平成29年 第52回長篠合戦のぼりまつり

oniyanma

2017年05月06日 11:38

 「平成29年 第52回長篠合戦のぼりまつり」


 昨日は、愛知県新城市にて開催された、第52回長篠合戦のぼりまつりに参加。
大変よく晴れ、唸るほどの暑さの中であったが、参加者全員怪我や事故もなく無事お役目を果たすことができました。

 また、私は今回はじめてまつり終了後まで会場にいることとなりましたが、地元の小学生が、まつり終了後にゴミ袋を片手に、皆で会場や近隣のゴミ拾いをしている姿がとても印象的でありました。
あの暑い中、多くの来場者を迎えた一日を締めくくるとても大切な作業であると思います。頭が下がります。
本当にご苦労様でした。

 長篠合戦のぼりまつり関係者様、スタッフの皆様。地元でこのお祭りを支えて下さる皆様方。
お世話になりました。また来年宜しくお願いいたします。



 遠州鎧仁會は、日置流雪荷派・具足弓演武と日本前装銃射撃連盟・火縄銃演武に参加いたしました。

「日置流(へきりゅう)」

 弓術の代表的流派の一つ。
戦国時代の明応年間 (1492~1501) 、弓道中興の祖といわれる日置弾正正次 (へきだんじょうまさつぐ) が創始したもので、歩射による技法を中心にして旧来の実戦的弓道にさらに技術研究を加え革新した。
この流派からは、吉田派、雪荷派、道雪派、印西派、竹林派などが分派した。



神事における「お祭り弓」の考察より

コチラ⇒ http://www5b.biglobe.ne.jp/~fes/report.htm

2、歴史的文化的背景

 天正3年(1575)、武田信玄の後を継いだ勝頼は1万5千の兵で長篠城(鳳来町)を囲み攻撃、長篠城主奥平貞昌、5百の兵でこれを防ぎ、鳥居強右衛門の働きによって駆けつけた援軍織田信長(3万8千)、徳川家康(8千)連合軍が設楽原で合戦。武田軍1万の戦死者を出し敗北、この戦によって武田氏は没落し、織田、徳川の勢力は絶対的なものとなる。
 関ヶ原、小牧長久手の戦いと共に、その後の日本の歴史を変えてゆく事になる長篠の戦いである。
現在、お祭り弓の残る地域(豊川、額田、鳳来、作手、足助、遠州)と、長篠の合戦当時における徳川家康の勢力圏とほぼ重ねあわせる事ができる。
しかし、戦後市街化された地域に於いては、祭りそのものの変貌衰退と同時にお祭り弓も衰退したと考えられる。

 古くからこの地域では、「三河の張り弓」(弓の弦を張ったまま、いつでも引くことのできる状態で持ち歩くことが許可された地方)、「遠州の裸弓」(弦は張ることはできないが、弓を裸のまま持ち歩くことが許可された)、「尾張の袋弓」(袋に入れてなら弓を持ち歩くことが出来る)と言われ、徳川家康の時代から、この地方では百姓が弓を引くことや、張った弓を持ち歩くことが許された領地として知られている。
 現在も家康の幼名である元康の名で「弓の事」という書状が、各地の弓術の師匠に残されている。
それによると武士だけではなく、農、工、商に関わらず弓を引くことが許可され、又いったん有事の際には、戦の加勢に駆けつけるように、とも記されている。
三河百矢場と呼ばれてきたように、弓の師匠を各地の神社を中心に任命し、代々継承することで有事のために備えたのであろう。

 家臣による正規軍に対し百姓、町人が予備軍的な役割を担っていた。
お祭り弓に参加する弓士も、普通には「弓引き」と呼ばれている。
武士ではなく百姓町人である事と、「弓引き」と俗っぽく呼ばれていることは深く関係するようである。
この地域の矢場では、お祭り弓とほぼ同じ形式にそった射会が月例射会などで行われている。
お祭り弓を継承、保存する上で有効に機能している。
現在でも全日本弓道連盟の段、級に関わることなく、矢場を活動の中心におくものが多くいる。




































































































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