金的で鬼退治

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承


『日本全国で厄払い』
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金的で鬼退治。
みんなでやりましょう‼️
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◎準備はこれだけ
▶金的(大きさはお任せします)
▶紙片に鬼と書き、金的の裏に貼ります
▶金的を落とす(射る・中てる)
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❶弓神事は、五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う
❷弓・矢には、霊力がある
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❶弓神事
三河地方は古くから弓が盛んに行われてきた地域である。
弓神事は、神社を中心とする村の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼時に行われ、大きさ一寸八分の金的を射止めることでその厄難を取り除くことが目的とされている。
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❷『弓・矢は、それぞれ単独でも霊力があるとされる』
▶「破魔弓・破魔矢」
 破魔矢(はまや)は、お正月に初詣などの際に授与される「縁起を祝うための矢」のことをいいます。「破魔」という漢字が示すように、不幸や災いといった「魔」を破って、幸福に一年を過ごせますようにという願いや、破魔矢が「矢」の形状をしていることから、一年間の好機を射止められますように、といった願いの意味が込められています。
▶「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」
鳴弦の儀は弓を使用した日本の儀礼のひとつ。弦打の儀(つるうちのぎ)とも呼ばれる。弓に矢をつがえずに弦(つる)を引き音を鳴らす事により気を祓う魔除けの儀礼。
魔気・邪気を祓う事を目的とする。
鳴弦の儀が始まったのは平安時代と言われる。元々は天皇家の誕生儀礼として始まり、次第に夜間の警鐘及び滝口武者の名対面の時、天皇の日常の入浴時(蔵人が担当する)、主の病気祓い、不吉な出来事が起こった際など幅広く行われるようになった。
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◆もう少し詳しく
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「弓神事 金的と奉納額」
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三河地方は古くから弓が盛んに行われてきた地域である。それは、永禄三年(1560年)三河地方を治めていた徳川家康が武士階級だけでなく一般庶民にも広く弓を奨励した文書「弓の事」を出したことに端を発するとも伝えられている。弓神事は神社を中心とする村の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼時に行われ金的を射止めることでその厄難を取り除くことが目的とされている。そのため金的とは、悪霊災いを象徴しており金的に矢が当たらないと厄が落ちないといった理由から祭りが始められないと言ったこともあったそうである。神事は、大きさ一寸八分の金的と呼ばれる金色の的を安土に埋め込み参加者が一本ずつ矢を放ち金的を射抜くものである。金的を射止めたものは本殿にて神主よりお祓いを受け「謹奉鵠中」と記された額を翌年奉納することとなる。この奉納額には、流派・師範名・奉納者氏名・住所等が、「謹奉鵠中」と言う文字とともに入れられ、神社の拝殿や舞台等に掲げられることが多い。一度の祭礼に一人しか掲げることのできない金的中の額を神社に奉納する事は、弓引きにとって名誉なことであり憧れでもあった。こうした弓の神事は、三河地方のみならず隣接する遠江・信濃・恵那地方にも影響を与えたと考えられる。また、弓の神事は地元の住民だけで行われるものではなく、奉納額の出身地を見ると尾張、美濃、信濃、遠江などの弓引きが神事に参加していたことがわかり、弓を介して実に広い地域と交流していたことを知ることができる。また、明治期から昭和初期にかけて弓を引く事は民衆の間にさらに広く普及し、嗜み・楽しみとして弓が盛んに行われるようになっていったことがわかる。こうした弓の神事は現在、金的奉納額からもその実態を知ることができる。『三河風土記 上』によると三河地域において現存する金的中奉納額の中で最も古いものは、岡崎市の六所神社に収められている永禄七年(1564年)のものである。他にも天文十五年(1546年)に奉納された額もあったといわれている。そのため十六世紀半ばには、三河地方の神社で弓神社が行われていたことが分かる。
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#弓道 #弓術 #日置流雪荷派 #要石
#後ろ戸 #地鎮 #閉じ師 #結び師
#すずめの戸締り #徳川家康 #どうする家康



金的と鬼と書いた紙片



三河日置流雪荷派牛久保矢場の金的神事 (金的は一寸八分 桧葉三本を山成に立てる)



金的は面頬(めんぽう)から覗く人の目の大きさ
因みに尺二は鎧胴の大きさです



各矢場に立てられている金的の高札



祭礼時、八幡棚に祀られ金的



射止められた金的



矢場に掲げられた奉納額






 

