2013年07月04日17:31
中村家住宅 なかむらけじゅうたく (浜松市西区雄踏町宇布見)
昭和48年6月2日 国指定重要文化財
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/square/intro/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html
中村家の歴史
中村家の初代中村正範は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。文明13年(1481)には、14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五か荘が与えられ、文明15年(1483)に宇布見に屋敷を構えました。16世紀の今川氏の時代には、同氏の家臣で代官を勤め、浜名湖の軍船を支配しています。
永禄11年(1568)に徳川家康が遠江に入国した時、18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を勤めました。こうした関係から天正2年(1574)2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣(後産)を埋めた胞衣塚が現存しています。
結城秀康 ゆうきひでやす
天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の有富見村(宇布見村)である。母は三河国知鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院)。
於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は宇布見村にて今川氏、ついで徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務めた源範頼の系譜である領主中村正吉の屋敷で誕生した。現存する同屋敷の敷地(建築物は江戸初期)には、家康お手植えの松が植えられた「秀康の胞衣塚」が残る。 この縁により、のちの福井藩の歴代藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
「秀康は双子で誕生した」との説があり、その相方の兄弟は永見貞愛とされている。
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中村家住宅 なかむらけじゅうたく (浜松市西区雄踏町宇布見)
昭和48年6月2日 国指定重要文化財
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/square/intro/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html
中村家の歴史
中村家の初代中村正範は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んでいました。文明13年(1481)には、14代正實が今川氏に招かれ、遠江国磐田郡大橋郷に領地を賜り、その後、敷知郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須の五か荘が与えられ、文明15年(1483)に宇布見に屋敷を構えました。16世紀の今川氏の時代には、同氏の家臣で代官を勤め、浜名湖の軍船を支配しています。
永禄11年(1568)に徳川家康が遠江に入国した時、18代正吉は船を出して迎えるなどの御用を果たし、徳川氏に仕え今切軍船兵糧奉行や代官を勤めました。こうした関係から天正2年(1574)2月8日に徳川家康の側室お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣(後産)を埋めた胞衣塚が現存しています。
結城秀康 ゆうきひでやす
天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。ただし、当時の家康の居城だった浜松城ではなく、浜松城下の有富見村(宇布見村)である。母は三河国知鯉鮒明神の社人・永見吉英の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院)。
於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は宇布見村にて今川氏、ついで徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務めた源範頼の系譜である領主中村正吉の屋敷で誕生した。現存する同屋敷の敷地(建築物は江戸初期)には、家康お手植えの松が植えられた「秀康の胞衣塚」が残る。 この縁により、のちの福井藩の歴代藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
「秀康は双子で誕生した」との説があり、その相方の兄弟は永見貞愛とされている。
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