「光明寺」 浜松市天竜区

oniyanma

2015年03月29日 00:02

 「光明寺」 浜松市天竜区

 本日は、先日友人との間で話題の一つとなった浜松市天竜区の光明寺に行ってきた。
行く理由は、ここの日本一大きいとされる一本杉からなる開運出世光明大黒真天様や家康公兜入摩利支天様へのご挨拶の他、住職さんにお会いし是非とも聞いてみたいことがあったのだ。

 住職様 本日はお忙しい中、貴重なご意見をお聞かせくださりありがとうございました。



◆光明寺 
 寺伝によると、奈良時代の養老元年(717)3月、僧行基により開創されたといわれています。
本尊は行基作とされる三満虚空蔵菩薩・摩利支真天・観世音菩薩で、高さ2.3メートルほどの一本杉で造られた国内最大級で金色に輝く大黒天像も開運福授の神さまとして有名です。
かつては、鏡山(光明山遺跡ほか)にありましたが、昭和6年(1931)4月9日の大伽藍焼失により、同14年、現在の地に移転しました。
光明山は標高540メートル、秋葉山とともに古代から山岳霊場として知られ、秋葉の“火”の神に対して、光明の“水”の神としての信仰を集めていました。
近世から昭和初期まで多くの人々に信仰され、参詣人が絶えなかったと語られています。寺の概略事歴については「史跡・遺跡・(光明山遺跡)」に記されています。
また、奥の院には、困難を避け、退ける神として知られる摩利支天が祀られています。


◆摩利支天
 仏教の守護神である天部の一柱。日天の眷属である。
原語のMariciは、太陽や月の光線を意味する。摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化したものである。
摩利支天の原形となった尊格は、おそらく古代インドのヴェーダ神話に登場する暁の女神ウシャスであろう。
陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。
これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。


◆光明寺と家康公兜入摩利支天
 当時の住職が、武田軍との争いにおいて家康公に戦いの手助けをした。
その後家康公は、出陣の際自らの兜の内に入れて守神とした戦いの神である摩利支天像を光明山奥之院に合祀するように命じたという。
毛利元就、山本勘助、前田利家、楠木正成などの戦国武将も軍神として摩利支天を信仰していたという。






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