2020年04月13日16:42
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遠江国日置流はどこへ④
『仏坂の矢場』 浜松市北区引佐町伊平
平成28年2月。徳川家康と三方ヶ原の戦いを調べていたころ、ここに来たことがあった。
当時、すでに三河日置流の人たちとの交流があったので、日置流弓術や神事的の知識は多少なりともあり、ここに奉納額や矢場があったことは覚えている。
そして今年の2月。あらためて行ってみた。
奉納額や野立看板を見る限り、明治、大正、昭和の時代には旺盛であったと思われる。
野立看板には、「昭和30年2月16日~18日の観音本開帳時には・・・。」とある。
私は昭和40年の生まれで、人生の半分を昭和という時代で生きてきていると、明治や大正はともかく、昭和という時代がそうも遠くに感じられないというところがある。
だがしかし、この昭和30年(1955年)って、ふと考えてみると戦後の10年のことであり、また私が生まれる10年も前にあたる。
まして今日から計算すれば、実に65年も前のことになるのだ。
私にとっての昭和って、まだそこにあった時代のように思ってはいたが、実はもの凄く遠い時代になってしまったのかもしれない。
※画像は平成28年と令和2年のものを使用





















「仏坂(ほとけざか) 古戦場」
三方ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)といわれる「仏坂の戦い」が行われた場所。元亀(げんき)3(1572)年、遠江に入った武田方の山県昌景(やまがたまさかげ)の軍勢と、徳川方の井伊谷三人衆(近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、鈴木重時(しげとき))の軍勢が、ここ仏坂で戦となりました。この戦いで井伊谷三人衆の軍勢は敗れ、多くの武将が亡くなりました。
この古戦場の近くには、両軍の戦死者の墓といわれる「ふろんぼ様」があり、現在も地域の皆さんによって供養が行われています。




「仏坂竹馬寺十一面観音」
この十一面観音は等身大の木仏像で行基が創ったとされるものである。
仏教は「空にはじまり円で完成をみる」円とは、共生を表す。人は、「空」に臨みて清い心になり、そして共に生きるということである。
十一面観音像の十一面は人の共生している姿を表す。また、左手に持っている壺のような物は、清水を表す。
人は、頭のよい人、優しい人、義の人、信の人、勇気ある人、といろいろある。それから男性と女性、(仏教の教えでは女も男も平等である)それらに優劣の区別はなく、共に生きて、幸せの処になる。という意味である。
自然界は、全て共生で成り立っている。細胞は、ミトコンドリア、リボソーム、小胞体、などいろいろな小器官が円を描く様に、共生して成り立つ。食物連鎖にしても、円をえがくように共生している。菌類、カビ類に至っても、動植物にとって重要な共生する生き物である。人が共生し支えあうのは、あたりまえのことかもしれない。
古来より、仏坂十一面観音を里人(特に伊平3区の里人)は命懸けで守ってきた。
1572年(元亀3)武田信玄と徳川家康が、戦ったとされる、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦で、「仏坂の戦い」が伊平観音の里、仏坂で行われた。里は戦火で焦土と化したとされる。この際、十一面観音を戦禍より守るべく、事前に仏像の置かれていた仏坂から細江町気賀の「観行院」に一時移動した経過がある。
また、明治七年(1874年)から始まった神の国の再興、そして排仏毀釈政策(神仏分離令を出し、寺院、仏像、経文などを壊す)は凄まじく、里人は十一面観音を必死に守り抜いた。





『仏坂の矢場』 浜松市北区引佐町伊平
平成28年2月。徳川家康と三方ヶ原の戦いを調べていたころ、ここに来たことがあった。
当時、すでに三河日置流の人たちとの交流があったので、日置流弓術や神事的の知識は多少なりともあり、ここに奉納額や矢場があったことは覚えている。
そして今年の2月。あらためて行ってみた。
奉納額や野立看板を見る限り、明治、大正、昭和の時代には旺盛であったと思われる。
野立看板には、「昭和30年2月16日~18日の観音本開帳時には・・・。」とある。
私は昭和40年の生まれで、人生の半分を昭和という時代で生きてきていると、明治や大正はともかく、昭和という時代がそうも遠くに感じられないというところがある。
だがしかし、この昭和30年(1955年)って、ふと考えてみると戦後の10年のことであり、また私が生まれる10年も前にあたる。
まして今日から計算すれば、実に65年も前のことになるのだ。
私にとっての昭和って、まだそこにあった時代のように思ってはいたが、実はもの凄く遠い時代になってしまったのかもしれない。
※画像は平成28年と令和2年のものを使用

「仏坂(ほとけざか) 古戦場」
三方ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)といわれる「仏坂の戦い」が行われた場所。元亀(げんき)3(1572)年、遠江に入った武田方の山県昌景(やまがたまさかげ)の軍勢と、徳川方の井伊谷三人衆(近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、鈴木重時(しげとき))の軍勢が、ここ仏坂で戦となりました。この戦いで井伊谷三人衆の軍勢は敗れ、多くの武将が亡くなりました。
この古戦場の近くには、両軍の戦死者の墓といわれる「ふろんぼ様」があり、現在も地域の皆さんによって供養が行われています。
「仏坂竹馬寺十一面観音」
この十一面観音は等身大の木仏像で行基が創ったとされるものである。
仏教は「空にはじまり円で完成をみる」円とは、共生を表す。人は、「空」に臨みて清い心になり、そして共に生きるということである。
十一面観音像の十一面は人の共生している姿を表す。また、左手に持っている壺のような物は、清水を表す。
人は、頭のよい人、優しい人、義の人、信の人、勇気ある人、といろいろある。それから男性と女性、(仏教の教えでは女も男も平等である)それらに優劣の区別はなく、共に生きて、幸せの処になる。という意味である。
自然界は、全て共生で成り立っている。細胞は、ミトコンドリア、リボソーム、小胞体、などいろいろな小器官が円を描く様に、共生して成り立つ。食物連鎖にしても、円をえがくように共生している。菌類、カビ類に至っても、動植物にとって重要な共生する生き物である。人が共生し支えあうのは、あたりまえのことかもしれない。
古来より、仏坂十一面観音を里人(特に伊平3区の里人)は命懸けで守ってきた。
1572年(元亀3)武田信玄と徳川家康が、戦ったとされる、「三方ヶ原の戦い」の前哨戦で、「仏坂の戦い」が伊平観音の里、仏坂で行われた。里は戦火で焦土と化したとされる。この際、十一面観音を戦禍より守るべく、事前に仏像の置かれていた仏坂から細江町気賀の「観行院」に一時移動した経過がある。
また、明治七年(1874年)から始まった神の国の再興、そして排仏毀釈政策(神仏分離令を出し、寺院、仏像、経文などを壊す)は凄まじく、里人は十一面観音を必死に守り抜いた。
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