浜松 五社神社 諏訪神社

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 「五社神社・諏訪神社」


 =まえがき=

 「お江戸見たくば五社・諏訪ごろじ、お江戸まさりの五社や諏訪」

 これは、江戸時代に浜松周辺でうたわれた俚謡(りよう・一地方の民間でうたわれたはやりうた)である「ごろじ」はご覧なさいという意味、「江戸の華やかなさまを見たければ浜松の五社や諏訪神社をご覧なさい、この社殿の華麗さは江戸の建物にも勝るものだよ」という意味である。

 五社神社と諏訪神社の歴史は大変古いが、歴史の上ではっきりしてくるのは徳川家康の時代になってからである。家康は五社神社と諏訪神社を浜松で生まれた三男・秀忠の産土神(うぶすながみ)として崇敬し、社殿を造営している。

二代将軍の秀忠・三代将軍の家光もこの両社を崇敬、とくに家光は現在地に五社・諏訪の両神社の造営を命じ、ともに寛永18年(1641)年11月に完成させた。この時の社殿の華麗さが謡となったのである。

 このうち、五社神社の社殿は江戸初期の代表的な神社建築として大正3年(1914)に国宝に指定され、諏訪神社も昭和13年(1938)に、江戸初期の代表的建築として国宝になった。そして、両社とも修理工車が完成、家光が造営した当時の華麗な社殿が市民の前にその姿を現した。しかし、昭和20年(1945年)6月18日に第二次世界大戦の戦災(浜松空襲)により全焼した。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 浜松城絵図 上部=浜松城  下部=五社神社・諏訪神社



① 「五社神社の創建と常寒山への遷座」

 五社神社の創建年代は不明であるが、徳川家康が浜松に来る以前からあったようで、遠江の国主・久野佐渡守の末子越中守が引間(ひくま)城内に建立したと伝えられている。
『浜松宿古来書留』によれば、久野越中守は16世紀初めごろの人とされているが、これが正しいとすればおよそ今から500年余り昔のことになる。徳川家康が引間城に移ったのは元亀元年(1570)、このころからそれまでの城は南西部に向かって拡張され浜松城と呼ばれるようになった。

 天正7年(1579)4月7日、浜松城内で家康の三男に当たる徳川秀忠(後の二代将軍)が誕生すると、五社神社は秀忠の産土神(うぶすながみ)となった。家康の崇敬は厚く、社殿の新築の話も出たが敷地が城内にあり狭いことが難題であった。当時、家康は武田勝頼との戦いに明け暮れており、天正7年と同9年には城をより強固なものにするための修築が行われた。

 このようなこともあってか、天正8年(1580)7月7日五社神社は浜松城内から現在地に遷座(せんざ・神や仏のおられる場所を移すこと)された。このとき、同じく城内にあった金山神社や法雲寺も移転したという。今の五社神社のある一帯は常寒山(とこさむやま)といわれていた。江戸時代に書かれた「曳馬拾遺」には「…きわめて風のはやい所で、夏の日もしばらく休めば大変寒くなる・・・」とその地名の由来が出ている。東方の眼下には東海道の繁華街である伝馬や連尺の家並みがひろがる絶好の位置に移ったのである。

 浜松城内にあった五社神社の跡地には記念として松の樹を植え、後にこれを「五杜松」と呼ぶようになった。五杜松は幕末の城の絵図にも記されているので、昔の五社神社の位置がこれで分かる。現在の位置でいうと浜松市立元城小学校の南校舎・プール付近にあたるようだ。徳川家康が建てた五社神社についてはよく分からないが、当時の神領(しんりょう・神社の領地のこと、神事や社殿の造営、神職の給与などのためにあてるためのもの)は15石であった。

 秀忠が二代将軍になったのは慶長10年(1605)、その5年後には85石を加増して100石の神領となり、神社の経済的基盤が確立した。秀忠は豊臣家討伐のための大坂の陣への出陣の際、五社神社に参拝、神主を召し出して戦勝の祈願を仰せ付けけた。そして、願いごとがかなうとまた五社神社に参拝、このとき社殿の建立を時の浜松城主に仰せ付けたのであった。


浜松 五社神社 諏訪神社

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 遠州浜松城絵図より  左丸囲い=五社松  右四角囲い=引間城祉



②「秀忠の造営と家光の豪華な社殿の建造」

 秀忠の仰せ付けによって造られた五社神社の様子は詳しくは分からない。ただ、この時の棟札が戦前まで2枚残っており、(戦災で焼失)記録されていたので、神社名・願主・奉行・・神主・大工・小工・建築の年代などが分かる。棟札の裏面からは願いごとや工事の担当者も分かる。