齋藤彦徳師範追善射会 令和5年12月9日

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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日置流印西派作手十二所神社矢場元
『齋藤彦徳師範追善射会』
令和5年12月9日(土)
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日置流印西派齋藤彦徳師範の追善射会に参加。
愛知県新城市作手高里。
この地域の12月と言えば、雪が降り凍てつく寒さの日もあると言う。
しかし、この日は違った。
日向に出れば暖かな陽気で、まさに齋藤先生が出迎えてくれたような温和な追善射会となりました。
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「齋藤彦徳師範」
新城市功労者の1人で元作手村教育長
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 齋藤先生さんは、小中高と生まれた作手地区で育ち、昭和35年作手村役場の職員となりました。平成5年3月~11年9月までの約6年半、教育長を務めました。「歴史が伝わってきた韓国との交流が大切」と、作手中学の韓国への修学旅行を始めました。
 弓道5段で、後輩の指導にもあたり、海外旅行にもよく出かけたそうです。若い頃から歴史に興味を持ち、古文書の研究をし、講演も行ってきました。幕末の新城城主菅沼定邦の用人・池田主鈴寛親の随筆古文書を解読した「池田主鈴寛親」、戦国時代の三河の合戦をまとめた古文書を解読した「三河国軍(いくさ)物語」などを自費出版しています。
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息子さんの話
(齋藤雅彦さん/日置流印西派)
 「ユーモアがあり、好奇心旺盛で頭の回転の早い人だった、誰とでも話をし、のんびりしていることはなかった」と振り返り。
『歴史は繰り返す。歴史を学ばん人はだめだ』と言っていた」と思い出を話して頂きました。
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銀的(追善)は、日置流雪荷派の水野義博さんが見事射抜かれた。
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※画像はランダム掲載






























▶生前の斎藤先生











 

星野 誠師範追善射会 令和5年11月28日

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承


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「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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大和流桜形矢場元
『星野 誠師範追善射会』
令和5年11月28日
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大和流桜形矢場元星野誠師範の追善射会に参加。
私は晩年の星野先生しか知らないが、
一昨年亡くなられた私の師匠の山本先生と、若い頃弓を手にあちこちの矢場に行っては弓を引いたという話をニコニコしながら話してくれたお姿を忘れることはない。
この日は、桜形門人の方々をはじめ、他流の師範や門人ら38名が参加した。
また銀的中は、日置流雪荷派の内藤茂さんが見事射抜かれた。
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※古流において祝儀は金的。不祝儀は銀的を用いる。的寸法は金、銀とも一寸八分(約5.4cm)である。
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「三河日置流雪荷派追善的の概要」
・矢場内は白幕で覆う
・安土に御幣は立てない
・本置は金的ではなく銀的(一寸八分)を使う
・杉の葉の枯葉を使う
・星的は使用しない(白的)
・弦輪の赤は白布を巻いて隠す
・矢もなるべくなら白羽を使う
・参加者全員が各自の流儀にしたがい一手射礼する
・位上げ的中時、「お祝い」の言葉はかけない
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神谷昌志先生ご逝去 令和5年11月24日

カテゴリー │遠州鎧仁會

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆
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『神谷昌志先生ご逝去』
 令和5年11月24日
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 神谷先生が亡くなられた。
遠江の歴史、昔話、逸話、伝承、噂話などなど。たくさんのお話を聞かせて頂いた。
神谷先生の本を読んでは疑問に思うことを聞きに行った。
遠州鎧仁會のことも、自ら取り立ててくださった。
毎年毎年、年賀状をくれた。
本当に、感謝しかありません。
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神谷先生。
ありがとうございました。
今度お会いした時は、天国で徳川家康公にお会いした時のお話を聞かせてくださいね。
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神谷先生とは→
https://superchurchill.ie-yasu.com/books/HollyValley.html
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豊川稲荷秋季大祭 令和5年11月19日

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

おとなの弓日(きゅうじつ)
流派弓術の継承
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『豊川稲荷秋季大祭』
令和5年11月19日
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日本三大稲荷の一つ。豊川稲荷さんの秋季大祭(射会)に参加。
参加人数は36人。
神事的そして余興的が行われた。
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金的は、大和流の加藤啓一さんが見事射抜かれました。
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お稲荷さんでのお昼ご飯は、精進料理を頂くことができます。
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主催者の皆様。稲荷さん、関係者の皆様。大変お世話になりありがとうございました。ご馳走様でした。
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第24回信長公黄葉まつり 令和5年11月12日

カテゴリー │遠州鎧仁會古式砲術(駿府鉄炮衆)

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆
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『第24回信長公黄葉まつり』
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(日)
第24回信長公黄葉まつりに参加。
このところはコロナ禍対策として2年間の開催中止。前回は開催はしたものの大幅な時間短縮。そして今年はいよいよ短縮のないフル開催となりました。会場の西山本門寺には沢山のお客様のご来場がありました。
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遠州鎧仁會、おかげさまを持ちまして「境内お持て成し」、「駿府鉄炮衆火縄銃演武」、怪我なく事故なく無事役目を終えることができました。
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関係者の皆様。
毎回の計画とご準備等、本当にご苦労様です。
いつもいつもお世話になり本当にありがとうございました。
また来年も宜しくお願い致します。
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大道芸ワールドカップin静岡& 駿府城公園お持て成し 令和5年11月4日

