1867年(慶応3年)年、260年余り続いた徳川幕府は、大政奉還により終焉。諸藩は旧幕府軍と新政府軍の東西に二分、戊辰戦争が起きる。越後長岡藩の家老、河井継之助は両軍に属さない武装中立を目指すが、時勢が許さず残念。徳川譜代として新政府軍を迎え撃つ決断を下し、最後の戦いに臨む。
『常在戦場』
常在戦場とは、、。
意味は「常に戦場にいるような心持ちでいること」
「常在戦場」の読み方は「じょうざいせんじょう」。
「常に戦場にいるような心持ちでいること」を説いた四字熟語だ。戦場は生きるか死ぬかの過酷な場所で、一瞬たりとも気を緩めることはできないことから、常に戦場にいるかのような緊張感を持って物事に取り組むことの大切さを表現している。
由来は江戸時代のある一族の家風
「常在戦場」は、牧野家という戦国時代から江戸時代に活躍した一族が家風としていた言葉。牧野家は、三河国牛久保城(みかわこくうしくぼじょう)という、現在の愛知県豊川市牛久保町に存在した城の城主だった。この場所は、交通の要所となっており、西から東、北方と各方面から敵の勢力の脅威にさらされる場所にある。そうした環境から、平常時であっても気を緩めずに戦場にいるかのような心持ちで物事に取り組むことを「常在戦場」と表したと言われている。
牧野家は江戸時代に長岡藩(現新潟県長岡市)の藩主となり、「常在戦場」を藩風・藩訓として掲げた。その後、幕末の北越戊辰戦争時に、長岡藩を指揮していた河井継之助や、連合艦隊総司令長官であった山本五十六が積極的に使用したことから全国へと広まっていく。
『常在館とは』
牛久保八幡社矢場元・故山本良輔日置流雪荷派師範(2021年没)が命名した。三河日置流雪荷派の矢場(道場)のことである。
『長岡藩主・牧野家』
牧野の祖は、第八代孝元天皇のひ孫武内宿禰(たけうちのくすね)の第四子平群木菟宿禰(へぐりのづくのすくね)である。
初めは田口姓を称し、その祖は阿波民部少輔田口重能(あわのみんぷしょうゆうしげよし)とされる。
重能(しげよし)は阿波国の豪族として大きな勢力を持ち、源平合戦時には平家方に着いたが、やがて源氏に味方し後に讃岐国に移り住んだとされる。
その後、応永年間(1934〜1428年)に四代将軍足利義持の命により讃岐国から三河宝飯郡牧野村(現在の豊川市牧野町)に移住して牧野姓を名乗り牧野城を築いた。
戦国動乱期の東三河において勢力を持った牧野一族は、今川氏・松平氏(後の徳川氏)のはざまにあって牧野城・瀬木城・今橋城(後の吉田城)・牛久保城などを築きながら勢力を広げて戦国の世をしぶとく生き残った一族である。この時代に養われた『常在戦場』の精神は後の長岡藩の藩訓となっている。
初代長岡藩主忠成(ただなり)の祖父・成定(なりさだ)の代に徳川家康家臣・酒井忠次(ただつぐ)配下の東三河国衆として徳川軍に所属し、そのまま家康の関東移封に随従して天正18年(1590年)群馬県前橋市東部となる上野国大胡藩2万石の藩主、元和2年(1616年)越後長峰藩5万石藩主を経て元和4年(1618年)越後国長岡に入封した。
牧野忠成を初代と数え、十二代忠訓(ただくに)まで移封される事無く譜代大名長岡藩牧野家は続いた。
その間幕府の最高職である老中を、九代忠精(ただきよ)、十代忠雅(ただまさ)、十一代忠恭(ただゆき)と三代続けて輩出している。