万斛庄屋公園(まんごくしょうや)

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

おとなの弓日(きゅうじつ)
〜流派弓術の継承〜

『万斛独礼庄屋鈴木家』

 ここ(浜松市東区中郡町周辺)は、天竜川の恩恵を受けた古くからの稲作地帯で、万斛(まんごく)と呼ばれ、今でも字名(あざな)にその名称が残っています。徳川家康が遠州(遠江)地方に侵攻してきた際、米の石高である(万石)と同音であることから縁起の良い土地であるとされ、又、江戸時代には、独礼庄屋といって、藩主と直接謁見できる力のある庄屋(旧鈴木家)が代々この地を治めていました。この庄屋屋敷跡(約14,000m² /4,300坪)には、明治期に建てられた、伝統的な日本家屋の母屋、離れ屋の他、納屋、土蔵、弓道場射場、弓道場的場、祖霊社といった建物が残っており、全体で往時の豪農を忍ばせる佇まいを見せています。この庄屋屋敷跡地を建物を含め2010年に浜松市が地権者から譲り受け、現在、公園整備が行われています。この公園の名称が万斛庄屋公園です。残念ながら納屋と土蔵は老朽化による崩落の危険が増したため、2017年に撤去されました。実は…、浜松市は、万斛庄屋公園を整備するにあたり、母屋、離れ屋、弓道場は維持、改修コストがかかるとの理由で撤去し、広場にするとの方針を示しました。しかし、私たちは、地域の大切な財産であるこの建屋を「残したい、活用したい」「放課後の子どもたちや、子育てママや、高齢者の居場所として残し古き良き時代を感じさせる屋敷のたたずまいが残る公園としていきたい」という思いから「市がやらないなら、私たちで何とかするしかない」と考え、取り壊しに「待った」をお願いしました。そして私たちは自力で修正方法立案、HPを通しての寄付のお願いを含め、修正費用の調達方法を検討してきていました。しかし、何分にも多額な資金が必要であり、自力の改修、資金調達は進みませんでした。そんな私たちの想いを受け止め、2020年12月、浜松市は、「地域の歴史が残るこの土地に、古風な佇まいを残しながら、市民の憩いの場を整備し、市民協働で作り上げる公園のモデルの1つとしていきたい」という考えの下、「母屋、離れ屋、弓道場をできる限り古き良き景観を残しながら改修し、かつ、これらを活用しながら公園の利用促進と地域の活性化につながる運用をすべく、建屋の改修及び運営を実施する事業者を公募設置管理(Park-PFI)制度により募集する」事を発表しました。万斛庄屋公園(まんごくしょうや)



徳川家康と阿茶局

徳川家康も訪れた、旧鈴木家の庄屋屋敷
残そうとしている「旧鈴木家屋敷」ってどんな人が住んでたの?と思われた方も多いですよね。室町時代に初めて建設され、江戸時代には「浜松藩主に直接謁見することができた数少ない庄屋さん」のお屋敷でした。このお屋敷に家康の側室(本妻ではない奥さん)である阿茶局(あちゃのつぼね)が預けられ、家康本人が度々訪れたこともあったという言い伝えもあります。
万斛庄屋公園(まんごくしょうや)
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鈴木家の歴史、東照神得君家康公とのかかわりについての古文書

鈴木家の御由緒書き、初代(応永2年)~第21浦次氏誕生(安政6年)まで記録されている。
鈴木家の歴史、東照神得君家康公とのかかわりについての記載がある。
浜松藩主(城主)が代わるたびに鈴木家より藩に堤出されている。
阿茶局(あちゃのつぼね)についての記述が見られる。
万斛庄屋公園(まんごくしょうや)
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弓術・日置流

第23代当主鈴木浩平氏(第8代積志村村長/明治16年・1883年~昭和24年・1949年)は弓術の日置流印西派(へきりゅういんさいは)第20代家元

顕彰碑
万斛庄屋公園(まんごくしょうや)