カテゴリー │遠州鎧仁會

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆
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『大道芸ワールドカップin静岡』&
『駿府城公園お持て成し』
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ストリートパフォーマンスの祭典「大道芸ワールドカップin静岡」が11月2日〜5日までの開催期間となっている中、遠州鎧仁會は4日、駿府城公園内の一角にあります「坤櫓(ひつじさるやぐら)」を中心にご来城くださるお客様を持てなした。
この週末は暑いくらいのお天気になっておりましたが、市内外から本当に多くのお客様が大道芸を楽しみにご来場くださいました。
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またそんな中、私達が来ているという情報を得て、わざわざ会いに来てくださるお客様がいらっしゃったということとても嬉しく思います。
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最後に。
坤櫓、静岡市歴史博物館、大道芸関係者の皆様。スタッフやボランティア皆様。お疲れ様でした。
また、ご来城の多くのお客様方。
ありがとうございました。
また来年、お会い致しましょう。
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天竜産業観光まつりと信康行列 令和5年11月3日

カテゴリー │遠州鎧仁會

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆
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『天竜産業観光まつりと信康行列』
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令和5年11月3日
本日、浜松市天竜区で開催された「天竜産業観光まつり」に参加。

11月とは思えぬ暖かすぎる一日となった天竜産業観光まつり。連休初日の好天気。物産展など出店数も多く確かに賑わっていた。
しかし、4年ぶりに復活した、私達にとっては肝心の『信康行列』。
んーん、、。
この先、どこへ向かっていくのだろう。
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第33回 峠の国盗り綱引き合戦 令和5年10月22日

カテゴリー │遠州鎧仁會

◆遠州鎧仁會
Ensyu-Gaishinkai◆
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サントリー地域文化賞
『第33回 峠の国盗り綱引き合戦』
遠州軍(浜松市)
VS信州軍(飯田市)
両県の領土をかけた戦い
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<合戦時>
令和5年10月22日(日)
<戦場>
ヒョー越峠(静岡・長野県境)
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遠州軍総大将 中野祐介浜松市長
信州軍総大将 佐藤健飯田市長
行事     森田康夫豊橋市副市長
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浜松市の「遠州軍」と長野県飯田市の「信州軍」が互いの領土をかけて戦う「峠の国盗り綱引き合戦」、両軍の応援に参加。
今年で第33回目を迎えた「峠の国盗り綱引き合戦」、新型コロナの影響で実に2019年以来4年ぶりの開催。
ルールは3回勝負の綱引きに勝った方が1メートル“国境”を広げるというもので、これまでの戦績は遠州軍15勝に対し、信州軍17勝です。
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直近2連勝中の遠州軍は、さらに国境を戻そうと必死に綱を引きます。
また今年は、浜松市、飯田市とも新市長を迎えての初戦。
両新市長とも、どちらが初陣を飾るかも注目となりました。
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1戦目、2戦目ともに引き分け。そして、運命の3戦目、終盤まで互角の戦いでしたが、最後は信州軍に軍配が上がり、領土をさらに1m伸ばし、3mの位置に付けました。
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SBS静岡放送ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab94b10b032440c7c9b2bf6a7bcb6927cdcfb88f
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遠州軍、信州軍の関係者の皆様。
この度も大変お世話になり本当にありがとうございました。




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草薙神社秋季弓道大会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承


「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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「草薙神社秋季弓道大会」
静岡市草薙神社
令和5年10月1日(日)
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静岡市草薙神社で開催された秋季弓道大会に、前日の護国神社にてお誘いを受け急遽初参加することになり行って参りました。
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ご縁か、導きか。
それとも成る可くしての出来事なのか。
行って良かった〜。
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▶友との再会
甲冑仲間(殺陣チーム)との6年ぶりの再会。
▶初めての三段的
今回は惨敗。次回は攻略します。
▶日置流印西派遠州系
皆さん、しっかりと歴史や伝統を継承されているようです。
第十九代宗家木下様からは、これからは横の繋がりを大切に致しましょう。と仰せつかりました。
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・静岡市草薙神社
・三段的(中段→上段→下段)
  各四ッ矢×1回 計12射 
・五色鬼板的→5枚
・参加者73名(10位まで入賞)
・伊藤結果→ 中段0中、上段1中、下段2中 計3中(順位付かず)惨敗
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日置流印西派遠州系の皆さん。
大変お忙しい中お相手くださりありがとうございました。
近く是非お稽古に参加させてください。
また、ここにお誘いくださいました皆さん、本当にありがとうございました。感謝です。
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「甲冑画像」
川中島合戦戦国絵巻(山梨県)
山中城まつり(静岡県)
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「草薙の剣」
https://kusanagijinjya.jp/
 国史社伝によれば、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は東国の蝦夷がそむいたので平定するために吾嬬国に赴きました。しかし途中で逆賊が原野に火を放って日本武尊を焼き殺そうとします。 日本武尊は出発の折に伊勢の神宮へ参拝し、おばである倭姫命より頂いた剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払うように唱え、祓いて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払ったところで手打石により火をつけました。その火は逆に逆賊の方へなびいて日本武尊は無事に難を切り抜けることが出来ました。
そして日本武尊が草を薙ぎ払い難を逃れたこの土地を草薙と呼ぶようになり、その時に日本武尊が持っていた剣は天叢雲剣から草薙剣と呼ばれるようになりました。 草薙剣は三種の神器の1つとして現在も今上天皇に代々受け継がれています。



