見付の御清水と勝軍地蔵尊像

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 「見付の御清水と勝軍地蔵尊像」

 見付宿は磐田市見付。東海道の宿場として江戸時代にはにぎわいをみせたところ。
その見付に徳川家康ゆかりの池泉があり、それを「御清水」と呼んできており、今もその池泉が残っている。
江戸の昔、見付宿に安間を姓とする名流と上村姓を名乗っていた町人がいた。
安間家は当主が代々平次弥を称し、上村家は清兵衛を襲名していた。
両家共に伝承を持つ家柄であるが、御清水にからむ話は安間家に伝わるものである。
 徳川家康は室町時代の末期の永禄・元亀・天正にかけての十七年にわたって浜松城に在住していたがこの間、たびたび見付の辺りまで出張し、安間家に泊まったり、憩ったことがあったという。
そうしたとき安間家の裏庭の池から湧き出す清水を飲んで口をうるおしたと伝えられている。
その池の水は常に湧き出ており、夏でも冷たく、どんな日照りが続いても枯れることがなかった。
家康は時のあるじ「弥平次」の名を間違えて「平次弥」と呼んだことから、以後名をそのように改めたといい、以後家康に目をかけられ東海道を往来するときには平次弥の家で休んだり、泊まったりもしたという。
そしてある時、組椀や御飯次、御膳、御盃、御盃善、御皿、御水指、御香炉、御馬面、御轡、御刀、御槍刃、さらに勝軍地蔵尊像を安間家が賜ったというのである。

 家康に目をかけられていた安間弥平次の祖先は南北朝時代に御醍醐天皇の皇子宗良親王に供奉して遠江にやってきた武士で、親王が武運つたなく世を去ってのち、安間の池(浜松安間町)に土着したとされており、平次弥はそれから十二代目の後裔にあたり、家康が浜松に入場後、家康に帰属、見付において武田勢の狼藉を鎮圧するなどの働きをしたため、見付に住居を構えることを許されたという。
以後江戸期に入って安間家は商人となり明治初年まで見付に住んでいた。土地の人たちに「お證文屋敷」と呼ばれ広大な庭をもった安間家ではあったが、明治に入って瓦解、そのあと漢方医の柴田慶斉が入ったが、大正五年(1916)に医師片桐純三氏が入り、純三氏他界後は子息の純也氏がつぎ現在医院を開業している。
 安間家時代には同家に家康より拝領したというさまざまな品物があったことが「図絵」にみえているが、安間家が見付けを去る時点で散逸してしまって見ることができない。(遠江古蹟図絵より)

今現在見ることができるのは、磐田市見付旧赤松家にある「御槍・包直」(市指定文化財)と、浜松市中区犀ヶ崖資料館(宗円堂)に安間家から伝わる「勝軍地蔵尊像」のみである。 尚、「勝軍地蔵尊像」は毎年7月15日のみ拝観可能。

 ※勝軍地蔵尊像の名称は、「德川家康公勝軍地蔵尊像御守佛一寸八分伽羅香木」


見付の御清水と勝軍地蔵尊像

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