氏次との人質交換により岡崎城に移る。
永禄5年(1562年)、徳川家康と織田信長による清洲同盟が成立。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城を譲られた。7月元服して信長より「信」の一字を与えられ信康を名乗る。
信康は若い頃から勇猛果敢で、天正3年(1575年)17歳で初陣を長篠の戦いで飾り、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の闘いで退却時の殿を努め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。
特に1歳下だった大久保忠教の『三河物語』によると、会話はいくさのこと、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったと描かれている。
信康の切腹についても『三河物語』の記述が詳しく、それによると、信長の娘である徳姫は、今川の血を引く母築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に対して十二箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼(武田信玄の四男)と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康をまったく庇わず、すべてを事実と認めた。
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。
徳川家中では信康への処断に対しては反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかしながら家康は徳川家の老臣が既に認めてしまった以上もはやそのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で徳川家家臣、岡本時仲、野中重政[2]により殺害される。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命なれど主筋に刃を向けることが出来ず、別の者が介錯にあたった。
享年21(満20歳没)。
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