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川中島合戦戦国絵巻
山中城まつり





















 

清水弓道会秋分射会 2023年

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承


「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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清水弓道会秋分射会(お月見射会)
令和5年9月23日(土)
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先日、静岡市清水区で開催された、清水弓道会秋分射会に初参加。
参加人数は120名の大盛況。
西は湖西市、東は富士市や山梨県からの参加もあり、こちらの弓道場はコロナ禍や道場の耐震工事などを経て約4年ぶりの開催とのことでした。
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競技の内容はというと、、。
まずは、尺二的で四ツ矢を2回。
昼食を挟んで、最後に八寸的に金の紙を貼った的で四ツ矢を一回。の計12射。何射的中したかを競う。
賞品は、1位〜5位。6〜20位。
飛び賞、BB賞、他多数。港町清水ならではの海産物、缶詰製品、フルーツなど盛り沢山の賞品でした。
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清水弓道会の皆様。
会場設営や盛り沢山の賞品準備や当日運営等本当にご苦労様でした。
おかげさまで楽しい一日を過ごさせて頂きました。
ありがとうございました。
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▶ 清水弓道会秋分射会(お月見射会)
▶令和5年9月23日(土)
▶静岡市清水総合運動場 弓道場
▶参加者120名
▶尺二→四ツ矢×2回=8射(立射)
▶八寸→四ツ矢×1回=4射(立射)
▶表彰 20位まで入賞
  皆中賞→GET ×1
  飛び賞、他
▶お弁当→各自
▶伊藤結果→尺二8射7中、八寸4射3中 計12射10中(同中2人→遠近競射→3位)



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牛久保八幡社・陰祭り 2023年

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承三河日置流雪荷派牛久保矢場


おとなの弓日(きゅうじつ)
流派弓術の継承
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『牛久保八幡社・陰祭り』
愛知県豊川市
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 令和5年9月10日(日)
愛知県豊川市で開催された牛久保八幡社、常在館(日置流雪荷派牛久保矢場)の神事的に参加。
参加といっても私はこの矢場の門人であるから今回は他流派の弓引きを持て成す側である。
前日は準備。当日はお持て成し、もちろん弓も引く。
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また、今回の「金的中」は同門の永井 操さん(女性)が見事射抜かれました。
が、しかし今回の金的はこれで終わりでなかった。
神事的では、金的(一寸八分)の次に行われるのが三番的(五寸八分)。
この三番的に甲乙の二本を射中てること。これを『金皆中』(きんかいちゅう)という。
この偉業を成しとげたのである。
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「金的中」
あなたの努力を見ていた神様からの贈りもの
『金皆中』
神様が見てない時でも努力し、自ら掴み取ったあなたの誇り
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「弓祭り」
愛知県東三河地方に古くから伝わる「お祭り弓」と呼ばれる神事を紹介します。
戦国時代に徳川家康の予備軍として、 百姓、町人が弓を引くことを許可されたこの地域は江戸時代から「勧進的」という射会が神社仏閣において開催されてきました。当時は庶民の大きな娯楽のひとつだったようです。 また、日置流雪荷派、日置流印西派、大和流などの古流弓術の伝統も残しています。
日本の様々な歴史や文化は私たちに残された財産です。継承していくことが大切だと思います。
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※詳しくはコチラ⇒『弓祭り』http://www5b.biglobe.ne.jp/~fes/index.htm#kin



















































 