 神社名は、五社大明神宮(ごしゃだいみょうじんぐう)、願主(がんしゅ・神社や寺院の建立を願い出た人)は二代将軍の徳川秀忠、建築は元和(げんな)元年(1615)霜月(11月)。元和元年は5月に豊臣家が滅亡し、徳川の天下が確定しはじめたころで、「天長地久」(世の中がいっまでも変わらないように)、「国土安穏」(国がやずらかでおだやかに)、「息災延命」(災いを取り去り、命をのばす)、「武運長久」(武士としての運が長くつづくように)などの願いを込めて建立したことが分かる。

 標札からは、楼門(2階づくりの門)、地蔵堂、揮殿、天満宮、御供所、稲荷宮と鳥居が造られたことが分かる。大工や小工(大工より下の位で営作に従事した人)の名前や生国まで出ている。寛永11年(1634)は家光が将軍になってから12年目、この前後はキリシタンの取請りを厳重にし、鎖国への動き、武家諸法度の強化など外様大名に対する締めつけなどいわゆる武断政治が続いていた。同年7月家光は上洛の途次、浜松の五社神社に参拝、神領200石を加増して300石とした。そして当時の浜松城主に社殿の建造を仰せ付けたのであった。

 秀忠が造営してから僅か20年、今度は三代将軍の徳川家光が大壇主(だいだんしゅ・壇主は施主)となって五社神社の建造を命じたのである。時の浜松城主は高力忠房、後に松平乗寿は家康に仕えた優秀な技術者を総動員してこの建築に当たらせたのである。秀忠の時にはなかった鐘楼・鼓楼・唐門なども造営、完成は寛永18年(1641)11月であった。

 では秀忠時代の建物と家光が造営した建物との関係はどうだろうか。前のものをすべて取り壊して建て直したのか、基本はそのままで、彫刻や絵画などを付け加えたものなのか、これらは資料不足でよく分からない。昭和の大修理を担当された吉岡勇蔵はその著「浜松五社神社御由緒並に建築に就て」のなかで、個人的見解とことわってはいるが、「本殿は以前の建物を使いつつ豪華に大改修したものではないか」と記している。


浜松 五社神社 諏訪神社

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 秀忠が建てた時の棟札 
    「五社大明神宮 御願主征夷大将軍源朝臣秀忠公」とある




 ③「日光につぐ豪華な五社神社の社殿」

 徳川家光が建てた五社神社は権現造り、ご神体を祭る本殿と人々が参拝する拝殿との中開に幣殿[参拝の人が幣帛(へいはく・神様に奉献するもの)をささげる社殿]を建て連ねた建築様式、桃山時代に生まれたもので神仏混餚藩時代の寺院建築を加味した社殿である。
 この形式で現存する最古のものは伊達政宗が仙台に建てた大崎八幡宮と豊臣秀頼が京都に建てた北野天満宮でいずれも慶長12年(1607)に完成している。

 近くは久能山東照宮、最も有名なものは日光の東照宮である。いずれも豪華絢爛、桃山文化の流れをくむ江戸初期の文化を代表する建築の一つである。五杜神社もこれらの社殿とほぼ同様な建て方である。拝殿は桁行五間梁行(奥行)三間、周囲に縁を廻らせ正面に一間の固辞(ごはい・社殿の正面玄関の上に張り出したひさしの部分)、これは唐破風構え、その上に千鳥破風がつき豪華な構えとなっている。幣殿は間口一間、奥行四間、本殿は桁行五間、奥行四間で入母屋の屋根を持っている。

 吉岡勇蔵によれば、建築においては奈良や平安期のような雄大さ、優美さには欠けるが江戸中期以降のものに比べるとはるかに優れていて、さすがに国宝の貫録があり、特に唐破風は優秀で、京都以東においては傑作であるという。五社神社の最大傑作は建物に付随する彫刻、これは桃山時代の様式であり、国宝中の国宝ともいうべきものである。吉岡勇蔵は多くの国宝社殿を修理されてきたが、五社神社の彫刻は桃山盛時の意気が表れていると述べ、「私のみでなく、これを見た専門家は皆この優秀な桃山気風の名作には驚いて絶賛している・・・」と記している。