顕彰碑の内容
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遠江弓術家系統表
これは以前、遠江の日置流について調べた時の資料である。
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◎二十世鈴木浩平(積志村万斛)とある。
ちなみに緑囲は、磐田市見付の上村清兵衛さんである。(末裔存在)
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射小屋
昭和6年建築
弓道場の弓を射る場。
床面積27.2坪(90.0㎡)
軒棟木には一本丸太が使われている。
柱は太く、天井の桟も太く、質実剛健の風がよく表れている。
射場(3人立ち)、畳の間、低い畳の間の3つに間取りされている。
帰一道場と書かれた額がある。
万斛庄屋公園(まんごくしょうや)
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垜(あづち)
昭和6年(1931年)建築 現在はきれいに改修されている
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修繕前
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NPO法人 旧鈴木家跡地活用保存会 村木 正彌さんと
※色々とお話を聞かせていただきありがとうございました。
この歴史ある場所で、徳川家康公より縁のある日置流弓術の復活が叶いますよう努力致します。
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阿茶局(雲光院)について

●生まれたのは「武田家」家臣の家
「阿茶局」(あちゃのつぼね)は1555年(天文24年)、武田家に仕えた「飯田直政」(いいだなおまさ)の娘として誕生。
そして、1574年(天正2年)「神尾忠重」(かみおただしげ)のもとに嫁ぎます。
当時、神尾忠重が仕えていたのは「武田信玄」の異母弟でありながら今川家で育った「一条信龍」(いちじょうのぶたつ)です。
神尾家は、武田家と今川家の両家に属しながら、勢力を伸ばしていったと考えられています。
阿茶局の父も、神尾忠重を通じて今川家と繋がるために、阿茶局を神尾家に嫁がせたと推測されるのです。
神尾忠重との間に「神尾守世」(かみおもりよ)、「神尾守繁」(かみおもりしげ)という2人の息子を儲けますが、夫の神尾忠重は結婚後、わずか3年で亡くなってしまいます。
そののち、25歳の頃に「徳川家康」の側室へ迎えられ、同じ時期に長男の神尾守世が、徳川家康の三男「長丸」(ちょうまる)のちの「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の小姓(こしょう:武将など身分の高い人のそばに仕え、身辺の世話をした少年)に召し抱えられていることから、阿茶局が早くから徳川家康の信頼を得ていたことが窺えます。