渡邉二朗先生免許披露射会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承三河日置流雪荷派牛久保矢場

「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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三河日置流雪荷派牛久保八幡社矢場
『渡邉二朗先生免許披露射会』
令和5年7月16日(日)
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我が三河日置流雪荷派牛久保八幡社矢場一門として、新師範に襲名した渡邉二朗さんの免許披露射会に参加した。
参加は愛知県内と静岡県西部の矢場、そして九州島原と台湾の洪さん(女性)の総勢38名。
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私は50代に入ってから弓をはじめ、後に三河日置流雪荷派牛久保八幡社矢場の門人になっているが、そもそもはこの渡邉二朗さんに出会っていなければ、またそれが三河の日置流雪荷派でなければ、今現在私が弓をひくことはなかったであろう。
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そして、今日のこの日。
私にとっては新師範のお祝いだけではなく、この日から新たな挑戦が始まるということなのだ。変えてはならぬこと。変えなくてはならぬこと。新たに取り入れていくこと。さまざまなこと。やるべきことがあるのだ。
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この日の金的中は、日置流雪荷派田中實門人の朝倉伸征さんが見事射抜かれました。流石、お手柄でした。
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早川宏明先生免許披露射会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

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「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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三河日置流雪荷派
『早川宏明先生免許披露射会』
令和5年7月2日(日)
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三河日置流雪荷派伊知多神社矢場にて新師範に襲名した早川宏明さんの免許披露射会に参加した。
参加は愛知県内と静岡県西部の矢場からの総勢62名。
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昨今、流派名や斜面打起しなどの射法はあれど、徳川家康公の時代から弓を執った人々が、江戸時代には神社の矢場に師範を置き門人制度を守りながら古流の風習や射術を継承しているのはこの地方独特な文化であります。
また今年は伊知多神社をはじめ、一つの節目として新たな師範への継承が続きます。
私も縁あってこの古流弓術の一門である以上、継承、存続へ少しでもお役に立てるよう頑張っていきたいと思います。
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この日の金的中は、日置流雪荷派松田直人門人の、花井聡さんが見事中てられました。
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柴田和志氏追善射会

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

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「おとなの弓日」
流派弓術の継承
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三河日置流雪荷派
『柴田和志氏追善射会』
令和5年6月25日(日)
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三河日置流雪荷派豊川八幡宮矢場柴田和志氏の追善射会に参加。
お天気も良く、柴田さんを偲びながらの穏和な射会に参加することができました。
この日の銀的は、日置流雪荷派の早川宏明さんが大前にて見事射抜かれました。
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▶追善射会(ついぜんしゃかい)とは、生きている人が亡くなった人の冥福を祈って行う射会のこと。
※開催主はご家族と所属矢場。
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「三河日置流雪荷派追善射会の概要」
▶公文(主催者)
・矢場内は白幕で覆う
・本置時、安土に御幣は立てない
・本置は金的ではなく銀的(一寸八分)を使う
・杉の葉は若葉ではなく枯葉を使う
・星的は使用しない(白的)
・位上げ的的中時、「ご褒美・お祝い」ではなく、「ご褒美」とだけ発声する
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▶参加者
・弦輪の赤は白布を巻いて隠す
・矢もなるべくなら白羽を使う
・参加者全員が各自の流儀にしたがい一手射礼する
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ライオン少年/雄獅少年

カテゴリー │My Favorite/私の好きなもの

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「My favorite」
(私の好きなもの)
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映画 『ライオン少年/雄獅少年』
https://gaga.ne.jp/lionshonen/
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☘️題材、内容、映像、音楽、どれも素晴らしいです。映画館で観るべき。超お勧めです。
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2021年中国大ヒット&作品満足度No.1‼️
中国獅子舞競技に魅せられた少年達の熱き物語を世界クオリティのCGアニメーションで描く獅子舞バトル・アクション・エンターテイメント
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▶Story
「僕らには、たった一度のチャンスもないのか?」
 片田舎で出稼ぎをしている父母の帰りを持つ貧しい少年チュンは、ある日、華麗な獅子舞バトルで屈強な男を倒した同じ名前の少女チュンから、獅子頭を譲り受けた。チュンは、ちょっぴり情けない仲間のマオやワン公と獅子舞バトル全国大会を目指すことを決意する。
飲んだくれの元獅子舞選手チアンを口説き落として師匠に迎え、その妻アンジェの励ましを受け、特訓の日々を送る。しかし、大会目の前でチュンの父が病に倒れてしまう。一家を支えるためには、チュンが出稼ぎに行くしかない。大都市での労働は夢を追う時間もないほどに過酷だった。疲れ果てたチュンの前に、あの少女が再び現れた。
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▶中国獅子舞
 中国獅子舞は、武術・技芸・演劇の特長をあわせもった民間芸術の一つです。古来より人々に親しまれ受け継がれてきました。
獅子は神に忠実に仕える勇猛な聖獣として親しまれ、 幸福を呼び寄せ厄を払うと信じられ中国各地に浸透、祝い事で舞われてきました。
中国の伝統的観念や武術の精神を持ち、強さを表わし弱いものを助けるといった勇敢・賢さを象徴しています。 頭をかんでもらえると、「無病息災」や「健康長寿」の御利益があるといわれています。
南北の流派があり、本作は南派。色鮮やかで表情豊かであり、雄々しい動きが特徴です。
現在では中国国家級無形文化遺産にも指定されているほど強く文化として根付いています。
本作で描かれているのはまるで本物の獅子のようにアクロバティックで躍動感に溢れ、まさに“獅子舞バトル”という言葉にふさわしい熱く激しい争闘です。
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※私は静岡シネギャラリーへ
※TOHOシネマズららぽーと磐田では上映終了となっております。
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#静岡シネギャラリー
#tohoシネマ
#ユナイテッドシネマ




