 そのうち、特に本殿正面の蟇股(かえるまた)の鳳凰、拝殿内部正面の欄間の鳳凰や拝殿脇障子の獅子は敬神の一念を以て謹作し奉ったものとしている。装飾絵画、飾金具、また彩色なども彫刻に劣らず立派なものである。吉岡は「・・・内外下方漆塗上方極彩色にて金色鋳金具装打、即ち荘厳の限りを極めたる天下普請である」とその著書に記しているが、さらに続けてその詳細を書かれている。
そして、「・・・正に美術の精華にして絢爛目を敲ふ偉観言語に絶するものである。一目にして幕府の権勢に驚かざるを得ない。が、更に感ずることは敬神の一念で出来たものである・・・」とし、「・・・寛永頃日光に次ぐ偉観であったことと思ふ」と結んでいる。まさに「・・・お江戸まさりの五社・・・」であったのである。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 現在の日光東照宮



 ④「諏訪信仰と諏訪神社」

 「岩水寺の洞窟の先は諏訪湖に通じている」「佐鳴湖と諏訪神社の池はつながっている」などという伝説が遠州各地にある。
また一方、「諏訪大社の下社秋宮の千尋砲の底は浜松の近くの海(佐鳴湖のことらしい)に続くといわれている」など信州側にも同様な言い伝えがある。これらは諏訪湖抜穴伝説と呼ばれている。

 これらの洞窟や池は竜蛇の伝説をもっているが、竜蛇は水(雨乞いや灌漑)を支配できる神として信仰されている。諏訪の神様はもともとは竜神だったという。農耕、特に米作における水はまさに神であり、この水の源が諏訪湖にあることから下流の人々はこの神を信仰するようになったのであろう。

 天竜川流域にはもう一つ、諏訪神社の神札や神木、さらにはご神体が漂着したという言い伝えがある。
浜松では、享徳3年(1454)に信州諏訪明神の神木(神札、ご神体という説もある)が中島村(今の中島町)に漂着したのを奉祀したのが諏訪神社の起こりとされている(諏訪神社の古文書には、延麿10年(791)坂上田村麻呂が東征のおりに中島に建立したとも書かれている)。
昔の天竜川は今の馬込川筋を流れていたこともありここに漂着するのは考えられることである。

 ここに社殿を建てたのは大祝(おおはふり)の前田信利であった。その後、弘治2年(1556)、信利の女婿・杉浦信定の時に神託(神のお告げ)によって浜松の伝馬に移された。神官の杉浦氏の邸宅はその北隣であった。中島は天竜川の洪水を受けやすく、これを避けての移転であったかも知れない。普済寺ももとは天竜川沿岸の寺島にあったが洪水から逃れるために現在地に移転したといわれている。
当時は先述のように水神として、天竜川の水利にあずかりまた、水難から免れたいという庶民の願いから諏訪神社を奉祀していたのであろう。中島の諏訪神社の跡地には六本の松が構えられた。今も馬込川はこのすぐ西を流れている。

 ところで、前田と杉浦の関係については諸説があってよく分からない。一説には、杉浦は三河の出身で家康の先祖にあたる松平家へ奉公していたともいわれ、この杉浦家の杉浦信定が浜松に来て、諏訪神社の大祝(おおはふり)となり、家康に仕えるようになったといわれている。杉浦信定のあとを継いだ杉浦家直も浜松で徳I川家康に仕えたのである。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 現在の諏訪大社

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 諏訪大社の朱印



 ⑤「徳川家康・秀忠・家光と諏訪神社」

 信濃の諏訪神社は坂上田村麻呂、源頼朝、武田信玄などの武将の信仰が厚く、軍神としてその名を知られていた。徳川家康も例外ではなく、諏訪神社(上社本宮)へ神門を寄進するなど崇敬の念が厚かった。徳川家康は浜松の諏訪神社への崇敬も厚く、三方ヶ原の戦いの前年(杉浦家直のとき)には20石の神領を与え、天正7年(1579)に三男の秀忠が浜松城内で誕生すると五社と並んで浜松の諏訪神社も産土神とし、社殿の造営を命じ、7月6日に遷座している。その後、町中にあったこの神社は火災にあって焼失した。

 慶長15年(1610)には二代将軍秀忠から五社神社と同じ100石の神領を与えられた。そして翌年には徳川家からの手当金などで社殿の造営が行われた。・慶長19年(1614)秀忠は豊臣家討伐のため大坂へ出陣するが、この時伝馬の諏訪神社へも参拝し戦勝を祈顕した。翌、元和元年(1615)、大坂からの掃透にも諏訪神社に参拝、大願成就を感謝、改めて東海道の道路沿いから西方の杉山に社殿を造営して、ここに諏誘神社を奉遷した。