●徳川家康のために果たした阿茶局の様々な役割
阿茶局が側室になったとき、徳川家康の正室であった「築山殿」(つきやまどの)は、すでに亡くなっています。1586年(天正14年)、「豊臣秀吉」の妹「旭姫」(あさひひめ)が、新たに徳川家康の正室となりましたが、これは豊臣側から持ち掛けられた政略結婚でした。
側室の何よりの務めは、世継ぎとなる子どもを生むことです。
徳川家康には数多くの側室がいましたが、特に阿茶局は徳川家康に重用されていました。徳川家康との間に子どもを授からなかった阿茶局が、徳川家康から特別な待遇を受けていたのは、その能力が抜きんでていたからに他なりません。
そんな阿茶局が担っていた役割のひとつには、徳川家康が着用する装束の手配がありました。戦乱の世において、他国の使者や代表に会うことは、政治的駆け引きや交渉に直結する非常に重要な場面。そのときに身に付ける装束によって、相手をどのように見なしているかを示していたのです。
徳川家康の考えや相手との政治的な関係を読み、それに最も合った装束を選ぶことができる阿茶局は、徳川家康にとって、なくてはならない存在でした。
また、阿茶局は「小牧・長久手の戦い」に参陣する徳川家康に同行しています。
そんな阿茶局が得意としていたことが、敵対していた武将との間を取り持つ仲裁役。そのなかでも、阿茶局にとって最大のできごとになったのが、1614年(慶長19年)、徳川軍と豊臣軍が対峙した「大坂冬の陣」での講和交渉です。
同合戦では、両軍共に早くから和睦を模索しており、このとき豊臣方で交渉を主導していたのは、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の母「淀殿」(よどどの)でした。そこで徳川家康は、女性同士で話すことが得策であると考え、大坂の陣所に阿茶局を呼び寄せ、徳川秀忠や「本多正信」(ほんだまさのぶ)らと共に協議の場を設けます。
その結果、阿茶局は交渉相手として淀殿の妹「常高院」(じょうこういん)通称「初」(はつ)に白羽の矢を立て、戦火のなかにある「大坂城」(現在の大阪城)に駕籠で乗り込み、常高院に和議のため豊臣側の代表となるように説得したのです。
このような経緯を経て、豊臣側は常高院と淀殿付きの「大蔵卿局」(おおくらきょうのつぼね)、徳川側は本多正信の嫡男「本多正純」(ほんだまさずみ)と阿茶局が会談に臨みます。
この会見で徳川側は、豊臣秀頼の身の保障、及び淀殿を人質としない代わりに、大蔵卿局の息子「大野治長」(おおのはるなが)と「織田有楽斎/織田長益」(おだうらくさい/おだながます)を人質とすること、大坂城の二の丸、三の丸を破壊し、城の惣堀を埋めるという条件を提示。
これにより、大野治長と織田有楽斎が豊臣秀頼と淀殿を説得し、翌日の会見で講和が成立しました。阿茶局の和平交渉が実を結んだのです。


●徳川秀忠にも重用された阿茶局
徳川家康の世継ぎである徳川秀忠の母は、徳川家康の側室のひとり「西郷局」(さいごうのつぼね)。しかし、西郷局は38歳で亡くなり、このとき徳川秀忠はまだ10歳でした。その小姓として仕えていたのが、阿茶局の長男・神尾守世です。そのような繋がりで、徳川秀忠の養育にあたったのが阿茶局でした。
徳川秀忠は、1605年(慶長10年)に将軍職を継ぎますが、実権は徳川家康の手にある状況。そこで徳川秀忠は、阿茶局に徳川家康との間を仲介して貰っていたのです。
そのことが窺えるのが、徳川家康が好んだ鷹狩りにまつわる逸話。
徳川家康は、鷹狩りのために原野の一部を禁猟区に定め、徳川秀忠に保護させていました。
ところがその禁猟区に罠が張り巡らされていることを徳川家康が知り、激怒したのです。
しかしこれは、徳川秀忠の2人の家臣が無断で許可していたことでした。
驚いた徳川秀忠は、阿茶局に取りなすように頼んだのですが、徳川家康は良い返事をしません。次に徳川秀忠は、本多正信に仲裁を依頼します。
そこで本多正信は、徳川秀忠が徳川家康のことを思い、怒りのあまり2人の家臣を斬罪に処そうとしていること、このような微罪でも厳罰に処せられるのであれば、年を取った自分は何をするか分からないと伝えたのです。
徳川家康は阿茶局をすぐに呼び出し、2人の家臣を殺してはならないことを告げました。徳川秀忠はそれを聞き大いに喜びました。
1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなると、阿茶局は徳川家康から賜った黄金2,000枚(2,000両)で「雲光院」(うんこういん)と称する寺院を創建。自分自身も剃髪して仏門に入ろうとします。
しかし徳川家康の遺言では、剃髪することなく自分の死後も徳川秀忠を助けるように命じていました。そこで阿茶局は在家のまま「雲光院」(うんこういん)と号するようになったのです。
1632年(寛永9年)に徳川秀忠が逝去すると、雲光院は正式に剃髪します。そして雲光院はそれまでの功績から、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)からも手厚い処遇を受け、また諸大名からも多くの献上品を受けて、豊かな晩年を過ごしたと伝えられているのです。


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