 

金的中奉納額 『書/梅谷彩雲』

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承



おとなの弓日(きゅうじつ)
~流派弓術の継承~
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金的中奉納額 『書/梅谷彩雲』
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梅谷彩雲プロフィール
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幼少期より書道を学ぶ。
16歳で出家得度し、仏門に入る。
高校時代には、全国高等学校総合文化祭書道部門に出品、出場するほか、
同時期に市や県の芸術祭等の各展覧会で入選、入賞。
大学時代には浜松市芸術祭で大賞を受賞。
平成14年に個展を開催する。
平成16年から静岡県の公立高等学校国語科教諭として16年間勤務し、
書道部顧問として実技指導のほか、県高等学校文化連盟書道専門部理事・県大会書道展委員長などを務める。
令和2年「虹嶺庵」を開業、書家として本格的な活動を始める。
現在は、「虹嶺書法會 彩雲書道教室」を主宰し、実技指導のほか、作品の創作、書道の普及活動を行っている。
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虹嶺書法會・彩雲書道教室主宰
日蓮宗教師
文部科学省認定毛筆書写検定1級
文部科学省認定硬筆書写検定1級
讀賣書法展・謙慎書道展等多くの展覧会で入賞入選
ホテル館内装飾、ポスター題字、店舗ロゴ、店内装飾、チームロゴ制作など多数手がけている。






















 

金的中奉納額 令和5年

カテゴリー │おとなの弓日/流派弓術の継承

おとなの弓日(きゅうじつ)
~流派弓術の継承~
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『金的中奉納額』
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来年4月豊川八幡宮へ奉納
来年5月豊川市一宮砥鹿神社へ奉納
書 梅谷彩雲
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「弓神事 金的と奉納額」
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三河地方は古くから弓が盛んに行われてきた地域である。それは、永禄三年(1560年)三河地方を治めていた徳川家康が武士階級だけでなく一般庶民にも広く弓を奨励した文書「弓の事」を出したことに端を発するとも伝えられている。こうして祭礼の奉納弓射や神社の修繕等に際して弓が引かれることが多くなっていた。弓神事は神社を中心とする村の五穀豊穣、村中安全、無病息災を願う祭礼時に行われ金的を射止めることでその厄難を取り除くことが目的とされている。
そのため金的とは、悪霊災いを象徴しており金的に矢が当たらないと厄が落ちないといった理由から祭りが始められない山車が神社から出られないと言ったこともあったそうである。神事は、大きさ一寸八分の金的と呼ばれる金色の的を安土に掲げ参加者が一本ずつ矢を放ち金的を射抜くものである。金的を射止めたものは本殿にて神主よりお祓いを受け「謹奉鵠中」と記された額を翌年奉納することとなる。この奉納額には、流派・師範名・奉納者氏名・住所等が、「謹奉鵠中」と言う文字とともに入れられ、神社の拝殿や舞台等に掲げられることが多い。一度の祭礼に一人しか掲げることのできない金的中の額を神社に奉納する事は、弓引きにとって名誉なことであり憧れでもあった。こうした弓の神事は、三河地方のみならず隣接する遠江・信濃・恵那地方にも影響を与えたと考えられる。また、弓の神事は地元の住民だけで行われるものではなく、奉納額の出身地を見ると尾張、美濃、信濃、遠江などの弓引きが神事に参加していたことがわかり、弓を介して実に広い地域と交流していたことを知ることができる。また、明治期から昭和初期にかけて弓を引く事は民衆の間にさらに広く普及し、嗜み・楽しみとして弓が盛んに行われるようになっていったことがわかる。こうした弓の神事は現在、金的奉納額からもその実態を知ることができる。『三河風土記 上』によると三河地域において現存する金的中奉納額の中で最も古いものは、岡崎市の六所神社に収められている永禄七年(1564年)のものである。他にも天文十五年(1546年)に奉納された額もあったといわれている。そのため十六世紀半ばには、三河地方の神社で弓神社が行われていたことが分かる。
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引間城・城主と浜松まつり

カテゴリー │遠州鎧仁會お城神社・寺・史跡

「引間城・城主と浜松まつり」


浜松まつりとの関係 郷土史家らは懐疑的な見方

浜松まつりの起源は、飯尾連龍の子「義廣」の誕生を祝って凧揚げをしたことが理由などととして紹介される。
しかし、このことに関して確固たる根拠、資料などない。
伝承が史実かどうかについて、「郷土史家らは懐疑的な見方」である。



飯尾氏四代の名前

 長連(おさつら)
 賢連(ただつら)
 乗連(のりつら)
 連龍(つらたつ)


戦国武将の名にみられる通字(とおりじ)。
徳川氏は、家康公の「家」が通字。 
飯尾氏の場合、通字は「連」になる。

「連」が四代も続いたのに、なぜ「義廣」なんでしょう?