 今の浜松復興記念館の位置である。その南の五社公園にあたる所に神官の杉浦家直の邸宅も修復された。この元和元年の諏訪神社造営時の棟札が戦前まで残っていた。それによると、願主は徳川秀忠、神社名は諏訪大明神宮となっている。興味深いことは願いごとや大工・小工の主な人物、日付などが五社神社のそれと同じであることだ。つまり、同時に五社神社(常寒山)と諏訪神社(杉山)が道を隔てて建設されたのである。この社殿造営について「諏訪神社御由緒書には「・・・本社末社残らず建立され、家直の屋敷もご普請がすみ、11月26日には遷宮料として白銀100枚、御紋付神宝、御装束・諸道具品々をご寄付になられた」と記され、また「家直はじめ神官に多くのお金を賜った」と記されている。

 これに対し、杉浦家直は子どもの家定も連れてお礼のため江戸城まで出かけ、徳川家康にもお目見えしている。
さらに、秀忠の四十二歳の厄年の前厄の安全祈祷、家光が三代将軍になると御代替のお礼、幕府からの四季の祭事こ関する指示(例えば正月3日の大般若、5月27日の御神楽、9月27日の流鏑馬など)、秀忠の病気平癒祈念など諏訪神社は徳川将軍家と深い関係にあった。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 修理後の諏訪神社 



 ⑥「家光による諏訪神社の建造とその後の五社・諏訪の修造」

 寛永11年(1634)7月2日、家光は上洛の途次、諏訪神社にご参詣、その際に社地を常寒山(五社神社の南隣)に変え、社殿の新築を仰せ付けた。また、神領も300石とした。この時に、相殿へ徳川家康と徳川秀忠を祭るように指示もあった。幕府や当時の浜松城主・高力忠勇の指揮で10万両以上の費用を使って豪華な社殿を建造、完成は寛永18年(1641)11月26日、城主は老中にもなった松平乗寿の時であった。

 五社神社の竣工も同じ日であった。棟札によれば、拝殿・山王宮・楼門・十王堂・唐門・御供所鼓楼などが出来たことがわかる。
『諏訪神社御由緒書には「・・・惣金御紋付極彩色・・・」と書かれていて、五社同様すぼらしい神社であったことが分かる。
これが昭和の時代まで続き、国宝に指定された社殿であった。

 寛文9年(1669)、諏訪神社の杉浦清良が寺社奉行に諏訪神社の修復を申し出た。その後、幕府による検分が行われ、四代将軍家網が大檀主となって工執こ着手、延宝3年(1675)5月18日に諏訪神社と五社神社の修復が完成した。家光の建造以来34年目の修復であった。その後、延宝6年(1678)、医師の渡辺家に生まれた忠成は諏訪神社の杉浦家をつぎ、わずか6歳で大祝に任命された。これが杉浦国頭(くにあきら)、後に和歌や古学を学び、「賀茂真淵」を教えるなど遠江国学の始租として広く活躍した。国頭も元禄11年(1698)に寺社奉行に社殿の修理を願い出ている。

 その後も五社・諏訪の両神社が同じ日にたびたび修復願いを出している。しかし、幕府は財政難もあってなかなか手をつけなかった。
八代将軍・吉宗の頃の享保12年(1727)ようやく五社・諏訪ともに500両両の修復金が出ることになった。しかし、この程度では足りず、諏訪神社では鐘楼、鼓楼十王堂などを取り払った。工撃は長引き、諏訪神社は元文3年(1738)年に完成、五社神社は廷享2年(1745)になって完成、それぞれ遷宮が行われた。元禄以降、時代も代わって幕府上層部には家康・秀忠・家光と五社・諏訪神社の関係を知る者が少なくなった。それゆえ、幕府はたびたび両神社へ由緒書の提出を求めているのである。由緒書の提出や将軍の代替わりへの御礼などもあって、社領継目安堵の朱印状は続けて出されていった。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 修理後の五社神社(カラー写真でないのが残念である)




