日置流 と 家康

カテゴリー │遠州鎧仁會おとなの弓日/流派弓術の継承


 「日置流 と 家康」


 「歴史的文化的背景」

 天正3年(1575)、武田信玄の後を継いだ勝頼は1万5千の兵で長篠城(鳳来町)を囲み攻撃、長篠城主奥平貞昌、5百の兵でこれを防ぎ、鳥居強右衛門の働きによって駆けつけた援軍織田信長(3万8千)、徳川家康(8千)連合軍が設楽原で合戦。武田軍1万の戦死者を出し敗北、この戦によって武田氏は没落し、織田、徳川の勢力は絶対的なものとなる。 関ヶ原、小牧長久手の戦いと共に、その後の日本の歴史を変えてゆく事になる長篠の戦いである。
 現在、お祭り弓の残る地域(豊川、額田、鳳来、作手、足助、遠州)と、長篠の合戦当時における徳川家康の勢力圏とほぼ重ねあわせる事ができる。
しかし、戦後市街化された地域に於いては、祭りそのものの変貌衰退と同時にお祭り弓も衰退したと考えられる。


 古くからこの地域では、「三河の張り弓」(弓の弦を張ったまま、いつでも引くことのできる状態で持ち歩くことが許可された地方)、「遠州の裸弓」(弦は張ることはできないが、弓を裸のまま持ち歩くことが許可された)、「駿州の袋弓」(袋に入れてなら弓を持ち歩くことが出来る)と言われ、徳川家康の時代から、この地方では百姓が弓を引くことや、張った弓を持ち歩くことが許された領地として知られている。
 現在も家康の幼名である元康の名で「弓の事」という書状が、各地の弓術の師匠に残されている。
それによると武士だけではなく、農、工、商に関わらず弓を引くことが許可され、又いったん有事の際には、戦の加勢に駆けつけるように、とも記されている。
 三河百矢場と呼ばれてきたように、弓の師匠を各地の神社を中心に任命し、代々継承することで有事のために備えたのであろう。
家臣による正規軍に対し百姓、町人が予備軍的な役割を担っていた。
お祭り弓に参加する弓士も、普通には「弓引き」と呼ばれている。

※弓祭り 神事における「お祭り弓」の考察より



「弓之事」
今度依忠節駿遠三之内ハ
不論農工商諸士同様に免畢若変儀之砌ハ中山手寄招連
加勢不致者也
蔵人元康 (花押)
永禄三年六月七日 
中山庄 天野与惣 鈴木右門三


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