東漸寺 2016年撮影






 

引間城 と 飯尾氏四代

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「引間城 と 飯尾氏四代」

乱世に生きた引間城飯尾氏四代

 長連(おさつら)-賢連(ただつら)-乗連(のりつら)-連龍(つらたつ)と続く飯尾氏歴代は室町後期における浜松地方の有力な武将であった。
引間城(浜松市元城町)を本拠とした飯尾氏は四代にわたって西遠の一角を支配、それは波乱にとんだ戦国武将としての生き様をした。
長連(おさつら)は今川氏のために討死にし、連龍(つらたつ)は今川に謀殺されている。まさに戦国乱世の縮図を飯尾氏の消長に見ることができる。

 浜松城が徳川家康によって構築される以前この地方の中心に位置して構えられていたのは引間城であった。浜松城の東北四〇〇メートルほどの位置に元城町の氏神である元城町東照宮が鎮座している。その元城町東照宮の境内を中心とする一帯が引間城址である。現在引間城祉には銀杏の巨木をはじめ、楠、椎、松、ユーカリなどの大樹が枝を広げ、市街地の中心に潤いある森を生み出しており、昭和五十三年十月、浜松市の保存樹林の指定を受けている。引間城祉の西側は国道152号線をはさんで浜松城公園駐車場やホテルコンコルド等の高層ビルが見られるが、太平洋戦争前は、引間城祉周辺は深い谷になっており、古城としての面影をとどめていた。


引間城の築城は謎

 引間城が何時頃、誰によって築かれたのかこれを明らかにする史料がないが、室町の初めにはすでに三河の豪族吉良氏の流れをくむ一族が城砦をこの辺に構えていたもののようで、
やがて浜松庄の領家吉良氏の代官として大河内備中守貞綱が引間城に在城するようになったようである。引間城について諏訪神社の神官であった国学者として知られる杉浦国頭(すぎうらくにあきら)は著書「曳馬拾遺(ひくましゅうい)」の中に次のように書いている。
「古城、この城は引間の城という、その築かれし初め定かならず、或記に久野佐渡守末子越中守家進、永正の頃、三善為連(みよしためつら)と言う人城にとりたてけるよし見えたり。又或記に永正の頃、三河の国臥蝶城主大河内備中守貞綱、引間の城を築き、斯波武衛等加勢して駿河の今川をは拒む・・・」築城者は明らかではないが、引間の城は室町時代の中頃に築かれた城のようである。



引間城 2012年撮影





飯尾氏の系譜

 さて遠江における武将の一人として飯尾氏の名がはじめて登場するのは今川氏親(いまがわうじちか)の時代である。氏親が遠江に入国した当時、飯尾善左衛門尉長連が引間の奉行として浜松の地にあった。飯尾氏はもともと室町幕府の奉行人であったようで遠江浜松入りは今川氏の招きによるものであった。当時の遠江は土豪たちが強い勢力圏をもっていただけに、今川氏としてはそれを押えてゆくのに精一杯であった。わけても中遠から東遠にかけては横地、勝間田の両氏が反今川色を打ち出し、氏親の子義忠の代わりになり横地、勝間田は狩野介の居館(磐田市見付)にたてこもって抵抗した。義忠は見附にこれを攻め、激しい闘いの末、横地、勝間田の両氏を滅亡においやった。

だが駿河への帰陣の途中で、義忠は横地氏の残党に襲われ、塩買坂(小笠郡小笠町)において討ち死にしてしまった。この戦いの時義忠と行いを共にしていた飯尾長連も討死にしていることが「今川記」や「宗長日記」に見えている。
この連歌師宗長が書き綴った「宗長日記」は戦国期の駿遠の動きを知るえで、きわめて良質な史料とされており、飯尾氏の事も登場する。