⑦「江戸後期と明治・大正期の五社・諏訪神社」

 五社神社の修復が終わって20数年後の明和8年(1771)、五社神社にとって思いがけない事態が発生した。
『糀屋記録」には次のように出ている。

 「明和辛卯正月十九日夜 夜八ツ頃出火 一 五社小路心造寺 出火、寺不残焼、五社明和楼門焼る」

 五社神社北隣りの心造寺は秀忠の生母・西郷局が建てた浄土宗の寺院、1月ということで北風が強かったのであろうか。立派な五社の楼門が類焼したのである。この楼門再建のための再建願いを提出したり、再建のための勧化(かんげ・寺社の建立や修復のために人々に勧めて寄付を募ること)が行われたが、楼門の再建はとうとう出来なかった。
 毎年のように訪れる台風や特にひどかった安政1・2年(1854-55)の地震により両社とも大きな被害が出た。また、凶作によって神領からの収入も減り、神社の維持も苦しくなっていた。これによって大規模な修復は不可能となり、応急修理のみで社殿の維持に努めていたようである。
 
 明治維新の前後、諏訪神社を始め、遠州各地の神官たちは遠州報国隊を結成、勤皇・倒幕のために武力をもって立ち上がった。
諏訪神社は報国隊の結成場所ともなり、五社の社前では幕府打倒のための戦勝祈願が行われるまでになった。両社に祭られている家康はこの光景をどのように見たであろうか。皮肉な運命となったものである。

 時代は大きく変わり、明治維新を迎えることとなった。神領は上知(じょうち・土地をお上に返納すること)となり、五社神社は県社に、諏訪神社は村社となった。荒れた社殿の修復のために、小さな建物を取り壊してその費用としたこともあった。また、広大な境内はその一部を公園としたり、公的に建物が建設されるようになった。荒れてはいたものの、華麗な社殿にはかわりはなく、明治44年(1911)7月1日の市制施行時に、浜松市役所は「市制記念」のカラーの絵はがき4枚セットを作成したが、そのうちの一枚が五社神社であった。五社神社は浜松市民の誇りであった。
 大正に入って明るいニュースがあった。それは五社神社の社殿が大正3年(1914)4月17日に国の特別保護建造物に指定されたことであった。これは今でいう国宝にあたるものである。また、大正11年には浜松市の総社となった。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 五社神社のカラー絵葉書



 ⑧「破損状況と国による修理工事」

 大正末期の五社・諏訪神社の実情が大正15年(1926)発行の「浜松市史」全に出ている。
五社神社は「・・・金碧剥落巳に燦欄の美なく」。諏訪神社は「・・・屋櫓朽腐の跡巳に深く、僅に修補を施して一時の防急に応ずるに過ぎず」とあり、これまた同様なありさまであった。
 浜松市立中央図書館にある『静岡県浜松市 五社神社国宝社殿修理工事 実施精算報告書」には破損状況が「社殿の屋根柿葺は夙に保存の年限を経過し、腐朽大破し、明治以来杉皮の仮葺を施して辛して雨漏りを凌ぐの状態にありたり」 「拝殿向拝腐朽し崩壊の危機に迫れる」 「彩色は内部は比較的良く保存されたり、外部は剥落又は変色し・・・」などと詳細に書かれている。

 また、同じく『静岡県 国宝諏訪神社社殿修理工事 設計書」では、本殿は「・・・雨漏りを来さしめ腐朽は建物の年代以上に甚だしい。・・・本殿は背後に傾斜して幣殿との取合連結部離披し、拝殿は南方へ傾き・・・幣殿格天井は腐朽崩壊の危機に迫るなど建物全般に亘りて破損極度にして根本大修理の急を要する・・・」状態であった。両社とも彫刻や金具、建具、彩色、基礎、畳などについても詳細に書かれている。

 大正3年に五社神社が特別保護建造物に指定されて以来、各種の調査がされてきたが、昭和11年(1936)8月1日から社殿の修理工事が始まった。半年前には二・二六事件が起こり、軍国主義の政治が一層推し進められ、翌年には日中戦争がおこるといった状況のなかでの修理工事だった。当時、現存していたものは本殿、唐門と稲荷宮であった。

 修理は寛永18年(1641)に家光が建てた時の状態に戻すことに重きをおいたが、一つだけ変更したことがあった。それは、本殿の屋根を柿葺き(こけらふき・槍の薄い板で屋根を葺く)から鋼板葺きにしたことであった。その理由は付近でこれまで何回か発生してきた火災に備えるためであった。見えない所の基礎にはコンクリートも使用、木材は木曽や高野産の槍の良材を、彫刻は損所を繕ったり、昔のとおりに取り替えたりした。彩色もそのままに繕ったり、旧様のとおり彩色をするなど工夫を重ねた。金具や建具も旧様のように新調した。工事中は特に火気に注意し、校閲は夜警を置いて警戒にあたった。こうして昭和13年(1938)12月31日に工撃が竣工したのである。



