遠江・日置⑥ 弓と神社

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遠江国日置流はどこへ⑥

『弓と神社』


◆奉納弓射

 三河地方は古くから弓が盛んに行われてきた地域である。それは、永禄三年(1560年)、三河地方を治めていた徳川家康が武士階級だけでなく、一般庶民にも広く弓を奨励した文書「弓之事」を出したことに端を発するとも伝えられている。こうして、祭礼の奉納弓射や神社の修繕等に際して弓が引かれることが多くなっていた。
弓神事は、神社を中心とする村の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼時に行われ、金的を射止めることでその厄難を取り除くことが目的とされている。
そのため、金的とは悪霊、災いを象徴しており、金的に矢が当たらないと厄が落ちないといった理由から、祭りが始められない、山車が神社から出られないと言ったこともあったそうである。

 神事は、大きさ一寸八分(5.4cm)の金的と呼ばれる金色の的を安土に掲げ、参加者が一本ずつ矢を放ち、金的を射抜くものである。金的を射止めたものは、本殿にて神主よりお祓いを受け金的中と記された額を翌年奉納することとなる。この奉納額には流派・師範名・奉納者氏名・住所等が「金的中」と言う文字とともに入れられ、神社の拝殿やや舞台等に掲げられることが多い。一度の祭礼に一人しか掲げることのできない金的中の額を神社に奉納する事は、弓引きにとって名誉なことであり、憧れでもあった。
こうした弓の神事は、三河地方のみならず隣接する遠江・信濃・恵那地方にも影響を与えたと考えられる。

 また、弓の神事は地元の住民だけで行われるものではなく、奉納額の出身地を見ると尾張、美濃、信濃、遠江などの弓引きが神事に参加していたことがわかり、弓を介して実に広い地域と交流していたことを知ることができる。豊田地域の金的中奉納額から、明治期から昭和初期にかけて弓を引く事は民衆の間に広く普及し、嗜み・楽しみとして弓が盛んに行われるようになっていったことがわかる。

 こうした弓の神事は現在、金的奉納額からもその実態を知ることができる。『三河風土記 上』によると三河地域において現存する金的中奉納額の中で最も古いものは、岡崎市の六所神社に収められている永禄七年(1564年)のものである。他にも天文十五年(1546年)に奉納された額もあったといわれている。そのため十六世紀半ばには、三河地方の神社で弓神社が行われていたことが分かる。

   ※豊田市郷土資料「一弓入魂」より


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◆甲賀(甲賀武士=甲賀忍者)

 以前、NHKの番組「ブラタモリ」でも甲賀を取り上げ、似たようなことを言っていた。
甲賀では地侍と呼ばれる人たちの普段は農業をしていたという。
戦国時代に入ると自分たちの身を守るため、諸国の情報を集め今自分たちは何をするべきが、誰に就くべきかを、各地区の長が神社に集まり相談をしていたという。

 この時代の三河や遠江では、今川義元や織田信長の名が挙げられる。
だが、まもなくして徳川家康が台頭するわけであるが、上記のように戦国時代に入る以前よりこれら地域(三河・尾張・遠江)の神社ではすでに弓神事は行われており、若き家康からしてみれば労せずして即戦力となる弓集団がそこにはあったのである。


天文十五年(1546年) 奉納額
永禄三年(1560年)   桶狭間の戦い
永禄三年(1560年)   弓之事
永禄七年(1564年)   奉納額
天正十年(1582年)   本能寺の変

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 ※「ブラタモリ」甲賀・信楽より



 


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