すなわち「宗長日記」大永二年(1522)の「朝比奈戦忠の次第」の項の中には次のようにみえてくる。
「浜松庄吉良殿御知行奉行大河内備中守、堀江上野守にくみしてうせぬ。其刻、飯尾善四郎賢連、吉良より申し下され、しばらく奉行とす。すべて此父善左衛門尉長連、義忠入部の時に、当庄の奉行として、度々の戦忠、異他なり。あまつさえ、義忠帰国の途中にして凶事。名誉の防矢数射尽し、則討死。其子善四郎乗連、伯父善六郎為清其旧号わすれたまはず。」
この一文によって飯尾氏の系譜も判る。遠江における飯尾氏の初代飯尾善左衛門長連が、塩買坂において討死してのち、引間奉行として引間に往来したのが大河内備中守貞綱が引間城の築城者と考えられるとしるされている。大河内備中守貞綱はやがて今川氏親に反抗したため、氏親はこの城を攻め、備中守は逃亡したことが諸書にみえており、そのあとの引間の奉行として今川氏が任命したのが、塩買坂で討死して長連の子善四郎賢連である。かくして賢連は浜松庄の代官として引間城に入り、以後引間城は賢連からその子善四郎乗連へ、そしてさらに連龍へと時代の流れをみる。


飯尾ゆかりの東漸寺

 浜松市向宿町に寿量院という臨済宗方広寺派の寺がある。この寺に残されている中世文書六点が浜松市の文化財(古文書)に指定されているが、そのなかに飯尾乗連と飯尾連龍が授龍庵(寿量院)あてに発した寺領安堵の判物があり、天文から永禄にかけて飯尾氏が今川を背景として大きな力をもっていたことがうかがわれる。
ところが、永禄五年(1562)今川氏真が突如として引間城の飯尾連龍を攻撃している。連龍が今川氏に反抗の動きをしたからである。今川氏は義元が尾張国(愛知県)桶狭間で討死して以降家運がにわかに斜陽化、義元が討死した永禄三年(1560)の翌年になると飯尾豊前守連龍は、浜名湖の井伊氏等と共に、織田、徳川方に従属する動きをみせた。これを知った今川氏真が永禄五年(1562)二月に引間城に連龍を攻めたのである。このときの寄せ手の大将であった新野左馬助は討死した。一方城側も多くの死傷者を出し、飯尾氏の家臣渥美、森川、内田といった面々が討死している。
当時の引間城がどれほどの規模であったものか明確ではないが、江戸期に描かれた浜松城絵図のなかに「古城」として記入されている一部が引間城のあととされている。今でこそ周辺の谷が埋めたてられ、小高い丘陵といった感じだが、昔は自然の地形を巧みに利用した要害の城であったと思われる。

東漸寺 2016年撮影






連龍、悲運な最後

 永禄五年(1562)の攻防戦は守りが固く、今川氏真はこの城を落とすことができず、結果和睦の形で幕がおろされた。しかし氏真は飯尾連連に対し深い疑念を抱いていたため、永禄八年(1565)十二月、連龍を駿府に呼び寄せ、城内の一角において謀殺してしまったのである。わずかな共の者を連れただけの駿府入りであったため、氏真の奇略の前に逃れることができず、悲運の最期をとげたのだった。その後の引間城は、飯尾連龍が殺害されたことにより大きくゆらいだ。家老の江間安芸守と江間加賀守の対立はこの城の瓦解に拍車をかけ、やがて永禄十一年(1568)德川家康の浜松入りによって引間城は家康の掌握下に入った。四代にわたった飯尾氏の遺風は引間城の廃城によって完全に消え去った。
引間城に入った徳川家康はこの城を遠江経略の拠点とするには規模が小さすぎるとし、西側にある独立丘陵まで拡張し引間城の旧城地は浜松城内に抱擁した。
江戸時代、引間城には米蔵がおかれていたことが城絵図によって判る。
   (参考 遠江武将物語/神谷昌志)

飯尾氏は、初代飯尾善左衛門長連(1522年)から、賢連、乗連、連龍(1565年)へと飯尾氏四代、43年にわたり城主として引間城に在城していた。

また、引間城と飯尾姓にまつわるおもしろいデータがある。
電話帳データ静岡県内約150件のうち、約130件が浜松市内に集中し、特に引間城のある浜松市中区では、1位高林地区、2位曳馬地区で64件もあるのだ。
飯尾氏か、またその一統か、何らかの関わりがあることは間違いないだろう。


浜松まつりとの関係 
「郷土史家らは懐疑的な見方」

浜松まつりの起源は、飯尾連龍の子「義廣」の誕生を祝って凧揚げをしたことが理由などととして紹介される。しかし、このことに関して確固たる根拠、資料などない。伝承が史実かどうかについて、「郷土史家らは懐疑的な見方」である。


飯尾氏四代の名前

 長連(おさつら)
 賢連(ただつら)
 乗連(のりつら)
 連龍(つらたつ)

戦国武将の名にみられる通字(とおりじ)。
徳川氏は、家康公の「家」が通字。 
飯尾氏の場合、通字は「連」になる。

「連」が四代も続いたのに、なぜ「義廣」なんでしょう?