 ⑨「修理工事の完成と戦災、戦後の両神社」

 五社神社の修理が最終段階に入った昭和13年(1938)8月26日、今度は諏訪神社の社殿が国宝に指定された。その文面には
「・・・今現存ノ建物ヲ見ル二、全体桃山風ノ形式二成り、内外共装飾頗ル豊美デアル。恐ラクハ元和年間建立ノ社殿ヲ寛永年聞移転改築シタルモノ下見ラレ、江戸初期ノ代表的建築デアル。」と書かれている。
 この諏訪神社の修理は昭和14年(1939)1月、つまり五社神社の竣工した翌月から開始された。期間は40カ月の予定、工費予想総額は9万4643円34銭であった。工事に使う物品はすべて詳細に書かれている。木材でいえば、名称・材種・長・寸法・員数・単石数、・小計・備考といった具合である。間もなく太平洋戦争となるが、工事は続行され、予定より少しのびたが昭和20年(1945)1月に竣工した。

 五社神社・諏訪神社が常寒山に並列して家光時代の豪華・絢爛たる姿に戻ったのである。しかし、この時の浜松は米軍の空襲が始まっており、神社の竣工を祝い、建物や彫刻・絵画をゆっくり見学できる雰囲気ではなくなっていた。そして運命の昭和20年6月18日、米軍による空襲はこれまでで最大の規模となり、死者は1100名を超え、全焼は16000戸にもおよんだ。いわゆる浜松大空襲であった。

 市役所・心造寺とならんで、修理が終わったばかりの五社神社・諏訪神社が全焼したのである。浜松の文化史上最大の悲劇となってしまった。これまで304年にわたって大切に守り、しかも修理が終わったばかりの国宝の建物が永遠に消え去ったのである。悔やんでも悔やみきれないことであった。
 これにより、昭和24年(1949)年10月13日、五社神社と諏訪神社の社殿の国宝指定を解除する告示が官報に掲載され、浜松の国宝は皆無となった。戦後は政教分離が徹底し、国や地方自治体の保護もなくなり、神社の再建への道のりは険しかった。しかし、関係者・氏子の懸命な努力で昭和23年(1948)に五社神社の仮殿が出来た。江戸の初期以来ほぼ同じ動きをしてきた両神社は昭和35年(1960)になって合祀され、新たに五社神社・諏訪神社となった。同年12月には前の仮殿とは比較にならないほど立派な木造入母屋造流向拝付きの優美な仮拝殿が竣工し、一応の復興を見た。つづいて、昭和38年(1963)から本殿の建設にとりかかった。

浜松 五社神社 諏訪神社

※ 五社神社・正面扉構


浜松 五社神社 諏訪神社

※ 諏訪神社・幣殿拝殿堺詳細



 ⑩「本格的な社殿の復興」

 本殿は総桧造り、吉田博吉宮司の「出来得る限り旧国宝社殿の面影を残し伝える」という方針のもと、蟇股、脇障子も昔のままに造られた。彫刻は御殿屋台の彫刻師としても知られた浜松の浦部一郎と鎌倉の斎藤高徳が腕をふるった。拝殿は昭和52年(1977)8月15日に着工、朱塗りの平安様式の入母屋で鉄筋コンクリート造り、上部は豊かでのびのびとした感じを出すべく木材を使い、欄間には旧国宝社殿にあった彫刻を再現することとした。施工は浜松の鈴木社寺工務所の鈴木忠男、彼は旧国宝社殿の修理時は吉岡勇蔵のもとで修業、日本本来の建築美を追求してきた日本でも有数の宮大工であった。
 
 仮拝殿や現存する立派な社務所も鈴木が工事を担当している。「こんな本格的な社殿の造営は一生に一度手がけられるかどうか・・・」と語る鈴木と彫刻の浦都・斎藤など多くの関係者の心のこもった仕事は五年の歳月を要した。
 こうして、昭和57年(1982)秋に本殿・拝殿の工事が完成、壮大で荘厳、また優美な社殿は日本でも有数なものとなり、全国から多くの専門家が訪れ、いずれもその出来栄えに感嘆の声をあげた。同年10月1日には遷座祭が行われた。引き続いて第二期工革として、鳥居・参道・石段・狛犬・手水舎・稲荷社・神輿庫などの建設が進められた。

