第44回 信康行列 2015年 

カテゴリー │遠州鎧仁會

 
 「第44回 天竜産業観光まつり 信康行列と大パレード」

     
 3日(祝・火)、浜松市天竜区二俣にて第44回天竜産業観光まつり・信康行列に参加。
まずは、このまつりのメインを飾る信康行列の為に選ばれた地元高校生7人と、中学生30人の着付けを担当。
その後、家康公の長男でありながら悲運の死を余儀なくされた信康公の供養へと清瀧寺へ向かう。
そしてメイン通りへと向かい出番を待つのだが・・・。

 今年は毎年の隊列を変更させて頂き、行列参加の子供たち(鉄砲隊、槍隊、若武者隊)にちょっとしたアクションを指南。
通りの中央ポイントでこれを行列見物のお客さんに披露する。 ウケるのである(笑)

 やっぱりね。馬に乗らない子供たちも何かやらないとね!
それに、このまつり。本当に年々人が増えてるのである。今年は1万5千人ですって。
こうなると子供たちもお客さんも楽しい。 
 それに、やはり私としては「信康公」の事をもっと知ってほしいのである。
来年もやります! 少しづつ、魅せる行列を作って行きたいと思います。

 最後に、天竜産業観光まつり実行委員会及び関係者の皆々様。
いつもお世話になりありがとうございました。また来年も宜しくお願いいたします。


第44回 信康行列  2015年 

第44回 信康行列  2015年 
 松平信康(まつだいら のぶやす) / 徳川信康(とくがわ のぶやす)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。
母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。


第44回 信康行列  2015年 

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第44回 信康行列  2015年 
信康廟

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第44回 信康行列  2015年 

第44回 信康行列  2015年 
左から、吉良於初、大久保忠世、中根正照、青木吉継の供養塔

 中根、青木は徳川家康に仕え二俣城を守っていた。 元亀3年(1572年)武田軍に城を囲まれても防いでいたが、 水を断たれ城を明け渡した。 元亀3年12月22日、三方ヶ原の戦いにて2人とも討死。
 大久保忠世は忠員の嫡男で、松平広忠から仕え数々の合戦において活躍する。 二俣城主の時に松平信康が二俣城にて切腹。
信康を死なせてしまった事を悔い、 小田原城主となった時に城下に寺を建て信康を供養した。 病没した日が信康の命日であった。
 吉良於初は松平信康の家臣で、天正7年(1579年)9月15日、信康に殉じて切腹した。


第44回 信康行列  2015年 

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第44回 信康行列  2015年 
 永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。

 永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。

 信康は若い頃から勇猛果敢で、天正元年(1573年)に初陣する。
天正5年、家康は武田方の諏訪原城(榛原郡金谷町)を攻略し、ついで小山城(同郡吉田町)を攻めた。
すると勝頼は後詰(援軍)として押寄せ、家康軍を包囲しようとした。そこで家康は、囲みを解いて退却した。
井籠崎(同郡の内)までは、敵を前にしていたので、信康は無言で退いたが、ここからは敵を背後にしなければならない。
信康は、嫡男としての務め、殿軍をと主張した。
家康は、信康の申し出をはねつけたが、何度も言うので承諾した。
信康の奮戦により、武田軍は大井川を渡る事が出来ず撤退した。
この話は、信康の勇猛と親孝行の事実を物語るものとしてよく知られている。

 信康が武勇に優れていたという話は他にもある。
長篠敗戦後、勝頼は家人に戦場での信康の指揮の巧みなさまを述べ成長ののちには思いやられると語ったと伝えられている。
この話は、「東照宮御実紀」(巻二)という徳川家の正史に載っている話であり、又、長篠で若い信康に軍隊の指揮権がどの程度発揮出来たのか疑問であるが、少なくとも信康が武勇に優れた若殿であったという伝承があったのではないか。

 「三河物語」は、信康についてこうもいっている。信康ほどの立派な若殿は、またと出てこないであろう。
昼夜共に武辺の家来を側に置いて、武辺の雑談ばかりで、その他には馬と鷹が話題にのぼった。
 この本の著者大久保忠教は、信康を武勇に優れた若殿であったと記している。





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