 平成元年(1989)4月30日、銅器の本場・高岡市で作られたわが国最大級の青銅製の狛犬(高さ2㍍、重さlトン)一対が設置された。また、巨大な鳥居は地震対策を考えてアルミ製とし、その美しい姿が社頭を飾った。
こうして、平成4年(1992)復興工事が完成、この間の総経費は6億5000万円にのぽったが、この大事業の遂行に大きな役割を果たしたのが神社の奉賛会であった。名誉会長は徳川宗家の徳川恒孝、会長は平野富士雄(初代)、河合滋(二代)、その他浜松の多くの財界人や企業・団体・個人が会員となって浄財を寄付、また多くの物品も奉納された。

 平成5年(1993)年3月に立派な「五社神社・諏訪神社 御社殿復興工事竣工記念誌」が刊行された。この冊子には、建築の方針、社殿の設計図、工事経過や完成時の写真、彫刻遷座祭、奉幣祭・奉祝祭の写真、奉賛者御芳名など昭和・平成の社殿復興の偉業の全貌が詳細に載せられていて、後世に語り継ぐ貴重な資料となった。戦後一貫して神社の復興に尽くされた宮司・吉田博吉の名は長くその歴史に記されなければならない。

浜松 五社神社 諏訪神社

浜松 五社神社 諏訪神社

 ※ 画像2枚 現在の五社神社・諏訪神社



⑪「両社の祭神と江戸時代の石造文化財」

 五社神社はその名前のとおり、五柱の大神、太王命(ふとたまのみこと)、武薔命(たけみかずちのみこと)、裔主命(いわいぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)。を奉裔し、相殿には天皇・親王など四柱、応神天皇(おうじんてんのう)、舎人親王(とねりしんのう)、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)、徳川家康公(とくがわいえやすこう)を奉斎している。  

 諏訪神社は信州の諏訪大社と同じ三柱の大神、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、車代主命 (ことしろぬしのみこと)を奉斉し、相殿には徳川家康公を奉斉している。

 神社の境内には江戸時代の面影を残す賞重な文化財が残されていて、当時を偲ぶことができる。主なものは下記のとおりである。


 1.高力忠房寄進の手洗鉢

 高力家は家康に仕えて功績をたてた家筋、高力清長は家康の浜松入りの際は軍事・民政面で力をつくし、恩賞を受けた。
家康の関東入りにともない、岩槻の城主となった。子の正長は三方ヶ原の戦いで活躍、その子供が高力忠房(こうりきただふさ)で天正12年(1584)に浜松で生まれた。秀忠に従い、大坂の陣で活躍、父のあとをついで岩槻城主となった。元和5年(1619)生まれ故郷の浜松に戻り、浜松城主となって、街づくりや新田開発などにカをつくした。在任中、五社・諏訪両神社造営の時は奉行となって活躍、ここに花崗岩の手洗鉢[てあらいぼち、手水鉢(ちょうずばち)ともいう]を寄進した。
 五社・諏訪にひとつずつ、銘には「奉寄進 遠江国浜松五社大明神 廣前 党永十五戊寛年五月吉日  高力攝津守従五位下平忠房」とあ
る。諏訪神社のものは社名が諏訪大明神となっているだけであとは全く同じである。

 忠房は寛永15年(1638)年4月に島原に転封となったので、その記念に寄進したのかも知れない。360余年も前に浜松城主が寄進した手洗鉢で手を洗うと何か昔を思い、感慨深いものがある。なお、諏訪神社に寄進されたものは痛みが大きく、別の場所に保管されている。

浜松 五社神社 諏訪神社



 2.花崗岩の方形堵壁(しょうへき)

 五社神社の花崗岩の方形壁は大正時代には上段・中段・下段あわせて162間(約291㍍)あった。高さは6尺(180㎝)から13尺、寸分の狂いもなく、整然と詰まれていた。今は再建工事で少なくなったが、鳥居周辺などに昔の面影が偲ばれる。
 「石になりたや浜松石に、五社のお前に切石に」という謡が残っているが、それほど見事なものである。
当時の石工の技術水準の高さが分かる。一方、旧諏訪神社の南と西側は今も残る浜松城の石垣と同じ野面積み(のずらづみ)の石垣だった。


浜松 五社神社 諏訪神社



 3.光海繋神(うなてりのみたま)の碑

 光海霊神は五社神社の神官であった森暉昌(もりてるまき)の誼号(しごう・死後生前の功績をたたえて、その人につける称号)、暉昌については後述する。
 この碑文は明和4年(1767)5月に建てられた。撰(頼まれて碑の文を書くこと、またはその文)は暉昌に教えを受けた賀茂真淵、真淵は暉昌の功績を述べたあと「幼少のころに教えをうけたが、暉昌は父のようであった」と記している。
 建てられてから既に230余年、碑の痛みはひどく四面にわたって刻まれた文字のうち判読出来ないものも多い。碑文は「浜松市史」全に掲載されているので、これで全容が分かる。現在は保護のため木製の覆屋内に安置くれている。
 寛政9年(1797)に東海道の名所・旧跡などを紹介した「東海道名所図会」が刊行された。浜松では引馬野、諏訪明神社、五社明神社などが載せられているが、なんとこの光海霊神の碑文が全文載せられているのである。作者は秋里離島(あきざとりとう)、この冊子によって光海霊神の碑は全国的に有名になった。ただ、秋里は肝心の暉昌より真淵をほめるために碑文を載せたと記している。

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⑫「五社・諏訪で活躍した人々」

 長い両社の歴史の中では、実に多くの人たちがそれぞれの分野で活躍してきた。江戸初期の建築では、大工・小工の名前が判明しているが、詳細は分からない。彫刻や絵画は当時日本の最高水準のものであったようだが、だれがこの偉業をなし遂げたのか、これまた分かっていない。ここでは神道や文化の面で活躍した社家(しゃけ・世襲の神職の家筋)の杉浦家(諏訪神社)・森家(五社神社)から招介しよう。


 1.杉浦国頭(すぎうらくにあきら)延宝6年(1678)~元文5年(1740)

 諏訪神社の修造のところで少しふれたが、僅か6歳で諏訪神社の大祝となり、神社の修復に努めた。国頭は学問好き、26歳で有名な国学者・歌人で伏見稲荷社の荷田春満(かだのあずままろ)に入門、翌年春満の姪の雅子(後の杉浦真崎)と結婚した。この関係で春満は浜松を訪れるようになり、浜松で国学が興り、和歌の会があちこちで行われるようになった。神道の普及はもちろん、歌集や郷土誌『曳馬拾遺」など著作が多く、賀茂真淵をはじめ多くの優秀な門人を育てた功績も大きい。妻の真崎も和歌に秀で、多くの女流歌人を育てた。また、真淵の師でもあった。子どもの朋理(ともあきら)、杉浦家をついで諏訪神社の大祝となった国満(くにまろ)もともに国学や和歌で優れたカを発揮した。


 2.森暉昌(もりてるまさ)貞享2年(1685)~宝暦2年(1752)

 諏訪神社の杉浦国頭とほぼ同じころの五社神社の神官、社殿の修復のため江戸に出たり、荷田春満の門に入り国学を学んだ。
また、祭神となっている舎人親王の千年祭には祝詞を撰し、この地方の神職として常に指導的位置にいた。国頭同様、真淵の師であり、その功績は真淵の碑文でも分かる。暉昌の次女の森繁子は幼少から父の指導によって和歌を学び、また、国頭の指導も受けた。江戸にいた真淵からも多くのことを学んだ。繁子は歌集「玉かしわ」で五社神社の歴史やその変遷を記している。「・・・御社をいや高にいやひろにつくりまさむとてなん今の岡にゆつ岩むらをしきつみ八百土をつきかため・・・」と常寒山への移転を述べ、五杜松では「君がためいはふやしろにたてる松ひさしき御代のためしなりけり」と歌っている。




「付」 五社神社と諏訪神社の修理工車を担当されお吉岡勇蔵こついては吉村貞司著「白鳳の再現」こ詳しく紹介されている。

 吉岡は文化財修理の技術者で多くの社寺の修理を担当した。晩年には西岡常一と組んで薬師寺金堂の再建を見事になし遂げた。
吉岡が手かけた主なものを記してみる。

<戦前>
 室生寺本堂、石上神宮楼門、登坂寺三重塔、東大寺南大門、春日神社、東大寺転害門、乗妙寺多宝塔、天満神社、五社神社・諏訪神社

<戦後>
 唐招提寺経蔵、慈光院書院、唐招提寺講堂、法起寺三重塔、富貴寺、薬師寺金堂の再建


                    =完=  

 文献参考 五社神社・諏訪神社の歴史、五社神社・諏訪神社御社殿復興工事竣工記念誌等



浜松 五社神社 諏訪神社

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 ※ 画像6枚 現在の五社神社・諏訪神社




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